おわりそうなはじっこにまた偶然が落ちている

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 どんなに腕を伸ばしても、掴むことができないものがある。
 届いたと思っても、指先から零れ落ちてしまうものがある。

 どうして手に入らないのだろう。こんなにも望んで、こんなにも求めているのに。
 どうして手に入らないのだろう。そもそも、求めること自体が間違いなのだろうか。



 夢を見た気がした。
 冷たい掌の夢。冷たくて大きな掌の夢。
 触れてくる手つきが優しくて、その感触が心地よかった。

「……ん……?」

 夢うつつのうちに掴んだ腕は、白くて綺麗で、あの掌よりは少し温かかった。
 その小さな腕を掴んで、シャインは何度か目を瞬かせた。

「おはようございます、つばめくん」

 くすくすと笑う声が、シャインの意識を叩き起こした。勢いよく身体を起こすと、にわかに視界が眩んだ。シャインは落ちる頭を両手で抱えた。
 そんなシャインの頭を、白い掌が支え起こす。
 視力を取り戻して最初に見たものに、シャインは目を丸くした。

「鳴子、さん?」
「お久しぶりね」

 小袿姿の女性はそう言うと、そっとシャインから手を離した。
 どこかばつの悪い感じがして、シャインは頬を掻いた。視界は、完全に戻りつつあった。

「……お久しぶりです。相変わらずお美しい」
「あらありがとう。……相変わらずはあなたもよ」

 鳴子は立ち上がると、目を細めてシャインを見下ろした。柔らかく笑う。

「なんにも変わってないみたい」

 そう言われてシャインは肩を竦めた。
 そのことには何も言い返さず、話題を他に移す。

「ここは一体? オレはどうして」
「覚えてないの?」

 心外そうな表情をされて、シャインは首を傾げた。鳴子が続けて言う。

「マリンが倒れているあなたを拾ったのだけれど」
「マリン? マリンがいるんですか?」

 身を乗り出したシャインを見て、ああ、そこから説明しなきゃいけないのね、と鳴子は呟いた。
 鳴子はさらりと流れる長い黒髪をかきあげた。

「今は用があって出ているわ。……マリンとは、だいぶ前から一緒に暮らしてるの。不思議な縁よね」
「……マリンが? あなたと?」
「結構仲良くやってるのよ」

 意外な顛末に、シャインは目を白黒させた。
 鳴子は如才なく笑う。そんなにおかしいかしら、とシャインの傍らに膝をついて、その顔を覗き込む。
 鼻先が触れるほどの距離で、鳴子はシャインに告げた。

「――あの娘は、あなたが叡那さまを呼んだと言ったわ」

 シャインの目が見開かれる。鳴子は笑みを深めた。

「あなたは本当に心から、叡那さまを想っているのね」

 鳴子は過去形を使わなかった。
 シャインから身体を離す。膝をついたままで、その横顔を見つめた。
 シャインは額を押さえた。そこは熱を持っていて、それが少々煩わしい。

「……叡那さまを呼んだかは、オレはよく覚えてません」

 思い出せるのは冷たく優しい掌と、――自分を支えて歩く肩。

「けど、叡那さまは――叡那さまだけじゃない、オレが決めた人達――あの人達は、オレにとっては……永遠に、絶対です」

 その掌を、恋しく思う。
 その肩を、愛しく思う。
 そして――どちらを選ぶのかは、決まりきっている。

「……そう。まあ、まだ彼が生きてるというようには流石に思ってないみたいね」
「マリンが言ったんですか、それ?」

 唐突と感じられる鳴子の言葉の真意が測れずに、シャインは首を傾げた。
 鳴子が首肯する。

「叡那さまに、帰れと言われたからって。行かなきゃって、魘されてたらしいわ」
「……帰れ、ですか」

 シャインは眉を寄せる。

「……それは、叡那さまじゃなくて……他の人に言われたことなんですけど」
「あら、そうなの? どうしてそんな風に言われたのかしら」
「熱出てたらしいです」

 そう言ってから、シャインは自分の額に手を当てた。……少し、熱っぽい。あの時の彼女の指摘は間違っていなかったのだなと思う。
 同時に、彼女が風邪を引いていないか心配になる。確か彼女もかなり濡れていた筈だ。
 ――今更ながら雪の上に寝転んで話をするとかバカかと思う、しかもあんな寒い中で。途中から自分が下敷きになる形に変えたのは、その中では唯一正しい判断だったかもしれない。

「ああ、熱……ひどかったわよ」
「あー。申し訳ない。感謝します」

 今度から気をつけます、とシャインが頭を下げる。
 その頭に、鳴子は尋ねた。

「……あなたの帰るところは、ここだったのかしら?」

 上がりかけた頭が一瞬止まる。鳴子に顔を向けないで、シャインは答えに詰まった。
 考えたこともないことだった。帰る場所。帰るところ。帰れという説得。
 あの肩と別れて、シャインは――帰ることだけを目的としていた。ただ帰ることだけを。帰る必要があった。だから帰った。
 どこに?

「――よく、分かりません」

 けれどシャインは帰らなければならなかったのだ。そう望まれたから。望まれたとおりに、そうでないときっと心配をかける。
 それはシャインが望まないことで――最も避けたいことだった。

「ただ、ここは――」

 シャインは頭を押さえた。頭が熱くて痛かった。何も考えたくなかった。なのに頭は勝手に回る。

「――オレにとって……はじまりの場所なのかも、しれません」

 自分を抱き上げる強い腕を思い出した。
 自分を気遣う柔らかい声を思い出した。
 言葉を知らない、ぶっきらぼうな口振りを思い出した。
 抑えきれない数多の記憶が、頭をぐちゃぐちゃに掻き乱す。

「だいじょうぶ?」

 耳元で聞こえるはずの声が遠い。
 シャインは頭を抱えたまま、前のめりに突っ伏した。慌てて伸ばされた腕がシャインを支える、その感触すら遠く間接的だ。

「……ちょっと、また熱上がっちゃったの? 知恵熱って言うのかしら」

 額を触れる掌は冷たかった。その冷たさだけが、直接的に感じられた。
 それでも、それが違う掌であることは、何故だかよく分かっていた。


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