チャイムを鳴らすと同時に開いたドアから覗いた少女は、眩しいほどの笑顔だった。
「ユーグ! 来てくれたのねユーグ、ありがとう、いらっしゃい!」
「礼には及びません。……お邪魔します」
歓迎の言葉を捲し立てながら少女はユーグに抱き付いた。小さな身体で、それでも全身いっぱいで喜びを表す様子がいじらしい。
マリアットは少女の頭を優しく撫でてやりながら、もう一方、掲げ持った紙製の箱を少女に示す。
「お土産です。ガレット・デ・ロワと言うらしくて――」
「ガレット・デ・ロワ!」
マリアットを遮って声を張り上げた少女は、同時に弾むようにその顔を上げた。掲げられた白い箱を受け取り見つめる、そのヘーゼルの目が輝いている。
「知ってるわ、ガレット・デ・ロワ! お菓子よね? 本で読んだの、見るのは初めて! お茶を用意しなくちゃ!」
待っててすぐに用意するから、と身を翻す少女を追ってマリアットは部屋に上がった。いつ見てもそれなりに整理が行き届いた家だったが、ひとつ、異様なところがあった。
本。
壁一面を埋め尽くさんばかりの本棚。テーブルの上に積み上げられている何冊かは少女が読み途中なのか、もしくは読み終わった本なのだろう。はっきり言って異様としか言いようのない程の量の本をここに残した人のことを、マリアットはよく知っていた。
よく知っている、つもりだった。
「何か手伝いでも」
「いいの! ユーグはそこに座ってて!」
こうして差し向って話すとき往々にして彼女の声は酷く明るく、弾んでいる。その理由に察しの付かないマリアットではなかった。
「あなたはお客さんで、私はホストなの。おもてなしくらいさせて」
そう言われれば無理に手を出そうとは思わず、大人しく食卓について少女を見守る。毎日一人で暮らしているだけあってお茶を淹れるのも菓子を切るのも慣れた手つきで、危なっかしいところは見当たらなかった。
それも当然かと納得する。こんなところで、一人きりで暮らしていれば、自然と。
「はい、お待たせしました」
「いいえ、お手数かけまして」
やがてマリアットの前に並べられたのは切られたケーキと湯気を立てる紅茶、それにカトラリー。少女が自身の分も用意してから、加えてもうひとつ、二人の中央に置いたもの。
紙で作られた、かわいらしい王冠。
「……それは?」
「? やだユーグ、知らないの? 買ってきたのに」
少女に首を傾げられ、マリアットは眉を上げた。何を知らないというのだ。
少女に従ってケーキにフォークを入れながらその疑問を口にする。
「知らないって、何をですか?」
「ガレット・デ・ロワだから。王様の王冠がついてくるのは当たり前なの」
「……?」
少女の言うことが一つも理解できず、マリアットは訝しげな色をさらに深めた。菓子を口に運ぶとパイ生地の軽やかな食感、アーモンドクリームの甘い味がした。
砂糖のない紅茶の味を楽しむ向かいで、少女が説明する。
「ガレット・デ・ロワっていうのはただのお菓子じゃなくて、催し物のときに出されるものなの。年明けに食べられるものなんだけど」
滑らかに言葉を紡ぐ、その博識さは本に裏付けられたものだった。
満足に外に出ることも許されなかった少女に、唯一与えられたものによる。
少女の説明に相槌を打ちながらケーキにフォークを突き立てたマリアットは、そこにアーモンドともパイ生地とも皿とも違う硬い感触を覚えた。目を丸くしてその異物をつつき出す。
小さな音を立てて皿に転がったのは、陶器で作られた小さな猫だった。
「それで、中に含まれてるフェーヴっていう……って、それ!」
「? これですか?」
驚いたように指差された先の猫を、マリアットはまじまじと見つめた。陶器で作られた細工はそれほど上等ではないが、妙なおかしみや温かさが感じられた。
少女が何度も頷く。
「それよ、フェーヴって言って、一つだけ入ってるの。新年のお祝いならもっと大人数で食べるから、八等分したうちの二つにいきなり入ってるとは思わなかったけど……」
溢れる言葉に呑みこまれそうになったのか、少女が口を切った。その代わりに食卓の真ん中に置かれた王冠に手を伸ばす。
「――え?」
そしてそれを、マリアットの頭に置いた。
「王様ばんざい」
はにかむような笑顔で告げられて、マリアットは目を瞬く。
「……王様?」
「うん。フェーヴが当たった人は王様になるの。女の子なら王妃様よ、それでね、周りの人が王様ばんざい、王妃様ばんざい、って祝うの」
そこまで説明したところで、少女は唐突に顔を俯けた。どういうわけか、少々顔が赤い。
言い淀むように何度か口を開閉させる様子を、マリアットは何も言わずに見つめた。
漸く意を決して顔を上げた少女の頭に、王の証をそっと乗せてやる。
「それで、……?」
「オレは王様じゃなくていいんです」
虚を突かれたように頭に手をやる少女に、マリアットは笑いかけた。
「あなたが王女様、の方がしっくり来るでしょう?」
穏やかな声でそう告げると、一拍ののちに少女の顔が見る見るうちに赤く染まる。
折角上げた顔もすぐに俯けてしまって、その様子を素直に可愛らしいと思った。
「……っ、ほ、他にもまだ、あって」
「?」
消え入りそうな声が良く聞こえなくて、マリアットは身を乗り出して神経を集中させた。
「王妃様になった人は、王様をね、王様を選ぶんだけど」
ややつっかえながらも解説を続ける少女の様子は、マリアットの目にはとてもほほえましく見える。
その少女は思い切ったように顔を上げると近くにあったマリアットの顔に一瞬怯んだが、すぐにその身体を乗り出した。
マリアットの頬に、温かく柔らかなものが触れる。
「……選んだら、その人に、キス――するの」
掠れるほどに小さな声が、何故かよく、聞き取れた。
「……さ、」
彼が口を開くのと、彼女が椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がったのとは同時だった。
咄嗟に伸ばしたマリアットの手を擦り抜け、慌しく、逃げるように部屋を出ていく。ばたばたと足音が響いて、マリアットは彼女を追うべきか否か逡巡してから、諦めたように手を下ろした。
擦れ違いざまに見た彼女の耳もうなじも、酷く赤い色をしていた。
「………」
呼び損ねた名前を、今更口にすることはできなかった。
残されたのは食べかけのガレット・デ・ロワに冷めつつある紅茶に、彼女が落としていった王冠。
それを拾い上げて、マリアットは小さく息を吐いた。
この王冠がもっと似合う人間が、マリアットの中には確かにいた。
彼が王様だとするなら、マリアットにとって彼女は、間違いなく王女様だったのだ。
大切な大切な王様を亡くして、従者に残されたものは何もなかった。目指すべきものも、守るべきものも。
彼が遺したものをどう扱っていいのか未だに分からず、こうして生温くいつまで生きればいいのか。
自分は、彼の最期の願いすら叶えられなかったのに。
従者は、王女様の想いには応えられない。
従者は王様のためにしか動かない。
だから、王様の命を奪う原因の一端となった王女様に、従者はどう対応すればいいのか。
分からない。
分からない。
分からない。
途方に暮れて王冠をテーブルに置いて、マリアットは目についたガレット・デ・ロワを一欠片口に放り込んだ。
口の中で軽やかな音を立てて潰れたそれの後味はさっきと同じはずなのに、妙に甘ったるく厭らしかった。