「あんた――あんた、何、考え、て……ッ」
「礼瀬! ちょ、もう、無理すんなって、礼瀬……く、あ!」
声は苦悶に震えていた。
架禄の襟元にしがみ付くようにしながら喰ってかかる礼瀬の腕を、昏く明滅する黒い紋様が這い回る。その明滅に合わせて震え力を失いかける礼瀬の身体を、必死に支えながらも制止する側の冬紀の掌にもまた、同様の黒が刻まれ映り込む。
二人を、特に礼瀬を見返す架禄のぬばたまの黒は、ひどく冷め切っていた。
「景斗の、方、が重症だろ! 一人しか、解呪できないんなら――あいつにしろよ! あいつのが、――!」
途中で声が途切れて、力を失った礼瀬が冬紀の腕を滑り落ち膝を付く。礼瀬から手が離れると同時に冬紀の掌の黒は掻き消え霧散した。それにも関わらず、再び冬紀は礼瀬を抱え込み支える。
脳を荒らし回り耳を劈くように響き渡る怨嗟を、甘んじて受け入れる。
「なんで、だよ……」
「あや、せ」
問う声が震えている。当然だと冬紀は思った。彼の中に溢れる呪怨の声は、自らが今聞いているそれと違って彼自身に刻み込まれた深いものだ。それだけでもその身体の、精神の消耗は想像できる範囲を容易に超える。
それなのに、その上、こんな。
「なんであんた、こんなに」
詰まり詰まりの声が苦しげで、どうにか呪を分け合うことで彼の負担を軽減できないかと思う。それが効果的かどうかは自分には分からないけれど、それでも彼の苦しみを震えを耳で、腕で受け止める。
吐息混じりかすかな声が、やっとのことで聞こえた。
「オレに、拘るんだよ……」
ひどく苦しげな礼瀬の横顔に気を取られ、目の前に立つ男の表情を見ることは叶わなかった。
腕にかかる体重が重くなる。力を失くした身体が凭れかかってきて、蔦にも似た黒色がおぞましい蠢きで持って腕を伝い這い回る。比例するように頭の中へ押し寄せ掻き回すような怨嗟の奔流に、精神が呑まれそうになる。けれど呑まれるわけにはいかない。
「……冬紀」
伸ばされた手に顔を上げると、相変わらずの冷めた表情だった。礼瀬を抱え上げようとするその掌から、逃がすように礼瀬を肩に担ぎ上げる。
立ち上がると足が震えた。礼瀬の体重以上に、流れ込んでくる声が重かった。これを背負い続けている彼は、それでも尚、自らよりも景斗を治せと迫ったのだ。
「……礼瀬、は、オレが――室に返します。……休ませれば、いいんでしょう」
絞り出した声が震えてなければいいと思う。頭の中を満たす騒々しさで、自分の声すら遠く聞こえる。架禄の返答を聞かないまま踵を返すと、引き摺るようにしながら室を出る。
礼瀬の身体と、自らの身体をと。
「……冬紀さん、大丈夫ですかね」
彼らが去った後の架禄の室で、唐突に上げられた声は縁側から。架禄に負けず劣らず冷めた瞳のシャインが彼を振り返る。
冷めた不定の色の奥に揺らめくは、圧し殺された怒り。身体を覆う包帯の下に在るモノを忘れさせるほどに、深く強く根付いたもの。
「……大丈夫だよ。アレは触れただけで遷る類の呪じゃねぇ」
「そっちじゃありません」
腰を上げたシャインは、依然立ち尽くしたままの架禄へと詰め寄ると、下からその黒を見上げた。その度胸を衝く懐古を意識して押し込める。
押し込めて笑う。
「可哀想なことしますね。自分の大切なものがあからさまに秤にかけられてる図ってのは、傍から見ると相当にしんどいと思いますよ」
「……うるせえな」
帰ってくる悪態には疲れが滲んでいたが、かと言って同情する気は起こらなかった。容赦も必要ない。それだけの憤怒をこの男に対して抱いていた。
今ではどうにもならぬことではありけれど。
「……あの呪、解く方法あったんですね」
