Nobody knows him.

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 自分を包む光は確かに温かいものだったけれど、腕の中の温もりの方が余程心地が良かった。
「……のん、ゼノンっ……!」
「っ、……どうしたの」
 見上げてくる瞳も小さな口から紡がれる声も酷く動揺していて、一瞬詰まりかけた声を無理矢理捻り出す。
 それでも尚、泣きそうな顔をしているこの子供を安心させるために、出来ることは何だろうか。
「どうしたのって、だって、ゼノン、しんじゃう、けがして……なんでっ」
 いっぱいに目を見開いて、抱き竦められた子供は小さな手を自分の傷口にかざしていた。指先に灯る光眩いばかりで、それを見つめる瞳や引き絞られた唇が必死さを示している。縋るような色を、宿していた。
 この子供が縋るものは昔からひとつしかなかったのだ。それをよく分かっていた。
「なんでなおらないの! だっていままで、けが、こうやってなおして……」
「いいんだよ」
 強く、更に強く抱き締める。愛しいこの子の身体に汚い血を触れさせてしまうことには抵抗があったが、それに衝動が勝った。
 あたたかい。あたたかかった。
「いいんだ」
 法術は傷を癒すものではなく、身体が傷を癒す手助けをするものだ。身体が既にその傷を癒すだけの力を失っていたのならば、その効果を発揮することはできない。
 だから、細い手首を血塗れの手で掴んで止めた。
「……いいん、だ」
 小さな肩に顔を埋める。柔らかな髪がくすぐったくて、こんな時なのに笑ってしまいそうだった。
 暗く閉ざされた部屋の中で、こんな小さくて可愛らしいものが血に塗れているなんて、不似合いにも程がある。どうしてこんなことに、なってしまっているんだろう。
 でも、それもすぐに終わる。
 顔を離して見返せば幼い顔は涙で塗れていた。伝い落ちる滴は血とは違う、澄んだ透明。
「……ごめんね」
「なんで?」
 零れた謝罪に、不思議そうな顔をされて、口にしたのは素直な疑問だ。心と口が直結したままの子供は、ものを隠すにはあまりにも幼い。
「きみを、……幸せに、できなかったから」
 そんな子供に対し、真実を告げないことは酷く後ろめたかった。
 幸せにできなかった、というどころの話ではない。彼を苦しめていたものは、間違いなく自分だったのに、それを覆い隠して、いい顔ばかりして。
 彼から慕われる度に、罪悪感を感じない筈はなかった。
「ちがう、ちがう!」
「違う?」
 否定の声は切実な響きを帯びていて、その切実さが更に胸を痛めた。それでも彼の言葉が聞きたくて、それを遮ることなどできなかった。
「ちがう、ゼノンはっ――」
 愛しい愛しいこの子の、傍にいられるだけで良かったのだ。
 この子が幸せならばそれだけで、
「ゼノンがいっしょで、しあわせだよ!」
 返す言葉を、失った。
 この子供は過去形を使わなかった。今も尚そうであるかのように、実際そうなのだろうと。幸せ、なのだろうと。
 そう思わされてしまって、何も言えなくなる。
「……しあ、わせ?」
「しあわせ、しあわせだよ、だからっ――」
 背中に小さな手が回る。抱きついてきた身体が、触れる胸元が、見る見る赤く染まっていく。
 見上げる顔にこびりついた赤は、既に黒に変わりつつあった。
「……しんじゃ、やだよお」
 消え入りそうな声なのに、やけに耳に残って、それもすぐに思い出すことはできなくなるのだと思うと歯痒かった。
「……幸せ、なんだ」
 確認するように、言葉を漏らす。子供に確認したかったのか、自分に確認したかったのか、そんなことは分からなかった。分かろうとも思わなかった。
 膝をつくと、目線が近付く。目尻の涙を指先で拭ってやりたかったけれど、これ以上彼の顔を血で汚したくはなかった。
「っ、うん、しあわせ――」
「じゃあね」
 床に転がっていた杖を手繰り掴みながら、伝いたい言葉も手繰り寄せる。
「じゃあ、今度は、……きみが――幸せに、してあげてね」
「……ぼく、が?」
 瞬いた目がこちらを見つめる。まん丸大きな、綺麗な瞳。その色を形容する言葉を、自分は最後まで持つことは出来なかった。
「そ、う。……きみが、誰かを、幸せに――ッ」
「! ゼノン!」
 不意に意識が遠のいた。小さな身体では自分を支え切れない、そう判断して慌てて杖を立ててぎりぎりで堪える。
「ゼノン、ゼノン! やだ、しなないで、やだ、やだあ!」
「ね、……っ、聞いて」
 何故。
 何故、こんなことを言っているのだろう。自分はこの子供を、真の意味で幸せになどできた筈がなかったのに。
 それなのに何故、こんなにも押しつけがましく。
「……きみ、なら。きみならきっと、ひとのこと、幸せに、できるから」
「ゼ、ノン……」
 こんなにも押しつけがましく、この小さな身体に、希望を託してしまうのだろう。
 見上げる瞳と目が合わせられなくて、顔を伏せる。床を染める赤の広さを目の当たりにして、
 ――限界を、悟った。
「……だから、約束だよ」
 答えは聞かない。聞き届けてくれたかも分からない。
 意識を集中させると、杖の先で床を鳴らした。謡い上げる言霊に浮かび上がる眩い魔方陣、白く揺れる波動。身を竦ませ、怯えるような表情を見て、それを申し訳ないことのように感じた。
 だから。
 この子供を怖がらせるようなものすべてから、
 この子供を苦しめるようなものすべてから、
 この子供を泣かせるようなものすべてから、
 解放してやらなければならないと、心から思うのだ。
「―――ッ」
 詠唱の声が掠れる。術式が揺らぎ、魔方陣が光を失いかける。その度自分を叱咤しなんとか持ち直した。この子を巻き込んではならない。
 ここで朽ち果てるのは、自分だけ。
「……ゼノン、これ、何……? 何してるの、ゼノン? ゼノンっ!?」
 不安そうな顔でこちらを向く子供に答えてやれないことが酷く不甲斐ない。
 彼に手を差し伸べてくれる者がいればよかったのにと、最早叶わぬ仮定を思った。
 自分の代わりに彼を抱きしめてくれる者がいれば。
 それだけで、少しは救われたはずだから。
「―――」
 完成した術式と共に、魔方陣が一際強い光を放った。手放した杖が倒れるのと同時に膝をつき、同じ目線になった子供の身体を引き寄せる。
 最後にもう一度、強く、強く抱き締める。
「……ゼノン……」
 自分の名前を呼ぶこの声の、震えも色も響きも全て、忘れぬように刻み込む。
「……大好き、だよ」
 そして同時に、忘れられることになる言葉を、彼の中に刻み込む。
 全てはただの自己満足だった。
「大好きだ。……きみがいたから、……生きて、これだ。きみのおかげで、幸せだったんだ」
「……なんで、そんなこと」
 何もかもが分からなくて混乱して、切迫し切った声を耳元で聞く。先程より近くなった声は、いくら聞いても飽きることのない、愛しい愛しい声。
 腕の中の小さな身体へと、魔方陣の光が収束していく。その光は、子供を抱き締めている自分にまでは及ばない。彼だけを、包み込む。
「……幸せ、だったんだ」

