たまらないむごさであなたはまっすぐだ

TOP



 薄暗い部屋に差し込む月の光が、熱に魘される赤い顔を照らし出す。
 褥の中で眠り込むシャインの額には、固く絞った手拭いが載せられていた。

 その傍らに座り込む白い影があった。
 赤い瞳が、真っ直ぐに火照った顔を見つめている。
 昔と比べ成長したはずの、けれども小さな小さな背中に、マリンは出来る限り優しい声音を出すように努めた。

「驚いたな」
「……うん」

 雪白は言葉少なに答えた。身動ぎひとつしない静かな様子に、何かを無理に抑え込んだような危うさがあった。
 少なくともマリンにはそう感じられた。小さな頃から面倒を見てきていて、自分にとってはいつまでも子どものままの雪白である。その心持ちを考えると胸が重くなった。

 彼が心から求めるものを手にするのを、マリンは一度も見たことがないのだ。

 マリンは手を伸ばして、シャインの額を冷ます手拭いを手に取った。冬の夜の冷たい水で絞ったそれは、何度取り替えてもすぐに温くなる。
 掌を額に当てると、その熱は依然高いままであった。少しも下がっていない、それどころか幾らか上がっているのではなかろうか。これ以上上がるようなら薬師を呼ぶなりの処置が必要になるかもしれない。
 そう考えてシャインの様子を窺っていると、触れてくる掌の冷たさに反応したのか何か別の要因があるのか、微かな呻きを漏らして身体を動かした。重たげな目蓋が薄く開く。
 マリンの隣で息を呑む気配がした。雪白に視線を移す、その少し前に手拭いを引ったくられた。振り返ると、雪白がまろぶようにして部屋を出ていく。

「て、手拭い冷やしてくる!」

 慌てた言葉は言い訳のように響いた。がたがたと騒がしく音が鳴るのが少々不安だったが追いはせず、マリンはシャインへと視線を戻した。
 シャインは苦しげな息を漏らして、虚ろに視線をさ迷わせていた。目の焦点が合っていない。熱に浮かされる苦痛に眉が寄る。
 マリンの冷たい掌が心地よいのか、すり寄るように頬をもたせてきた。掌が気持ちよいのならともう片方の手を額に重ねてやると、急に降ってきた冷たさに驚いたようにびくりと震えて目を閉じた。じきに冷たさに慣れてきたのか、おずおずと目蓋を開ける。

「起きたか」

 マリンの声に、シャインの視線がこちらを向く。焦点のややぼやけた瞳の奥には、変わらぬ色彩が宿る。
 それが懐かしいと、マリンは場違いに思った。

「……れ、は」

 シャインの声は酷く掠れて、力無く微かだった。魘されているようにも思えた。喉で鳴る音に掻き消されほとんど聞き取れない。
 マリンは苦しげな吐息混じりに口を動かすシャインを、これ以上喋らせる気にはなれなかった。シャインに向けて首を振る。

「オレは……」
「……喋らんでいい」
「……どう、して」
「後で話す。今は寝ろ」
「……帰、れ……って、言われて……それで」
「いいから休め!」

 思わず声を荒げた自分に、マリンは舌打ちした。病人相手に何をしている、雪白が戻ってくるかもしれないのに。
 マリンはシャインに触れていた手を離し、苛立たしげに頬を押さえた。頬が熱かった。頬に触れている掌が熱かった。

「……、そうだ――」

 シャインはマリンの言葉が聞こえているのかいないのか、誰に話しかけるでもなく呟き続ける。
 冷めぬ思考回路を腹立たしく思う彼女の頭を冷やしたのは、

「――あの人だ」

 あのひと。
 譫言のように漏らされた、その言葉だった。

 マリンは冷水を浴びせられたようになった。
 その言葉は寸分違わず――かつての彼が口にするときと比べ、寸分たりとも違わずに響いた。
 雪白が嫌っていたのと、全く違わない響きだった。

