酒飲むだけの話

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 からり、と掌でタンブラーの氷が涼やかな音を立てる。透き通ったジントニックの中に沈むライムを眺めながら、アイカは大きくため息をついた。
「機嫌悪いねー。折角飲んでんのにさ」
「憂さ晴らしで飲んでんだから仕方ねぇだろ」
 会話の妨げにならない程度の喧騒、耳を過ぎる好き通った歌声。心地よい薄暗さの中で、アイカは全くもって心地よくない時間を過ごしていた。
「うわあ悪い飲み方だ」
 呆れたように肩をすくめるのは隣に座るソーニャだ。指先まで赤いアイカとは対照に、日に焼けていない顔は依然白いままだ。その手が握っているのはオレンジジュースだが、息は酷く酒臭い。
「つってもアル中じゃないだけましかなー。君のとこの上司なんとかしたほうがいいよー。酒に強い方が肝臓やられる危険って高いからさ」
「あ? 逆じゃねェの?」
「調子に乗って飲むから肝臓やられんの。君みたく弱ければやられるまで飲まないから大丈夫なんだけど」
「ああ、そういう……つーかわざわざそっちに話を持ってくな! 気が重い!」
「いーじゃん別に。……あ、ディックさんもう一杯ちょーだい!」
「はーい」
 アイカの文句を軽く受け流し、カウンター越しに注文を出すソーニャ。その調子の良さに反比例するように、アイカはがくりと肩を落とした。
「つーか、わざわざ一緒に飲むこたねぇだろ……どっか行けよ」
「どうせ一人さびしく飲む予定だったんじゃんか」
「お前もだろーが。……正直一人のがマシなんだが」
「本格的に可哀想な人みたいになってこない」
「ほっとけ」
 仏頂面とにやけ顔のやり取りを遮るようにウォッカグラスが置かれた。
 限界にまで冷やされたウォッカから揺らめく白い冷気が、二人の上気した頬を冷やす。
「はい、ソーニャさんウォッカです」
「ありがとー」
 ソーニャはひどく冷たいそれを手に取って一気に煽った。度数の高いはずの透明な液体が即座に喉に流し込まれる様子に、アイカは思わず目を奪われた。信じられない。色んな意味で。
 空にしたグラスを事もなげに置くと、ソーニャは呆然と自分を向くアイカを見てにやりと笑った。
「どーしたのー?」
「……お前それ何杯目だ?」
「まだ五杯目―」
 にへらにへらと笑いながら黒パンをつまむソーニャが妙に白々しいというか、アイカは背筋が寒くなるような気持ちを味わった。
「アイカさん弱いんだよー。まだ一杯目だっけ?」
「二杯目だよ」
「つってもいつもジン少なめじゃんそれ。どんぐらいで作ってもらってんの?」
「知るか」
 言葉少なに返すアイカは、それ以上語る気はないというようにジントニックを口に含んだ。そう多くはなかった残りを一気に飲み干す――が、喉を灼かれるような感覚に噎せ返る。
「――ッ! っえほ、ぉふっ……」
「え!? 今の量でそーなんの!?」
 驚くソーニャの声に今までのような毒気が感じられないのが逆に腹立たしい。誰もが強いと思うなよこの化け物、という毒づきは言葉にならず胸に押しとどめられる。
 ――つーか、実際、有り得ねえだろこいつのザルっぷり。
 全くもう、などと零しながら背中を撫でるソーニャの顔は相変わらずの白さだ。人間は誰もが平等だと言う人間もいるが、備わった能力だとか体質だとか造形だとか、平等なものはひとつもないのだと改めて思い知らされる。
 ――あと、生まれたタイミングとかも。
「は、ぁっ……」
「ほらほらアイカさんー」
 アイカの呼吸が落ち付いてきたところで、背中をさすっていた手が新たに置かれたタンブラーを指し示す。
 ライムでなくレモンが飾られたそれを手に取り、ソーニャはアイカに押し付けた。
「もうちょっと口当たりいいやつ選べばいいんだよ。ジュース感覚っていうか」
 アイカは押しつけられたタンブラーを暫く見つめたあと、懐疑的な視線をソーニャに向けた。
「……お前はウォッカをジュース感覚で飲むだろうが」
「ジュースだったら一気飲みしないよ」
「………」
 最早反論する気力すらもなくして、アイカは掌の中の酒に目を落とした。
 そして、ゆっくりと唇をつける。