「まぁな」
あの蠢き這い回る悍ましい黒は、嘗て見たそれと同じ呪であった。
自らの慕うた人。自らの敬愛した人の、愛した人。自らの敬愛した人を、愛した人。
彼女を深く侵していたものもまた、その呪だった。
「あんた、手の打ちようがないって言ってました」
「……状況が違うんだよ」
答えにならない答えだった。議論を放り捨てるような、否――議論を放り捨てているのはこちらの方だ。これはただの言い掛かりだ。どうにもならないことだったのだ。
けれど、それでも、喰ってかからないとやってられない。
「何が違うって?」
「侵食されていた期間が違う。朱子のは長過ぎたよ。……多分、同じ手段じゃ完全にゃあ解けなかった」
神祇の一族である遠河の、代々受け継がれている霊地。神霊の加護を受け、限界まで清められた御霊のおわすそこを――呪を撒き散らし、穢し尽くす。
悠久の時を精霊に愛された清冽を、瞬時に汚濁に貶める。あまりに大きい代償を払ってでも、
――この男は、彼を救うことを選んだ。
「……それだけですか」
「………」
――彼女を救うことを、選ばなかった。
「こじつけですよね。オレの目には、あの土地は――充分に彼女を呪から解き放つだけの力を持っていると見えますよ」
「………」
「それは景斗さんに対しても同じだ。……あの女性、和と言いましたか? 彼女程にもなると、少々自信はありませんが……それでも、幾らか。その負担を減らすことは、可能でしょう」
言い募る言葉に、返答はない。押し黙ったままの彼に、否応がなしに苛立ちが掻き立てられる。
その衝動に任せて襟を掴んで引き寄せる、その動作は恐らく彼のそれに近い。
「――彼が、そんなにも大事ですか」
「……あいつは俺の親友の嫁だってだけの女だった。そこまでの犠牲を払って、救うほどの価値は――」
冒涜的な言葉を途中で遮る。それ以上聞いては駄目だと思った。何が駄目だって、駄目だから駄目なのだ。自らの奥底に揺らめく激情が、酷く荒く、暴れそうになっている。
「ねえ、何度でも聞きますよ。そんなに大事ですか? 彼が」
「……今の遠河には必要だよ。アレに比類する霊力の持ち主は他にいない。俺のそれは、……穢れてるからな」
「――ッ」
逆鱗を抉り上げられたような気分だった。あちこちに散らばる火種から必死に遠ざけていた導火線に、急に火炎を叩き付けられたような。
急激に沸騰させられた思考は結局、酷く無様に爆発した。
床に叩き付けられた架禄は、荒々しい足音が遠ざかっていくのを聞きながら天井を眺めていた。
起き上がれないわけではなかった。起き上がる気はしないだけだった。それらはある意味では同義かもしれないが。
「……なんで、ねえ」
嘘も偽りも言ったつもりはない。朱子を救いたいとは確かに願った、しかしそれは自分の私情でしかなかった。遠河の頭として、一員として、この私情だけで霊地を擲つことは出来なかった。
それは、景斗に対しても和に対しても同じで、ただ礼瀬だけは失うわけにはいかないのだ。あれは遠河の切り札だった。年々霊力を併せ持つ子の数が減り、神祇の一族としての地位を危ぶまれている遠河の――唯一の、拠り所。
あれを救うためならば、どんなものでも捨てられる。
あれを救うためでないのならば、捨てられないものがある。
『――アンタ、何のために当主やってんですか!』
激昂のままに放たれた罵倒が、唐突に脳裏に蘇った。それは酷くざらついた感触をしていて、どうしようもなく不快だった。
だから忘れようと思った。何もかも忘れて眠ってしまおうと、瞼を伏せて暗闇に堕ちる。
瞼の裏に浮かんだ緑も同様、光のない黒に掻き消された。