差し伸べられた大きな掌も、
穏やかに流れるやさしい声も、
抱き締めてくれた柔らかな身体も、
そのひとつひとつが彼を切り裂き、そしてすべてを狂わした。
「……げ」
「あんだよその顔は」
座敷を覗き込み、顔をしかめたシャインに架禄はむっつりと返した。手元の一升瓶に口をつけ勢いよく飲み干す。
その様子にシャインの眉間の皺がさらに深く刻まれる。
「なんだよってそりゃこっちのセリフですよ、なんですかそのザマは」
庭に面した寝殿の一室には何本もの一升瓶が転がっており極めて無残な様相を見せている。
酒瓶は中身があるものないものとあり、相当の量を架禄が飲んだものと窺えた。
その中心で足を投げ出して座っている架禄の表情はしかしけろりとしたものだった。
「だって酔えねーし。酔ってみたいんだよ」
「アンタ無理だって分かってんだから諦めましょうよ。何したいんだか分かりません」
「ん」
呆れ顔のシャインの鼻先にも、酒精で満たされた瓶が突き出される。瞳に映る液体が揺れて、シャインは煩わしげに目を閉じた。その場に腰を落として座り込む。
「人の酔うの見て楽しむのって、かなり悪趣味だと思うんですよね」
「んなこと言われてもなー。お前酔えない奴の気持ちわかるのか?」
「無理矢理酔わされる奴の気持ちが分からない人に言われたくないですよ」
つれねーなあ、と架禄は殊更に悲しい顔をしてみせた。一本、手に持った瓶を開けながら零す。
「あいつだって酔えないけど飲んでたんだろ?」
「父さんはアンタみたいなタチ悪い飲み方しませんでした。本当に酒の味楽しむような、上品な飲み方でしたよ」
「あいつから受け継いだものなんざひとつもねーからな」
嘲笑うような笑顔で喉を鳴らした架禄の手から一升瓶が引ったくられる。
架禄は驚きに目を見開いてその行方を追うと、表情を楽しげなものに変えてみせた。
「飲むのか?」
「アンタに上品な飲み方を教えてやるんです」
一升瓶を床に立てて、猪口片手に胡坐をかいたシャインは義務的な口調で言い放った。猪口に酒を注ぎ持つと、挑みかかるような視線を架禄に向けた。
「実の父から、ひとつぐらいは美徳を受け継いでみてくださいよ」
目に見えるものすべてがいびつな姿に歪んで見えた。自分が今何をしているのかも分からない。膝をついて座っているんだ。膝? つくって一体どこに何を?
「……上品な飲み方なぁ」
低い声が頭を揺さぶる。ぬばたまの黒が広がって、懐かしい色が心を満たす。この色が好きだったと思った。自分の黒とは似ても似つかない、深く暗い、気品のある黒。自分がまとうこの色とは、まったく意味の違う黒。
あの日伸べられた掌の向こうにも、この黒が広がっていた。そのことだけはよく覚えている。そのことが自分の楔となる。
失われたそれが、生きる理由となる。
「お前別に強くもなんともねーんだから、上品な飲み方っつっても酔わないの前提だろ? 同じように飲んだらそうなるだろうよ」
けれど失われたそれがここにあるのならば、自分の生きる理由はひとつ減ったことになるんだろうか。だって、ここにある。自分のために消えたそれが、今確かにここにある。
ここにあるなら、彼が、彼として生きていけるなら。命を誰にも授けずに。誰のためにも投げ出さずに。
もしそれができるのなら、それ以上のことはないのだ。
そして自分は意味をなくす。ひとつのぶん、いのちが軽くなる。
「きーてんのか? おい」
「――え、あ」
軽く頭を小突かれて、覗きこむ架禄と目が合った。ぼやけた世界で至近距離で見る顔が酷く懐かしいと、正直にそう思った。
「……聞いてますよ。大丈夫です、ええと」
「立てねえだろ。いいから座ってろ」
「大丈夫です。――大丈夫です」
大事なことなので二回言った。いや三回か、どちらにせよ大丈夫だ。大丈夫だから。
立ち上がると地面が揺れて、落ちてきた床が身体にぶつかった。
鈍い痛みが身を苛み、小さな呻きを漏らした。痛いのは嫌いだった。どんな些細な痛みでも、これには一生慣れられない。
転んで膝を打つのも紙で指を切るのも崖から落ちるのも掌を釘で貫かれるのも焼き印を腕に刻まれるのも、理由なしには二度と経験したくない。
けれど、大切なもののためなら耐えられる。
「いった……」
「いつもより酔い方ひどいな。水持ってくるから待ってろって、オイ立つな馬鹿。礼瀬よりめんどくせーな今日のお前」
「大丈夫、で」
「じゃねえよ。……ああもうめんどくせえ、ちょっとこっち来い」
揺れる世界で掌がこちらに伸びてきて、その掌は大きかった。
向こう側に広がる色も同じで、だからひとつだけ、もういいのだと思った。
「――あなたは、オレとは別に生きないと」
だからそう言った。いつも思っていたことだったから、何も考えずに滑り落ちた言葉だった。
重なる光のその先で、彼ばかりが幸せならばよい。生きるのは彼ならばよいのだ。不要な己に意味などいらず、彼が幸せならそれでよかった。