「そもそもがあの人言っても聞かねーんだよ畜生が! 力づくで取り上げようにも手離さねーし! 力強いし!」
「……あ、うん……まあ刀振り回してるしね……」
「そもそもニコラさんになんか強く言うの苦手だっつーの! 昔はもっとしゃんとしてたしねーちゃんみたいだったっつーか……刷り込みとかとはまた違うけどよ、なんか、な!?」
「……まあオレも確かに伊鶴さんにあんまり強く出られないけど」
「だろ! つーかサーシャ! お前の妹だろ、なんとかしろよ!」
「何を」
「事務所内を下着姿でうろつくなって話だよ! たまに来客と鉢合わせるし! そもそもあいつマルクさん本命なんだからそれ以外に対する慎みってもんをな……」
「……それちょっと真面目にやばいから言っておくよ。オレが言ってどうなるかわかんないけど」
「助かる。……紬はまあ比較的ちゃんとしてるけど、どっか抜けてるっつーか……そもそもあいつらもっと片付けとか整理整頓とか……」
 完璧にテンションが逆転している二人である。
 アイカの顔は赤く、ソーニャの顔は白い。それは変わらぬままなのだが、ソーニャの白さはもともとの白さを通り越して蒼白に近い印象すら受ける。
「アイカさん、乗ってますねー」
 おかしそうに声をかけてきたのはマスターのディック・バグウェルだった。ぐったりと肩を落としたソーニャは、アイカに聞こえないようにひっそりと問いを投げかける。
「……前もこうなったの、見たことある?」
「ありますよ。面白いですよね」
「思いっきり他人事!?」
「そこ!」
 勢いよく空のタンブラーを突き出され、思わず身を固くするソーニャと目を丸くするディックに、アイカは堂々と言い放った。
「話はちゃんと聞け! あともう一杯!」
「同じのでよろしいですか?」
「ん!」
 こくりと大きく頷くアイカ。
 身を返して酒を用意しようとしたディックを、ソーニャは慌てて捕まえた。小声で囁く。
「……もういいから、ジュース出してよ。これ以上酒与えたらめんどくさいことになるでしょアレ!?」
「でもお酒のが儲けになりますよ」
 ディックは真顔でしれっと言い放った。
「差分は払うからジュース出して! お願い! ……痛っ」
「何ひそひそしゃべってんだよー」
 アイカはタンブラーでソーニャのこめかみを小突くと、襟首を掴んで引き寄せた。完全にノリが酔っ払いのそれである。
 しかも、酔い方が悪い方の。
「なんでもないったら! ……えーとじゃあ、お願いね!」
「はいはい」
 にこやかに頷くディックの余裕が空恐ろしい。
 この人もしかして結構食えないんじゃないかなあとかいうソーニャの思考を、物理的な暴力が遮った。襟首を思い切り引っ張られて危うく首がふれそうになる。
「人の話はちゃんと聞くもんだろー!?」
「いや、うん……そうですね……あと人の意思もちゃんと尊重するものだと思うし人の身体もちゃんと気遣うものだと思うよ」
「何当たり前のこと言ってんだお前」
 当たり前のことができてねえから言ってんだよ。とは流石に言えなかった。
 不本意ながら押し黙ったソーニャの代わりに、ディックがアイカの前にタンブラーグラスを差し出す。
「はい、アイカさん」
「んー、さんきゅ」
 ソーニャを掴んでいた手でタンブラーを受け取るアイカ。
 圧迫から解放されて息を吐くソーニャの前で受け取った液体を煽る、アイカのその手が不意に止まった。
「……? どしたの」
「……酒じゃない」
「は?」
「ディックさんこれ酒じゃねーぞ! アルコール入ってない!」
「はい、そうですね」
 猛烈な抗議を始めたアイカを、ソーニャ呆然と見つめた。
 その前であっさりとディックがネタばらしをする。
「ソーニャさんに頼まれてしまったんですよー、もうお酒飲ませるなって」
「はぁ!?」
 アイカはぎろりとソーニャを睨みつけた。なんか結構真面目に殺意が込められているような気がしてきたが多分気のせいだきっとそうだ、と自分に言い聞かせて、ソーニャはアイカに言う。
「それ以上飲んだらやばいから、絶対。ドクターストップ! ジュースで我慢しなさい!」
「いーやーだー。アルコール! 酒! 酒! お前が持ってるの酒だろ!?」
「うるせえ! あっコラこれも酒じゃないから! ジュースだから! つーかウォッカなんてお前に飲ませられるか! っうわ!」
「取ったー!」
 話を聞けない、聞く気がないアイカはソーニャのグラスを力づくで奪い取った。
 アイカがグラスに口をつけた途端、勝ち誇ったような表情が急にしぼんでいく。手の中のグラスを軽く振りながら、顔を顰めてソーニャに抗議する。
「これもジュースじゃねーかよ、お前酒どこに隠したん? 持ってるだろ?」
「持ってないからね! もう諦めろって言ってんの、なんか酒癖ニコラさんより悪くない!?」
「ニコラさんみたくしじゅー飲んでねーよ!」
「なんかそこじゃなくてさぁ! 絡み酒!? 絡み酒なの!?」
「あ、ディックさん、今度こそ酒! 酒くれ!」
「だーかーらー駄目だってばー!」



