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 サーシャさんはニンジン相手に苦戦していました。まったくこの固いやつは、いくら集中しても大人しく切られてくれないのです。短冊切りなり損ねの先兵たちがまな板に死屍累々です。極めて無残な光景です。
 一度手を止めて、サーシャさんは溜め息をつきました。包丁を置いて剥き出しの白い肩をとんとんと叩きます。撃ち合いのときよりも疲れたような気すらします。つーか疲れました。
「切り終わった?」
 そんなサーシャさんに紬さんが声をかけました。暑さと生理痛のダブルパンチでノックアウト気味の紬さんは、ソファに寝転がって本を手に持っています。
 開かれているその本は『料理の常識』。鮮やかな赤い表紙が目に眩しいです。
「まだ、まだよ! ごめんね、ちょっと待ってね、頑張るからね」
「焦らなくていいよ。むしろ空回りが怖いから肩の力抜いて」
 いいえ、頑張るわ、とサーシャさんは内心で拳を握りました。その気負いが紬さんにとっては怖いんじゃないかって気がしますが。
 見て分かる通り、今日のサーシャさんは非常にやる気でした。新しい初心者向けの料理の本を買って、事務所で転がってた紬さんに助力を頼んで、今日こそはと気力たっぷりです。それなりにコンプレックスですので、彼女にとっては料理ってやつは。
 なにせソーニャ君の方は結構料理上手いのです。そつなくこなす、という感じで。サーシャさん的には双子なんだから私にもできるわって持論でして、その持論に則るならソーニャ君は鉄火場で銃を片手に大立ち回りができるでしょうし、サーシャさんはメスを使って重病人の外科手術ができるでしょう。要するに、間違ってますその持論。
 とりあえず、持論の真偽は兎も角として。サーシャさんは気合いを込めて包丁を握ります。ニンジンにもう片方の手をかけます。慎重に切り始めました。どかん、どかんと。
 暑さ痛みに頭がややぼーっとしていた紬さんですが、その音を聞くたびにサーシャさんが心配になります。指切らないといいけどあの子。なんか切り落とせそうな音立ててるし。
 しばらくの間包丁が刻む不恰好なリズムが続いて、紬さんが密かにサーシャさんを案じて、やがてそれは終わりました。包丁を置いて、サーシャさんが明るい声をあげます。早くも達成感に満ちています。早すぎます。
「終わったわ、紬!」
「終わってないよ。切り終わったんだろうけど」
 汗で額にはりついた前髪を鬱陶しげに払って、紬さんは『料理の常識』に目を落としました。促されるままに『野菜炒めの作り方』を読み上げます。
「フライパン熱して油入れて、ベーコンから入れて。脂が出てきたら野菜入れる。ピーマン以外」
「はい!」
 返事は立派なサーシャさんです。張り切ってフライパンに取りかかる音が紬さんにも聞こえてきます。ちらりと様子を窺うとサラダ油をフライパンに注いでいる様子が見えました。なんか勢い良すぎないか。
 とはいえ口出しできるほど料理上手くはないのは事実です、紬さん。ちょっとした食事とかなら適当に買って済ませちゃうタイプですし、サーシャさんみたく食べさせたいような相手もいませんし。
 わりと栄養さえ取れればいいみたいな考えで、サプリメントを頼ることもままあるので、伊鶴さんはいい顔しませんが、たまにそれすら忘れますが。
 それでもまあ、サーシャさんよりはそれなりにできないこともないぐらいのレベルです。少なくとも紬さんは小火は起こしません。小火は。
 フライパンと格闘していたサーシャさんが、不意に派手な音を立てました。続いて小さな悲鳴、がしゃん、きゃって。
「……どうしたの」
 紬さんがむくりと頭をもたげてサーシャさんを向きましたが、サーシャさん、なんでもないわ、大丈夫よって上擦った声を返して、やっぱりバーサスフライパン継続中です。なんでもないとか大丈夫とかってワードに、なんでもなくなさとか大丈夫じゃなさをひしひしと感じる紬さんです。やっぱり止めた方がよかったかも。
 再三述べたとおりサーシャさん、料理のセンスとか天分というようなものが著しく欠けているとしか思えませんで。紬さん的には、人には向き不向きというものがあるし、それは決して悪いことじゃないと思うのですが。料理ができなくてもサーシャさんはサーシャさんですし。紬さんが好きなサーシャさんです。
 一方で、まあ、料理を食べさせたい相手のために頑張る彼女を可愛らしく思う部分も紬さんにはありまして、紬さんはそういう気持ちを持ったことはありませんが、なんだかんだでサーシャさんが頑張る姿を見守ってしまうのです。止められずに。
