似たもの同士のふたり

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 生活雑誌に初心者向け料理本、ソーニャに頼まれた医学系のジャーナル。片っ端から手に取り胸に抱え込む。
 本の重さはしっとりと肌に馴染んだ。この重さがサーシャは好きだった。なにか落ち着いたものを感じられる気がする。
 用が済んだ雑誌置き場を出て新刊コーナーに向かう。胸に本をしっかり抱えて積まれた本を見回す。
 一冊だけ残った、明るい色の表紙が目に留まった。澄み渡った青空を写し取ったきれいな写真。サーシャの好きな作家の名前。
(見つけた)
 久しぶりの新刊だった。思わず笑みがこぼれる。嬉しくなって手を伸ばす。
 横から伸びた手が、空色の表紙を手に取った。
「――あ」
 サーシャはその手の主を見た。彼もサーシャを見返した。
 二つの声が、きれいに重なった。

 どうしてこんなことになったのだろう。
 喫茶のテーブルの向かいでにこにこ笑う女性に、ユーグは内心首を傾げていた。あまりこういう類の交際はしないのだが。
「――これですか?」
 手に取った軽く本を掲げて、ユーグはこう訊いたのだ。
 相手は手を伸ばした体勢のまま、ええと、と口ごもった。視線は浅く下を向く。
「好きな作家なんです」
 そう答えてから、彼女は少々見当外れの返答をしたことに気付いたようだった。慌てて顔を上げかぶりを振る。焦りと恥ずかしさからか、頬が赤く染まる。
「あ……その、ええと……」
 言葉に詰まる彼女に、水色の表紙を差し出してやる。アイスブルーの目が驚きに瞠られ、ユーグを見上げた。
 ユーグは首を傾けた。
「いらなかったですか?」
「あ、いえ! でも――その……」
 遠慮がちにこちらの様子を窺う彼女に、いいんです、と掌を振った。
「オレはまた今度で」
 あの少女もそうだろうと思う。もともと自分はこの本目当てで来た訳ではなく、たまたま見かけたから手に取っただけで。
 戸惑い気味の女性の手に本を押し付ける。あ、と小さな声を漏らして女性は本を受け取った。
 受け取ったそれを胸に抱くのを確認して、それじゃ、と背を向けた。ここにはまた後で来ればいい。あまり留まっていても相手が気まずいだろうし――。
 不意に、背後から袖を引かれた。振り返ると女性が意を決した様子でこちらを見上げている。
「あ、あの……」
 彼女は言った。
「お茶でもどうかしら」
 ――そして今に至る。
 向かいの女性はホットココアを飲んでいて、笑顔で、自分は初対面でこの女性に銃を向けた記憶があるのだが、比較的後を引かない性格なのだろうか、この女性は。よくまあ自分を誘う気になったものだと思う。あの時いたもう一方と会ったとしてもこうはならなかったろうとも。
「本とか、読むのね」
 カップを置いて、彼女が尋ねる。
 普通の知り合いを相手にしているように、自然に。
「んーまあ。そちらもわりと読まれんですね、結構雑誌とか買ってたみたいですが。あと料理本とか」
 こちらも自然に答えていた。運ばれてきたミルクティーは熱く、少し舌がぴりぴりした。
 確かに自分と彼女は普通の知り合いなのだ。状況次第で銃を、凶器を向け合う、命を奪い合う関係になるとは言え。
「雑誌は頼まれたものもあるわ。料理本は、うーんと……気が向いたら買っちゃうのああいうの、なんだか何回もなんだけどね」
 苦笑気味に彼女は眉を下げた。恥ずかしいわ、と両手で頬を押さえる。
 だからこの会話とか、このように一緒のテーブルで向かい合っていることもそうおかしなことではない。
「癖ですか」
 彼女はええ、まあ、とはにかむように笑った。確か彼女が買っていたのは料理の初心者向けの本だったか。あまり料理は得意でないと見た。ミルクティーを飲みながらそんなことを考える。
 こんな風に、普通に話をすることだって。
「似たような本を何冊も買って、って、よく呆れられるわ。気を付けてるんだけど、ああいう本見るたびに料理がしたくなって」
 やはり普段はあまり料理をしないようだ。エプロン姿といったような家庭的な格好も似合いそうな見た目をしているが。
 特段おかしなことではないのだ。ただ自分が、今まであまりこういった交際をしてこなかっただけで。
「本に触発されることって、結構ありますよね」
 答えて、あの少女がそうだったと思う。外を望む少女。彼の愛し子。たった一人の残された子供。
 ただ自分が、今までそういう気にならなかっただけで。
「あるわ。……悪いことじゃないと思うんだけど」
 わずかに女性が表情を曇らせた。可愛らしく頬を膨らませ、口を尖らす。
 今までそういう気にならなかったのに、どうして今回はこんな風に彼女に付き合っているのだろう。
「オレも思いますよ」
 彼女の表情を見ているは楽しかった。見慣れているから楽しかった。
 どうしてだろう。
「そうね、そうだわ。私、本って好きだわ」
 彼女の表情がぱっと明るくなった。明るい笑顔。幼さを感じさせる純粋な笑顔。
 少女じみた女性の笑顔。

 ――見慣れて、いる?

