線を越えたその末路

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 母屋に戻った架禄は、障子を開けて見えた光景に思わず肩を落とした。
「……またお前か」
「ふっふーん、かろくさんいーとこにー」
 完全に潰されて落ちている冬紀、不機嫌そうにちびちびと猪口に口をつけている礼瀬と、不気味な上機嫌でこちらを向くシャイン。
 それだけならいいのだが、彼らの周囲には開封済み未開封問わず無数に酒瓶が転がっていた。シャインに至っては酒瓶をそのまま手に持っているような有様で、架禄の目の前でその瓶をそのまま喇叭飲みに呷った。息をついて口元を拭うとからからと笑って架禄を手招く。
「ちょーどいーからこっち来てくださいよ、とーきさん寝ちゃって足りなかったんですよー、こんな図体なのにお酒弱いとか笑っちゃいますよねー」
「お前の集中攻撃食らったからだろ……」
 こいつ押しに弱いよなぁ、と目を回す冬紀を同情しつつ見降ろす礼瀬の方はといえば、彼もそうそう酒に強いわけではない。ただ架禄に飲まされ慣れているから上手く受け流すことができているというだけで。
 というか諸悪の根源についても、そこまで酒に強いというわけではないはずなのだが。
「ほら! 飲めですよっ」
「はー……」
 突き出された酒瓶を受け取って、シャインと同じように喇叭飲みで残りを飲み干す。架禄は空になったそれを放り捨てると、新たな瓶に手を伸ばしていたシャインの腕を掴んだ。掴まれたシャインが、間の抜けた声を漏らして架禄を見上げる。
 その様子に思わず舌打ちさせられた。
「もう十分飲んだろうが、これ以上は止めとけ。明日に響くだろ」
「……むー。かろくさん無理矢理飲ますのスキなくせにー」
「飲ますのは好きだけど、飲んだくれ見るのは嫌いなんだよ」
「おーぼー……っつ、いった、ぁっ!?」
 とはいえ酒飲みの力の入らない腕である。無理矢理捻りあげて酒瓶を奪うと遠くへと転がし、架禄はシャインの身体を一度引き上げて床に叩き付けた。細い身体が痛みに丸まる、その様子に礼瀬は眉をひそめた。
「……あんた何してんスか」
「や、酔い醒ましてやろーっつか、なんかハラ立った」
「……横暴」
 流石にそこはシャインに同意せざるを得ない礼瀬だった。軽くため息をつくと座り直し、猪口の中身を一気に飲み干す。ぐらりと落ちかける頭を押さえると同時に耳が何かを捉えた。
「……っさいですよ……」
 その音の発信源は案の定で、礼瀬はそちらを向くことすらしなかった。小さくため息をつく。
「いーじゃないですか酒ぐら、い、ぐっすり眠れますし」
「お前は酒が入らんと眠れないのか」
「眠れないですよ」
 即答した声の陰鬱さと来たら。
「眠れやしません」
 嘲笑う顔の痛々しさと来たら。
 ――見ている方が、胸糞悪い。
「ちっ」
「だから――、ふ!?」
 聞えよがしに舌打ちした架禄がシャインの腕を再び掴み、小柄な身体を勢い任せに抱き込んだ。急な行為に目を白黒させるシャインに低い声で囁く。
「わーったわーった、疲れるまで全部話聞いて全肯定してやるから酒はやめろ。もう飲むな」
「っ、な、何言ってっていうか何して……」
 慌てたように見上げる一応一児の父が、自分にこういうことをされるのには弱いということは重々承知していた。自分にというより、明らかに重ねている誰かを意識させられざるを得ないし、その事実には正直苛立たされるが。
 なるべく切りたくない札ではあったが、制止するためには止むを得ないと無理矢理自分を納得させた。
 それだけあって効果覿面で、腕の中の身体は容易く大人しくなった。縋る指先が力無い。
「………っ」
「んで。どうする?」
 精々が優しい声を出してやる。記憶の片隅に残る父親の声を再現するように。
 誘われるように頷いた頭を撫でたいのか叩きたいのか分からなくて、結局どちらも選ぶことはできなかった。
「……さて、んじゃ俺はもー冬紀連れてもーさっさと寝ますよっと」
「あ?」
「俺はそいつの愚痴に付き合う気ないんで」
 冬紀の重い身体を力任せに引っ張り上げて背中に担いだ礼瀬は、ふらつきながらもなんとか冬紀を引きずりながら歩いた。襖に手をかけて、二人を振り返る。
「父親の話題とか、よく分かりませんしね。――他にも、色々苛々させられますし」
 それだけ言って室を出ていく礼瀬を、架禄は止めはしなかった。ただ思わされたことは、
「……俺も、父親の話題なんざ分かんねえんだが……」
「……なんか言いましたか」
 小さく呟いた架禄を、下から見上げる機嫌の悪い目。
「……どうせ聞こえてんだから問い詰めんなよ」