 ――きみのことも、幸せにしたかった。

「ゼノ――」
 途中で声が掻き消えた。収束した光ごと、縋っていた温もりを失って、前のめりに頽れる。粘性を纏った水音が響いたが、それは酷く遠く聞こえた。
 何もかもが遠くぼやけていて、けれど遠く在るのは自分の方なのだろうと思った。遠く、遠くへと。真に遠ざかっているものは自分の命に他ならないのだろう。
「……い、ばい」
 もっと言いたいことがあった筈だった。
 もっと言わなければならないことがあった筈だった。
 後悔ばかりが胸を占める、この生き方を最期まで変えられはしなかったのが、悔しい。
 それでも、あの子を遠くへと、誰の手も届かないくらい遠くへと逃がしてあげられたことを、誇らしく思う。
 そしてせめて、あの子が優しい世界で生きることが出来るようにと、心から願った。
「……ッ、ぅ……っ、けほ、えほっ」
 口から零れる赤い液体、霞む視界に沈む意識。近付きつつある終わりを悟った。でも、もう出来ることは何もない。やりたいことだってありはしない。
 だからもう、どうだっていいのだ。
「……うか、お願い、……し、あわせでいて」
 あの子のもとで胸を満たして、それで逝けるのならば、これ以上幸せなことはなかった。
 天使になることが出来なかった子供は、既に彼にとっての天使だったから。
 だから最後の声で、福音のようなその名を呼んだ。

「――シャイン」


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