 とっぷりと突っ伏したアイカと、ぐったりと頭を抱えるソーニャ。
 カウンターに並ぶ二人を見て、ディックはあくまでもにこやかに笑った。
「二人ともお疲れですね」
「誰のせいだよ……」
 呻くようなソーニャの抗弁も、ディックはさらりと受け流す。
「酒は飲んでも飲まれるな、ですよ」
「それは隣で寝てるこの男に言ってください」
 正直ソーニャも今すぐ眠りたいようなそんな気分だった。
「……寝て、ねーし……」
「うわあまじかよ……寝てくれてた方が楽だったよ……あ、でもオレひきずって帰れねーや……放置しちゃだめ?」
「だめですよー」
「ですよねー」
 だったらここまで飲ませるなと抗議したいソーニャである。再度がくりと肩を落とす。
「……はぁ」
「……だろ……」
「……んあ?」
 もう何度目か分からないため息をついたソーニャの耳が、くぐもった呟きを捉えた。
「だって……そーゆーのって、ずりーだろ……」
「オレ個人としては君のその酒癖の悪さがずるいと思うんだけど」
 聞こえているのかいないのかはどうでもいいとばかりに思わず突っ込みをいれたソーニャだったが、恐らく聞こえていないのだろう。
 アイカは突っ伏したまま愚痴を漏らし続ける。
「だめなら、だめでいーしさー……旦那さんも、だいじだったって分かるしさー……」
「……はあ」
 大体なんの話だか分かってきたソーニャは黙らせるべきか聞いてやるべきか迷って、とりあえず曖昧な声を漏らした。
「じゃー、それだけでいーじゃねーか……」
 相槌など打たなくとも、愚痴は続いてゆく。この腕を剥がしてやったらどんな顔をしているのだろうかと、そんな風にソーニャは思った。
「ニコラさんのこととか、持ち出すんじゃねーよ……」
 消え入るような声だった。
 ソーニャは相槌こそ打たなかったが、その肩を軽く叩いてやろうと手を伸ばし――急に身を起こしたアイカに驚愕した。
「だってそーだろ! あの人が大変なのとかんなもん俺だって全然分かってるっつーの、テオさんにはホント父親みたいにお世話になったしさぁ、アゼルのことだって!」
 捲し立てる顔は、ソーニャの予想と反して泣いてはいなかった。酒で潤んではいたけれど。
「だけどあの人、大変なりにちゃんとやってんだぜー? なんか妙な過保護っつーか……おかしーって絶対。気にしすぎっつーか……まあ親友っていうくらいだから気にするのかもしんねーけど気にしすぎっつーか……」
 ぶつぶつと呟くアイカの首が、がくりと落ちかける。慌てて伸ばしたソーニャの手をすり抜け、
「はい、寝ないでくださいね」
 硬い音と共にその額を受け止めたのは、ディックの手に握られたタンブラーだ。
「いッ……!?」
「折角起きたんですから、また寝かすのは勿体ないでしょう」
 痛みに額を押さえたアイカに飄々と言って、ディックはソーニャを見た。
「ね? ソーニャさん」
「……そうだね。ありがとう、助かったよ」
「〜〜〜〜〜っ」
 ソーニャは財布から紙幣を何枚か取り出すとカウンターに置いた。アイカが肩を震わせているのには頓着せず、その腕を掴んで無理矢理引きずり下ろす。
「ちょ、おい」
 抵抗する腕も、酒の影響か力無い。ソーニャを振り解けないほどだから相当である。
「帰るよー。これ以上好き勝手されたらたまったもんじゃない。……ディックさん、それで十分でしょ? 釣りはいらないから!」
「……そうですね、ありがとうございました。帰り道、お気をつけください」
「はーい」
「おい、ソーニャ――」
 抵抗も空しく引きずられていくアイカの姿が、扉の向こうに消える。