「あの人が……言う、から」

 愛おしむように、恋い慕うように。
 その言葉を、何よりも大切なものとして口にするときのシャインは、これ以上ないほど幸せに見えた。
 その喜悦に、薄氷のような危うさを含みながら。

「……行かないと」

 重い身体を引きずるようにして動かすシャインに、マリンははっと我に帰った。慌ててシャインを押し留める。

「その身体でどこに行くつもりだ」
「どこに、も何も……あの人の。オレは、あの人の――」

「広野叡那はもういない!」

 マリンはそう断ち切った。求めるように伸ばされたシャインの腕を掴む。腕が熱い。
 シャインは胡乱な様子でマリンを見上げた。マリンの発言が理解できないようでもあった。

「――彼は、死んだんだ。お前の行くところは、もうない」

 熱に浮かされたシャインは、そんなことすら忘れてしまっているのか。いや、恐らく純粋に意識が混濁してしまっているだけなのだろうと思う。
 しかし、今のマリンにとって重要なことは他にあった。

「――あれから何年経ったと思っている」

 吐き出されるマリンの言葉が、シャインに降り注ぐ。

「それなのに――お前はまだ、あの男に囚われているのか?」

 静かな夜だった。しんしんと雪が降って、月明かりが綺麗で眩しくて。
 シャインは両手を伸ばした。熱を帯びた掌がマリンの頬を抱え込む。月光に照らされるその姿は凄絶で、マリンは密かに喉を鳴らした。

「囚われてるんじゃない」
 苦しげに歪む瞳の中に安らぎが垣間見える。

「ただ、大切なだけだ」

 穏やかな口振りだった。
 その様子に、マリンはかける言葉を失った。

「オレは、あの人が大切で――幸せで、いてほしくて」

 たどたどしく紡がれる言葉には、懸命さばかりが込められていた。

「そのためには、なんだってして」

 ただ相手を想う懸命さばかりが。

「――それしかできないから、そうするだけ」

 そう言って、シャインは静かに笑った。
 無垢とすら思える笑顔だった。だから、マリンは――ひとつのことを、諦めた。
 その最後に、確認したいことがひとつ残った。

「……そうまでしておいて、見返りは求めないのか」

 マリンが言うと、シャインはただ不思議そうな顔を見せた。見返りというものが何なのか分かっていないような、そんな顔だった。
 マリンは駄目押しのように問いかける。

「ひたすら相手に尽くして、それで――感謝されたいとは思わないのか。相手に大切にされたいとか、好かれたいとか」

 この質問は確認だった。
 シャインがシャインのままであるか。
 今も尚、彼を大切と言うシャインが――マリンの知る、シャインのままであるか。

「そういう見返りを、お前は求めないのか」

 マリンが手に負えないと諦めた、あの時のシャインのままであるか。

「……そういうものが、オレにはよく分かりません」

 シャインは小さく首を振った。

「だけど――オレは、できる限り、あの人からは何とも思われないでいたい。できる限り、どうでもいい存在でありたい」
「……それは、どうしてだ」

 マリンは重石を呑んだような気分だった。低く問う。
 当たり前のように、シャインは答えた。

「大切に思われていれば、あの人を悲しませましょう。消えることも、死ぬことも――何をしても、あの人は悲しむ」

 それはオレの本意ではありません。
 そう言い切るシャインに、マリンは――かつてとそっくり同じものを見た。

 自分は改めて、この人間を諦めるのだと思った。

「だから、オレは……?」
「もういい。喋らせて悪かった」

 なおも起き上がろうとするシャインの額にマリンは手を置いた。ぐいと力任せに褥に押し込む。

「いいから、眠れ」

 反駁しようと開いた唇は、言葉を紡ぐことなく止まった。がくりと首が落ちて、シャインは力無くうつ伏せた。喉を鳴らす呼吸音が規則的に聞こえる。
 催眠術が効いたのを確認してから、マリンは袿をかけ直してやった。今は眠れと頭を軽く撫でてやる。
 こうして大人しくなったのを見ると、シャインは全く無力な子どものようにすら見えた。子どもと言うには少々年があるかもしれないが、マリンの目にはそう映る。
 その不相応なあどけなさが、雪白と重なった。