「えー、きこえなーかったでーす」
「……悪酔いしやがって」
 腕の中でからからとおどけるようにする再確認するが一児の父を軽く離して自力で座らせる。抱き込んだ時から再確認させられてはいたがその身体と自分との体格差は歴然で、もうひとつ思うことが、
 いつか誤魔化しが効かなくなるだろう、ということだった。
 子どもが神の眷属でなくなるころには、親子には見えなくなるだろうと。
「で、ほら。今度は何が蟠ってんだ」
「……いつだって、同じですよ」
 頷いたまま俯いた顔からは、以前表情は窺えない。
 その顔をまじまじと見てやりたいような気もするが、また酒に手は出されては面倒だと架禄は自らを抑えた。
「思うんですよ。……もし、彼女を抱かなければ」
 あの時は、彼女にそれが必要なのだと信じていた。
 求められることは受け入れがたかったけれど、そうするには目の前の欠落はあまりにも大きすぎて、彼女がそのまま崩れてしまいそうに見えたから。
 だからそれが彼女のためだと、彼女が生きていくために必要なことなのだと、そう自分を納得させた。
「……抱かなければ、きっとまだ」
 腕の中に感じた身体は細く頼りなくて、傷つけないように壊さないようにとそればかりを気にかけ過ぎていた気がする。
 あの時自分の背中に回されていた腕や縋り付くように絡みつく足、涙を零して笑う顔の、その全ての意味が、今の自分にはひどく曖昧で、
 自分の行為の意味も分からず、弾きだされた結論は一つだけだ。
「――彼女は、生きていたって」
「おい、」
「全肯定する約束だ」
 口を開きかけた架禄を遮る声は恐ろしく固かった。思わず架禄が口を噤んでしまうほどに。
「……生きて、いたんですよ」
 架禄が黙るとこれ幸いとばかりに再び口を開く。
「彼女を殺したのはオレの行為だ。オレの選択だ。彼女が死んだのはオレのせいだ。オレが、彼女を殺した」
 捲し立てるような口調で語る。
「そうだオレが、あの日オレが彼女を、彼女を殺してそう殺していたんだ殺したんです死なせた殺した彼女はいなくなったオレが彼女を。全部オレがオレのせいで馬鹿だから気付かなくて止めることすら出来なくて全部オレが殺して彼女の全てを存在を。オレのせいで」
「………」
 呪いのような言霊に、力が宿ることはない。
 それは彼が何年も前に失ったものだった。
「もうこれ以上殺さないって誰も誰だってオレは大切な人を幸せにすべき相手を死なせたくなんてないのになかったのに父さんも叡那様だってオレのせいだ朱子さんだってそうだ、叡那様は彼女を守ることを願ってでもオレが全部壊して先走ってだって全部オレが抑え切れなかったから叡那様が死んで朱子さんだって死んだ、もう二度としないって何度言ったかも思って考えて誓ったか知らないのになんで、」
 顔を上げた。闇を溶かし込んだような瞳の色をしていた。

「なんでオレは、彼女を殺したんですか?」

「……馬鹿お前、だから別に――ッ!?」
「否定すんなよッ!」
 思わず開いた口を、横殴りの打撲で封じられる。空瓶を投げ捨てて駄々っ子のように喚く姿が揺らぐ視界に映る。
「彼女はッ――彼女は! 望んでなかっただろうって、そう言ったんですよッ! オレに、子供なんか望んでなかっただろうって!」
「っ――ああ、お前言ってたな、そんな風に言われたって最期の時に!」
「――そのせいでッ」
 泣きそうな顔をしているのに、どうしてこいつは泣かないんだろう。
「そのせいで言えなかったんですよ! オレが喜ばないだろうってそう思って、でも彼女は子供が欲しかったからだからぎりぎりまでそんなこと伝えなくて身体のことだって!」
 泣くのと喚くのと、どちらが辛いのか架禄には分からなかった。
 ただ一つ言えることは、今喚いているその姿がこの上なく痛々しいということ。
「……オレは……ッ」
 ひゅうと咽喉が鳴る。ぜいぜいと激しく肩が上下する。
「オレは子供なんか欲しくなかったけれど、彼女が望むものならなんでも欲しかったのに! なんでそうだって、彼女に、オレが子供が欲しくないなんて思わせてたんだって、だってそのせいで……ッ」
「……そのせいで?」
「そのせいで彼女が死んで……でも、オレは、彼女が……彼女が死ぬくらいだったら、子供なんかやっぱり――いくら望まれても、だって死んだらどうにもならないのに、なんで。……なんで、オレなんかの子供が生まれて――叡那様と朱子さんには子供が、できなかったんですか」
 急に気がついたように瞬いて、縋るように架禄の胸倉を掴む。
「ああいう二人にこそ子供が出来るべきだったのに! なんであんな、朱子さんはどうしてあんな子供を産んでそれで、なんで死んで、彼女だって死んだ! オレの子供のせいで!」