 二人を見送ったディックは、ふうと気が抜けたような息を漏らした。
「おつかれさまー。長かったのね」
 店の奥からねぎらいの声をかけたのは、赤みがかかった金髪を結い上げた――先ほどまで、このバーで歌っていた女性である。
 ラフな格好に着替えた女性に向け、ディックはついさっきとは全く違う、はにかんだような笑顔を見せた。
「うん、潰れちゃった人がいたからね」
「あなたが潰しちゃったんでしょー。あんまりよくないわよ、気をつけなくちゃ。来てくれなくなっちゃうわよ?」
「う、……」
 窘めるような口調の女性に対し、ディックは言葉を詰まらせる。その様子に、もう、と女性は肩をすくめた。
「あなた、お客さんとか取引相手さんとかには押しが強いのに、身内や友達となるとてんでそうなんだから。普通逆でしょう?」
「……だ、だって、お客さん相手に引いちゃうと付け入られちゃったりするけど……レティーシャが相手なら、そういうことはないじゃないか」
 ディックが口を尖らせた、その内容に女性は――レティーシャは目を丸くした。
 一拍おいて、くすくすと笑う。
「……何か変なこと言った?」
「ううん、正しい。正しいけど……おかしい」
「……そうかな」
 ディックは釈然としない様子で首をひねるがレティーシャは気にも留めなかった。残っていたグラス類を洗いながら声をかけてやる。
「さ、早く片付けて寝ちゃいましょ。もう遅いんだから」
「……そうだね」
 それは正論だとディックは頷き、キッチンクロスを手に取った。カウンターに零れたジュースが目に入り、ふっと思い出して心配になる。
「……あの二人、帰れてるかなー」



「……あのさ、もうちょっと自力で立とうとか自分で歩こうとか、そういう気概はないの?」
「あるっつーの……つーか、歩いてんじゃねーか」
「歩けてねーよ! 重いわ! なんでお前支えながら歩かなきゃいけないの!? 重いんだよ!」
「軽かったら逆にやべーよ。……つーか、お前、背でかい割に筋肉全然ねぇな」
「運んでもらってる人間が言う台詞じゃねえー! 置いてくぞ!?」
「……置いてけるんなら置いてけよ」
「分かった置いてく。……って、おい、離せ」
「……置いてけるんなら置いてけって言ってるだろ」
「だから離せって。……いやこれ物理的に置いてけねーよ! 置いてけるんなら置いてけって無理だよ! 離せ! 離せったら―――っ!」

(10/08/10)


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