「……そういえば」

 雪白が戻らない。



「入って来て良かったんだぞ」

 引き戸を開けて声をかけると、雪白は身体を硬直させた。すがるように手元の手拭いを握り締める。
 マリンは小さく息をつくと、雪白から手拭いを取り上げた。ずっと持っていたと見えて、完全に温くなってしまっている。

「あ、う」

 雪白は顔を赤くして、何度か口を開閉させた。幾らか逡巡した後に、気まずそうに下を向く。
 何か言いたいことがある時の、雪白の癖だった。どう助け船を出すかマリンが思案する間に、雪白が口を開いた。

「……どうすればいいか分からなかったんだ」

 静かな声音だった。
 自分から口を開いた雪白を、マリンは黙って見守った。軽く頷くなどして促すと、雪白はおずおずと続けた。

「言いたいことが、たくさんありすぎて。聞きたいこともたくさんあって、罵ってやりたいとも思った」

 雪白の言うことはマリンにも良く分かった。シャインが熱を出してさえいなければ、マリンは間違いなくそうしただろう。
 積もり積もった沢山のものは風化したかのように見えて、その実息を吹き返す機会を窺っていた。

「……けど、何も話したくないんだ」

 怖いから。雪白はその言葉を呑み込み損ねたようで、僅かに後悔の色を滲ませた。
 そんな雪白の頭を、マリンは軽く撫でてやった。かつてよくしたように。久しくしなかったように。
 子どもをあやすようなマリンの動作が、雪白の中の何かを決壊させた。

「……卑怯だよ」

 雪白の声が割れた。圧し殺されていた声が上ずる。言葉が、力任せに吐き出される。

「ずっと過ごしてきて――忘れられたって思ってたのに! 悩まなくていい、あいつのことなんて考えなくていいって、もういないんだから! そうやって楽に毎日過ごせてたのに、なんで!」

 興奮のあまりに息が荒れる。肩を上下させながら、雪白は自らを抱き締めた。

「なんで――今さらになって、出てくるのさ」

 そう溢した雪白は、今にも泣き出しそうだった。
 力が抜けたように座り込み、俯く。

「……こんなふうに、出てこられたら……関係ないって生きてたって、いきなり出てくるって分かっちゃったら、もう忘れられないよ」

 雪白が肩を震わせる。立ったままでの見下ろす形のマリンからは、彼が泣いているかどうかは分からなかった。
 ただ、彼の声は哭いていた。

「もう――諦められない」

 雪白はそうだった。
 そうだと、マリンには分かっていた。
 だからこそマリンは、雪白がシャインと話すべきでないと思った。
 これ以上、雪白がシャインに期待を裏切られる必要はないと思った。

「……雪白、あいつはな」

 故にマリンは言った。

「同じだよ。――昔のままの、変わらないシャインだ」

 シャインの代わりに、雪白の希望を打ち砕いた。
 諦めたマリンだから、それができた。

「―――っ」

 俯く雪白の顔は見えない。表情は、窺えない。
 マリンは雪白の頭をもう一度撫でてから、その大きな掌を離した。

「もう寝ろ。鳴子には私から話しておく」

 返事はない。マリンも求めなかった。手拭いを冷やすために室を出る。
 冴え冴えとした夜の空気が冷たくて、マリンは小さく身震いした。吐く息は白い。水を張った桶に手拭いを浸すと、その冷たさに指先がかじかむ。
 空を見上げると、煌々と明るい満月が目に入った。満月が狂気を呼ぶというのは夷国の伝えだったろうか。
 それが正しい伝えであるなら、今夜の出来事も、すべて満月が起こした狂気であればいい――心の底から、そう思った。


TOP


Copyright(c) 2012 all rights reserved.