「……お前の子供が生まれたっつーけど、彼女の子供でもあるだろうがよ。それじゃ駄目なのか?」
「彼女が子供を生すべきならもっと別に相手がいるでしょう!」
 躊躇いなく言い切る思考回路が架禄には理解できなかった。
「オレなんかの子供なんか彼女の身体を冒していいものじゃなかったのによりによってオレがオレのせいで、誰との子供だって彼女を殺すことなんて認められるはずがないのに。駄目なんですよそういうのは絶対に、彼女が幸せになれなきゃ全然駄目だ!」
「子供が出来て、幸せそうだったんだろ?」
「死んじゃったらどうにもならないって言ってるでしょうが!」
 身体を揺さぶられる。いや、揺さぶろうと頑張っているが、手に力がない。逆に自分の方が揺れてしまっている。
「……オレがもっと子供を喜ぶって風に思わせていなきゃいけなかったんです、全部それで、そもそも彼女を抱くべきなんかじゃなくてもっと別の支え方とか、だっていくらでもあるでしょう? なんでそんな短絡的にそんなの全部堕落で惰性だったんだ全部オレが殺したオレのせいで。オレが」
 カラクリ人形のように呟く頬は、酔っているはずなのにひどく蒼白だ。
「……でもお前、ちゃんと育ててるだろ」
「彼女が命を投げ出して生み出したものを無下にできるはずがないじゃないですか」
 即答だった。
「彼女はあの子の幸せを願っていたからオレはあの子を幸せにしなきゃいけないしその為にはちゃんと育てるのも当然で愛情を注ぐのだって当然だ、だってそれが彼女の望みでそのために彼女は死んだんだから。彼女の遺志と命を尊重する以外に今のオレに価値はないんだからそれぐらいしないと駄目なんですよそんなことも分からないんですか!」
「分かるか! ……あ、いや、分かる」
 こいつを全肯定するのは思った以上に面倒だった。先に帰った礼瀬はうまいことやったなと思わざるを得なくなる。かといって乗りかかった船だ、放り出すわけにもいかなかった。
 息を切らしてふうふうと唸る姿は猫のようだった。猫というにはややこしすぎるが。
「……だけど、オレはやっぱり彼女を殺して」
 無限回廊のような思考回路を留める術を架禄は持たなかった。
「オレはまた、大切なものを失くしたんだ」
 そう言って、力無く項垂れる。
「……殺したんだ」
 草臥れたような肩を引き寄せて、頭を撫でてやる。
「でも、それは違」
「殺したって言ってんじゃないですか、全部オレの――」
 否定しかけた言葉を遮ったシャインは――唐突に目を見開くと言葉を切り、架禄を突き飛ばした。そのまま即座に小袖の合わせを整えると帯を締め直す。
 唐突な行動に目を白黒させた架禄の前に、その答えはすぐにやってきた。
「ん、にゅ……あれ? ぱぱ?」
「……な、那津?」
「お父さんですよー。どうしたんですか、ナツ?」
 襖を開けて姿を現したのは彼の子供だった。目をこすりこすり、おぼつかない足取りで父へと抱きつく。
「うんとね、ねむれなかったの。……でも、ぱぱのところいったらいなかったのね、だからきっとかろくさんのとこだって」
「なるほどー。ナツはお利口さんですねぇ」
 先程まで喚き散らしていた様子などおくびにも出さず、腕の中の小さな身体に笑いかける。息をするように演技してみせる姿はいつもと寸分違わず、だからこそ薄気味悪い。
「じゃあナツはお父さんと寝ましょうかー。お話だってしてあげますよ」
「おはなししてくれる? どんなお話?」
「ナツが好きなお話」
 無邪気に目を輝かせる小さな姿は愛らしくて、父親じゃなくても育ててやりたいと思わせられるくらいだった。
 シャインは那津を抱き上げると架禄に軽く会釈した。礼瀬がしたのと同じように、襖に手をかけながら言う。
「それじゃあお世話になりました、架禄さん。おやすみなさい。ほら、ナツもかろくおじさんにおやすみなさいしましょ」
「うん。おじさん、おやすみなさーい」
「おう。おやすみー」
 最後まで手を振ってくる那津と軽く一礼して襖を閉めたシャインを見送り、架禄は酒瓶の散らばる室を見回してため息をついた。嵐が来たような感覚だった。今去ったところだが。
「……ったくよー……」
 瓶を拾い集めながら愚痴ると共に、もっと激しく重苦しいものを愚痴っていた姿を思い浮かべる。
 ――オレは子供なんか欲しくなかったけれど。
「……よーやるわ……」
 そう言い放った口で、よくもまあ。
 集めた瓶を空のものと中身入りとに分けながら、架禄は胸の中に残る黒いものを意識させられざるを得なかった。


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