奴隷としてのアイデンティティとその喪失

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 頬を掠めた弾丸は勢いを留めずに突き進み、彼の喉笛を抉り抜いた。
 目の前で飛び散った赤が頬を濡らし伝い落ち、
 彼が紡ぐ筈だった言葉が、永遠に喪われたことを、知った。

 叫びながら伸ばした掌から拳銃が落ち、地面を転がった。
「……ッ、はか、博士!」
 背中から壁に倒れ込み、ずり落ちる彼を慌てて支える。支えきれない。重い身体を抱え込もうとして、諸共に壁に凭れかかった。背中に回した腕が壁に挟まれ圧迫に痛み、溢れる血が身体を濡らす。そんなことなど、欠片も気にならない。
「博士! 大丈夫ですか、博士!」
 腕の中の身体を、自分よりも大きい身体を揺すりながら必死に声をかける。揺すられれば同じように揺れる身体、返らぬ返事。突き付けられた現実の感触は酷く確かだったのに、それでもそれを認めるのには時間がかかった。
 そのための時間が、マリアットに与えられるはずもなかった。
「ん、あれ? あれあれあれれれ? 何してんの、何しちゃってんのマリアットちゃん?」
 聞こえたのはけたたましい哄笑だった。耳をざわつかせるような不快な音は、人を嘲笑うものに相違ない。
 彼を銃弾を襲ったのなら、引鉄を引いた者がいる。当たり前のことにすら気付けないほどにマリアットは動揺していて、騒々しいその声に簡単に煽られた。
 拳銃を掴み振り返る。
「デッカー、貴様……っ!」
 振り向きざまに相手に向けようとした銃は蹴り上げられて宙を舞った。蹴り上げられたということは即ちそれほどにまで接近を許していたということで、それにすら気付けなかった事実にマリアットはやっと自らの動揺を悟る。悟ったとて覆い隠せるものでもなかったが。
 むしろ動揺が動揺を生む。為す術もなく襟首を掴み引き上げられたと思うと壁に叩き付けられ、咳き込みながら顔を上げたマリアットが見たものは地面に頽れた彼に銃を突き付けるデッカーの姿だった。
 反射的に身体が動いた。何も考えずに地を蹴り飛び出す。体勢もろくに整える暇もないまま、銃口と力無い身体の間へと割り込む。
「あ、ぐぅ!」
 肩口を抉る衝撃にバランスを崩し、倒れ込んだ感触はぐにゃりと奇妙で、また、濡れていた。慌てて起き上がろうとして背中を踏み付けられる。
 背中を踏み躙る靴の硬さと、必然的に押し付けられる身体の柔らかさ。
「今のはちょーっと大分言い訳出来ないよねー」
 意味もなく明るい、薄っぺらい声だった。仰向けに倒れた彼の咽喉から溢れる血が胸元を浸して、その生温かさは人間のものである筈なのに、酷く重苦しい。
 目の前に突き付けられた死の、恐ろしく気詰まりな重さ。
「分かってる? 自分が何したか分かってんの、マリアットちゃん、……ねえッ!?」
「っが……!」
 頭を強かに蹴り飛ばされ脳が揺さぶられた。同時に思考も感情も掻き乱されて、夜闇に慣れた筈の視界が光を失っていく。
「庇うってどうなん? 粛清対象だよ、本人目の前にして突っ立ってるって時点で訳分かんねーのにさ。……しかももーくたばっちまってんのによ」
 揺らぎ落ちかける意識の際でマリアットを繋ぎ止めたのは、未だ温もりを失わない、けれど力の抜けた身体から流れる血の感触。
 その液体の生温さが、彼の心に火を灯した。
「―――ッ」
「んあ? ――っと!」
 腰のベルトから抜いたナイフで、自分を圧してくる足を振り払う。コンマ数秒の差で上げられた足をその刃が掠めることはなかったが、背中の圧迫が失われたことで身体は目に見えて軽くなった。すぐさま起き上がり、相手に向き直る。
「……ンだよ?」
 睨み上げた先、軽薄な笑顔はけれど眩暈がしそうな程の強烈な毒を秘めていた。人の毒など全身で味わい尽くし、脳の髄まで知り尽くしたつもりであったマリアットをしてすら、そう感じさせるほどの毒が。
 否。
 恐らく男が隠し持った毒そのものは、マリアットも知る程度のそれだったのだろう。
 ただ、矛先が。その毒が向けられた先が、彼であったから。
 その事実だけで、マリアットは十分に逆上できた。
「………」
 言葉はない。ただ掌にナイフを構えて、男を睨み付ける。
 語るべき言葉など持っていなかった。胸を渦巻く思いの一つ一つは重くそれでいて大切なものであったが、それを形にする術を見失っていた。仮にその術を持っていたとして、目の前の男にそれが通じるとは思っていなかった。
 だから、言葉ではなく、行動で感情を吐き出す。具体的には、男の懐に飛び込みナイフを突き立てるという行動を以て。
「ふゥん」
「!?」
 それが、いとも容易く払われた。
 硬い金属音と共にナイフが地を跳ねる。それを目で追うような愚は犯さなかったものの、気付いた時には手首を取られていた。捻じ上げられて足を払われ、再び地に組み伏せられる。
 勢いよく地面に身体を叩きつけられると同時に、肩口で嫌な音が鳴った。
「づ、うァ……!」
 脱臼という形での鈍い痛みと、腕の自由を奪われた焦燥が同時に警鐘を鳴らす。さりとて抵抗は封じられたまま、肘打ちを肩に叩き込まれて鈍痛は即座に激痛へと擦り替った。外れた間接の隙間を抉じ開けるように、硬い肘が深く深く捩じ込まれる。
「ッ! ぁく、ぅ――っ、は! あ、っい、ぐ……!」
 焼け付くような痛みだった。皮膚だとか、血管だとかの表面に近い部分を傷つけるのではなく、人体の構造を熟知した上での厭らしい責め。
 それを行う男の笑みも、痛みに耐えるように伏せられたマリアットの目には映らなかった。
「く、あッ……ぁ、……ッ!」
 捩じ込まれる肘の力が不意に緩み、和らいだ苦痛にマリアットは薄く目を開けた。
 霞んだ視界の中、映り込んだ遺骸に幾度と知れぬ、怒りに頭が沸騰する。この体勢からは流石に反撃に出ることも叶わなかったが、叶わなかったが故に形振り構ってはいられなかった。
「っそ、のッ――はな、離せ! ふざけんなテッメェ、何なんだよ! 早く離せ、解けよ、オレはあの人を――」
 ただ、暴れる。肩が痛むのも知ったことではない、無様に暴れて喚いてもがき回る。感情に任せてただ叫ぶ。
 獣のように。
「――あの人を?」
 その獣に冷水を浴びせたのもまた、君臨するかのようにマリアットを見下ろすこの男だった。
 考え無しの発言を拾い上げられ、揶揄を込めて問い返され。マリアットは静止した。動きも、声も、呼吸も。
 心臓すら止まったかのような錯覚を抱く中、頬を伝い落ちたのは血混じりの汗だった。
「あの人を、どうするって? 殺す? 助ける? 埋葬する? どうするってんだよ?」
「………っ」
 反駁をと開いた唇は声を発することすら叶わず、ただ咽喉の音が虚しく鳴った。
 その間も男は嘲りの口を止めない。
「お前さ。見てたぶんには、なんか懇願されてたっぽいじゃん? 何頼まれてたん? 命乞いでもされてた? それ、叶えてやれたん? 叶えてやれるん?」
 矢継ぎ早の誰何に、答える言葉を探る余裕すらない。開きっぱなしの口は会話という機能を放棄して、ただ呼吸という一つの職能にのみ集中するだけの器官となった。
 いっそ止まってしまえとも願う。無様な呻きを、呼吸音を晒し続けるくらいなら、いっそ。
「なんとか言ってみろよ。……おーい、マリアットちゃーん? へーんーじーはー?」
「―――っあ、ぐ!」
 捩じ込まれていた相手の肘が外れると同時、捻り上げる力が別の方向へと働いた。同時に響く嫌な音が、骨が破壊されたことをはっきりと示していた。
 返事など、口にできるはずがなかった。意味のある言葉を紡ぐだけの気力も、そもそもの返すべき言葉もどこにも見当たらない。
 見当たるのは、後悔ばかり。

