袋小路の依存症

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 駆けては駆け、転んでは起き、躓いては踏み止まりそれが叶わなくて地を蹲り、再び立ち上がってまた駆ける。
 酷使を重ねた足がついに悲鳴すら上げなくなったのはいつ頃からだったろうか。いやそもそもが、こうして走り続けてどれくらいになるのだろうか。そんなことを気にしている余裕などなかった。在る筈が、なかった。
 不意に喧騒の中で足を止める。普段は意識して出来る限り避ける繁華街で、必死になって耳を澄ます。それでも聞こえない。何も、聞こえない
「……いな、い」
 彼女の声が聞こえない。声じゃなくてもいい、それが彼女のものであれば吐息のひとつでも寝息すらも聴き取って駆け付けてみせるのに、それはどこにも存在しない。存在しないものを、聴き取ることはできない。
 彼女が、いない。
 再び駆けた。駆ける。どこか、どこでも、彼女がいるかもしれないところを。思い当たる限りの彼女の知り合いは全て当たって、最早手がかりなどどこにもない。虱潰しに探すしかない。
 無為な捜索は、未だ実を結びそうにない。
「………ッ!」
 何かに蹴躓いて、バランスを崩して地面を転がった。自分を避けるように広がる人の群れ、好都合だった、奇異の。地を擦った腕には掠り傷、赤く滲む色。そんなものはどうでもよかった。痛くもない。
 足も腕も、身体のどこも痛くないのは、彼女が今苦しんでいるかもしれないという事実に比べればそんなものは瑣末以外の何物でもないからだ。どうなっているかも分からない彼女のために何も出来ない自分が、痛みを受けたところでどうにもならない。
 自分が痛がっている暇があれば彼女を、そう、彼女を。

 駆け出した足が縺れて、壁に叩き付けられた身体から嫌な音が聞こえたけれど、その音のせいで彼女の声が掻き消えたかもしれないと思うとそれが忌々しい。せめてと澄ました耳が拾えたものなどなにもない。
 遠い。この耳が届かぬ程に。その事実に逸る身体を引き摺り起こして、何度目かも分からない、地を蹴る。
 駆ける。
 求める。

 何故のうのうと眠ることなどできていたのかと今更どうにもならない過去のことではあるけれど、それでも自分を責めずにはいられないしその考えが間違っているとも思わない。何故眠っていたのか。自分が眠る必要がどこにあるのか。彼女の役に立つのに休息など必要なかったのだ。休むくらいならば彼女を彼女のために出来ることを一つでも多く済ませればよかったのに眠ってなどいなければ彼女を見失いなどしなかったのに。
 自分の届かぬ所に大切な者が在る。それだけで息が止まってしまいそうだった。自分がいないそれだけで守れるはずのものが守れなくて、自分がいないうちに全てが終わってしまう絶望などもう二度と味わいたくはなかったのにとこれは自分の欲望以外の何物でもなくて、彼女の苦痛には繋がらないのにそんなことを願ってしまう自分が酷く浅ましい。彼女のためにならぬ願望など一つ残らずかなぐり捨ててしまうべきなのにそれが出来ずに何が彼女のために生きるなどと嘯くのかいや嘘ではない嘘は言わない嘘じゃないのにどうして自分はこんなにも何も出来ないくせに頭ばかり。
 回る頭は自らに都合のよいことばかり囁くから、いっそこの頭など吹っ飛ばしてしまえばいいのだろうか。浅ましい、そう、浅ましくて浅ましくて反吐が出る程で、どうしてこの後に及んで自分が浸る安らぎの色は、
 そう、安らぎが。

「……那智、さ……ん……ッ」

 消えたのだ。彼女が。
 消えたのだ。彼女は。
 それが彼女自身の意思。

 ならばと囁きかける思考が止まらないから頭を壁に打ち付けた。流れたのは血だけだった。止まらなかった。止まってなどくれなかった。
 彼女は自ら消えたということは自分を置いていける程度にはそう、自分がいなくても大丈夫なのだと大丈夫だから消えたということで、そう、自分はいなくてもいいのだ。自分の不在は彼女に影響を及ぼさない。
 その事実がどうしようもなく嬉しくて、嬉しいなどと思っている場合ではない彼女が今どうなっているのかも分からないのに何故、嬉しがってる余裕などあるのかと、安らいでいる場合ではないのだから頭は唯彼女を、彼女を辿るための手がかりだけを探せばいいのに袋小路、見つからぬ手がかりに横に逸れていらぬことばかり、自分の存在意義など彼女の危機の前にはどうでもいいことなのにそんなことを考えている場合ではないのにだから止まれ今すぐにでもこのいらぬ思考ばかり回すこの頭が止まればいいのに止まれ止まらないと止めないと止められなくて止まってくださいと願う場合ではない願うべきはそう彼女の身の安全と幸いなのにどうしてまた必要のないことを。

 そう、今の自分には、不必要なものが多すぎるのだ。
 苦痛も思考も休息も願望も意義もいらないのにどうしてこの両手はそれを抱えてだから彼女を掴めない。
 当たり前のことだったのだ。
 欲張って広げたすぎた両腕からモノを落とす連中を嗤っていた筈なのに何よりも欲張りなのは自分で、嗤われるべきも自分だったのに。
 失ってやっと気付くのでは遅くて遅くて遅くて遅すぎるのに、愚かの一言で済ませられる罪ではないのにけれど自分は今更それに気付いて、何故今まで気付けなかったのかとその問いに答えてくれる者はいないしそんな問いに答えている暇があるのならば彼女の所在について教えてください。そんな問いを発している余裕が在る筈もないのにだから自分のことなど考えてもこの際どうにもならないのに。
 どうにもならないことを、どうにもならないままに、どうしようもなく。

 思考は止まない。自分が愚かである限り。そして自分が愚かでない筈がない。
 それでもその愚かさの割を食らうのは彼女であるのだから自分が愚かであってはならないのに、

 ごめんなさいと零す言葉は誰にも届かない。届く必要もない。
 許さなくていい、許さないでください。だからどうか、お願いします。

 今の彼女が、これからも彼女が、幸せで在ってください。


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