けれど理由を与えられて、意義といのちを与えられて、だから何かに捧げなければ。
そのためだけに、生きて――。
強く首を打った。圧迫感に噎せ返る、違う、いや違わない。
首を押さえるのは大きな掌で、崩れかかる黒に視界が覆われた。
触れる体温が冷たくて心地よく、加えられる力は息苦しい。力が、強まる。
「もう、やめろよ」
落ちる声は低く落ち着いていて、また酷く冷え切ってもいた。押し殺されたものがあげる悲鳴のような声だと思った。
そうして押し殺された力が、行き場を失った力が、自分の喉を締め上げているのだと。そんな風に思って、
けれどそれを彼が望むのならばこの醜くも尊く愛おしい連鎖は断ち切られるのではないかとどこか光明を得たような気分にもなれた。
「お前は、よく生きてるよ。必死にさぁ、ひたむきにあいつを、叡那を、朱子を想ってさ――」
吐き出された言葉が世界に染み渡る。ああこの声や顔や黒や姿や、それが懐かしくて好きなのだ。
安らぎから逃げて、生きる意味に執着して、それでも心休まるものが残っていて。
許されることだとは思わずに、ただ惰性でそれに縋った。
「――だけど、もうやめろよ」
引き留める声に頷こうとしても、喉を押さえる掌がそれを許さない。声を出そうとしても、込められる力が自由を奪う。
ならば自分は黙るしかない。意思を示さず木偶のように。動かない人形のように、全てを諦めて。
「全員、死んだんだ」
残酷な事実が耳を打つ。知っている。全部知っている。それが誰のせいなのかも、どうしてそうなったのかも。
「お前が想えば想うほど、あいつらの幸せを願って生きればそれだけ――全部が全部、裏目に出る。あいつらを殺す」
「気付いてないわけじゃないんだろ? お前は自分で死ねないだけだ。あいつらのおかげで在る命を、自分の都合では捨てられないだけだ」
「だから、俺が終わらせてやる」
疲れたような声だった。かわいそうな人なのだと思った。
視界は依然歪んだままで、どうしてもその顔が見えない。そのことが残念で仕方がなかった。
「お前が次の大切を喪う前に――俺がこの手で、終わらせてやる」
つぎ。口が動いた。声は出ない。次の、大切。大切なもの。
急激に込み上げる違和感に、喉が揺れる。揺れる喉が何かと擦れる。自分を縊る大きな掌と?
違った。硬質な感触、柔らかに流れるどこか冷たく涼やかなそれは――。
「それならあいつらにも、顔向けできるってもんだろ?」
顔向けする必要などどこにもないのだ。
懐に手を伸ばし、掴み取った小刀を一気に振り払う。刃が頬を、髪を掠め、視界に赤色とぬばたまの黒が流れ落ちる。
歪んだ世界が急速に形を取り戻し、目に映ったのは呆けたような目の前の顔。見下ろす目と見上げる目がかちあって、喉に込められた力が消える。
忘れた息を、取り戻す。
「――っ! っぁはっ、か、つあっ」
「あ、お前――」
声には温もりが戻っていて、その声を聞きながらシャインは空気を求めて喘いだ。骨ばった肩が大きく揺れる。急に空気を流し込まれた肺が悲鳴を上げる。けれど生きている。
架禄はシャインを押さえこんだ体勢のまま、呆然とその姿を見降ろしていた。切れた頬から赤い血が流れ、首を伝い、長着の襟を染め上げる。
シャインはその顔を見上げ、ひとつを悟った。
自分はこの男からもまた、多くを奪ってきたのだと。
黒いカッターシャツの襟元を開けて、シャインはその中に煌めく光を見詰めた。
彼女の代わりにはどうしたってならないけれど、大切なものには変わりはなかった。
何よりそれが、沈みかけた自分が浮上する切欠になったのだから。
自分の中でのそれの価値は、どうしても重いものとなりそうだった。
「……俺のアレは、酔った弾みなんかじゃねえんだよ」
「分かっています」
「分かってんのか……? 俺は、お前を殺しかけたことは後悔してるけど――自分の言ったことが間違ってるとは、思ってない」
「分かります」
「……分かってんのか、マジで」
「オレは、あんたの大切を奪い過ぎたんですよ。叡那様、朱子さん――それに父さんは、あんたにとっても大切な人だった」
「……最後はいらねぇ」
「――架禄さん、あんたの言うことは結構正しいんです」
小さく見える大きな背中に、そう声をかけた。返事はなかった。シャインは肩を竦めた。
「オレは頭も要領も悪いから、どうしたっていい方向になんか転がりっこないのに。どうしても諦められなくて。――いいえ」
自分で自分を否定するように首を振る。
「諦めちゃだめなんです。背負ってるものがあるから。オレの命は、オレのものなんかじゃないから。だけど、オレはその重さに耐えられないから、誰かにそれを託すんですよ」
そして、笑った。
「託したものを、託したもの以外のために失うわけにはいかないでしょう?」
(2010/05/14)