 あの人を連れて逃げれば良かった。
 あの人の盾となりこの男を足止めすればよかった。
 あの人をこの手で殺せばよかった。

 その選択肢のどれでさえ、この結果よりは余程マシだったのに。
「返事が聞こえないなあ。どゆーことー?」
「……はあ、っ……い、ッ……あッが、ぅ、ぎ……ッ!」
 折られた腕をさらに捻り上げられ体重をかけられ、骨の断面同士を擦り合わされる疼痛に身が揺れた。絶え間なく身を苛むその痛みは、甚振るように少しずつ大きさを増していく。
 その痛みがふっと浮いた。腕を放り出され、勢いのままに仰向けにされる。地面に叩きつけられた腕の痛みに呻くよりも前に胸倉を掴まれ、馬乗りになられて上体を引き摺り起されて息が詰まる。
「っ……」
「答えやすくなったろ?」
 見下ろしてくる笑みは嗜虐の快楽に歪んでいた。至近距離で見せつけられるにはあまりにも毒々しいそれから目を逸らそうにも、至近距離であるが故に叶わない。吐息がかかるほどの近さで、その気になれば噛みついてやれそうだった。
 それでも気にする様子のない相手は、噛みつかれても構わないのか、はたまた完全にこちらを舐め切っているのか。
「ほら、答えてみろよ」
 裂けたように歪んだ口端が、それ自体意思を持った生き物のようにこちらを見つめ嘲笑っていた。それは錯覚だ。錯覚であるはずだ。
 錯覚であるはずなのに、蟲のように蠢いたそれに、生理的な嫌悪を抱かされた。
「カレヴィ・セレーニに拾われて、団の思想を骨の髄まで叩き込まれて、細胞レベルで身体を弄繰り回されて――それでも狗みたいにアレを慕ってたあんたがさぁ」
 吐き出される言葉に対しても、それ以上に。

「叶えてやれなかったあいつの願いって、何だったん?」

 それにどう答えたかは、もう、既に覚えていない。


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