「マリアットさん!」
 アイスブルーが目を刺した。目の前の大きな瞳が心配げに瞬かれる。きれいな金糸が頬をくすぐる。
「……あ」
 足元、テーブルの下に割れたティーカップが散乱していた。ジーンズには熱いままのミルクティーがぶちまけられている。
「大丈夫かい、あんた?」
 恰幅のいいマスターがタオルを差し出す。受け取ったのはサーシャだった。ユーグのジーンズからミルクティーを慎重に拭き取る。
「火傷してないか? 厄介なとこだね、流水はかけづらいし」
「ごめんなさい、せめて氷水を――」
 サーシャの口上をユーグが遮った。
「あー……大丈夫です、ミスタ。すみません。カップ代、弁償はどのくらいに」
「弁償なんかいらないよ。ただあんた、本当に大丈夫なのかい?」
 親切なマスターは、この地域の治安の良さを思い出させる。それでも比較的というレベルだが。
「大丈夫です。すみません」
 ユーグは重ねて謝罪を口にした。笑みを作って立ち上がり、しゃがんだまま狼狽えるサーシャに言う。
「折角女性から誘っていただいたのに台無しですね。お詫びにもなりませんけど」
 ユーグは紙幣を財布から取り出し、テーブルに置いた。喫茶店での一杯には十分すぎる額だ。
 サーシャが慌ててユーグを見る。驚いたような表情。
「え、でも私が誘ったわ。もともとお礼なのに」
「楽しかったです。次もこんな風に会えるといいですね、ローゼンブラットさん。――ありがとうございました」
 軽く会釈し、早足で喫茶店を出た。サーシャの顔は見なかった。見られなかった。
 ドアベルが背後でちりんと鳴った。

 ユーグは路地裏に潜り込んだ。
 ひんやりとしたコンクリートの壁に背中を凭れる。太腿は間違いなく火傷になっているだろうと思う。 迂闊だった。
 どうしてあの女性の誘いを断れなかったのかが、今のユーグにははっきりと分かった。
 ――あの女性のおっとりとした笑顔が、少女のそれとよく似ていたから。外で生き、外で暮らしている女性が、少女と同じ笑顔をしているから。あの女性が少女のように笑えるから。少女があの女性のよう笑えるから。
 ――笑えるなら、どうして彼女はそこにいる?
 ユーグは頭を振った。持ってはならない疑問だった。疑問などは持ってはならなかった。
 自分の意義はそこにはないのだ。定められた範疇を出ることなど求められてはいない。それこそ不相応というものだ。
 それでもしかし、
(――あの娘が、あんなふうに喫茶店で笑えたら素敵だろうな)
 そのようには思った。

「……大丈夫かねー、あの人。姉ちゃんも大丈夫かい?」
 心配そうなマスターに話しかけられ、サーシャは我に返った。
「あ、私は大丈夫……です」
「そうか。気をつけなね」
 マスターはそう言ってテーブルから離れ、店の奥へ戻っていく。その背中を見送って、サーシャは追えなかった彼を思った。
「……マリアット」
 青い顔をしていた。火傷のせいじゃないと思う。火傷する前から顔色が悪かった気がした。
 彼は火傷の処置をちゃんとするだろうか。あのまま放っておいていい怪我には思えなかった。ソーニャほど詳しくはないが、サーシャだってソーニャやアスクから色々教わっている。
 ふと、彼が置いていった紙幣が目に留まった。決して安くない額。奢るつもりだったのに。お礼のつもりだったのに。
「……奢らせないわ」
 サーシャは紙幣を手に取ると、財布ではなくヒップバッグの中、ホルスターのベルトに仕舞った。
 次彼に逢ったとき、これを返そう。
 そこは初めて逢ったときのような鉄火場かもしれないし、今日のような書店かもしれないし、全く違う場所かもしれない。敵同士かもしれない、味方かもしれない、そのどちらでもないかもしれない。
 どんな状況であろうとも、それでもサーシャはこれを返すつもりでいた。何があっても。

(Title by ふりそそぐことば


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