 止めたら良かったかも、というのは、思ったこと限りない感じですが。
「できたっ!」
 フライパンとの格闘音が止まって、火を止めたサーシャさんはくるりと回って、やったわ、と拳を握りました。紬さんはソファからお疲れさま、と声をかけました。疲れたよ、とサーシャさん。
「で、どう? おいしいの」
 紬さんの問いに野菜炒めを皿に持ったサーシャさん、エプロンを脱ぎながらうーんと眉根を寄せます。釈然としない表情です。
「……自分で作ると、おいしいかとかってあんまり分からないの」
 ふうん、と紬さんが首を傾げます。そういうもんなのか、ってもんです。あんまりぴんと来ない感じで。
 そんな紬さんのもとに、お盆を持って寄ってくるサーシャさんです。えへ、と小首を傾げて笑ってみせる彼女に、紬さんは少し嫌な予感がしました。
「ね、食べてみてくれないかしら」
 予感的中。
 紬さんは、サーシャさんの料理が上達するためにはそれなりの協力をするつもりです。先程のようなサーシャさんを可愛らしく思う気持ちとか、他色んなものもあい混じって。けれどそれにはある程度体調が万全である必要がありました。だってそれなり以上のエネルギーが必要とされること明白ですし、彼女の料理特訓。
「ごめん」
「?」
 そして今の紬さんは体調最悪です。もともと紬さん生理痛重いのに、加えてこの猛暑で夏バテまで食らって、正直立ち上がるのも億劫になるだるさです。
「正直、無理」
 それは紬さんのわりと切実な本音でした。なんか今は何入れても身体が受け付けそうにありません。吐きでもしたらかえってショック受けそうてすし、サーシャさん。つーかショック受けます、常識的に考えて。
「あ、うー……辛いのよね、そうよね、仕方ないわ」
 サーシャさんは目に見えてしょんぼりしています。絆されそうになった紬さんですが、ここは心を鬼にしなければなりません。だから吐くって、今とか絶対吐くって!
 けど、冷めちゃったら味ってきっと変わっちゃうし、と声には出さずサーシャさん、お盆の上の料理を見つめます。温めなおしても変わっちゃうかもしれないわって。温めなおしても美味しい料理はサーシャさんには敷居が高かったのでした。わりと。
 どうしたものかしら、とサーシャさんが悩みかけたその時、部屋の鍵が開く音が聞こえました。ひょいとサーシャさんが、のっそりと紬さんが扉へ顔を向けます。
「……お前ら、服着ろよ」
 思わずといった様子でぼそりと零したのはアイカさんでした。この暑い中ネクタイ締めたYシャツ姿で、わりとお疲れさまな感じです。
 着てるわ、着てるけど、と顔を見合わせたサーシャさんと紬さんでしたが、確かに着てますけど、まあ着てるんですけど。
 かたやノーブラの豊かなバストを隠しきれない、というか隠す気のないキャミソール一枚に、見事な曲線を描く太腿を惜しげもなく晒すホットパンツ姿だったとしても。
 かたや平坦なボディラインを、しかしやや大きめなタンクトップとこちらもホットパンツ姿で、借り物なのかサイズのやや大きいそれからはすらりとした脚線美が伸びていたとしても。
 アイカさん的にはもうちょっと慎みを知れって感じです。特にサーシャさんについては。ゼロさんなんか言ってくれねえかなぁー、ってわりとこれ本音、言わないけど。
 そんな二人、場合によってはプラス一人に悩まされつつも世話を焼くのを止められないのが、アイカさんの習い性というか癖というか貧乏性といったところなのですが。
「サーシャはともかく紬、お前は腹冷やすな。暑いのは分かっけど」
 現に今、ぐったりとしている紬さんのその理由を知っているアイカさんはそう声をかけて、椅子に引っかかっていたタオルケットを手に取りながら。わりと達観しつつある領域の気分でした。まあ慣れてますし。
「……あ」
 そこでサーシャさん、表情がぱっと明るくなりました。なにかいいこと思いついた、みたいな感じで。頭の上に電球点いたよ、みたいな感じで。
「そうよ、そうだわ! タイミングよかったわアイカ、ありがとう」
「なにが」
 紬さんのおなかにタオルケットかけながら、アイカさん。こにこと小さく小躍りするサーシャさんには動じません。慣れですね。
サーシャさんはずっと持ちっぱなしだった、忘れられかけてた野菜炒めを軽く掲げて、無邪気すぎるほどに無邪気な笑みです。まあ彼女のデフォルトです。
「味見よ」
「……ああ、諦めてなかったんか」
「わりと無神経だよね、君」
 気はきくけど、ありがとう、と紬さん。無神経にならなきゃやってけねぇ、と暑そうにネクタイ取りながらアイカさん。
「野菜炒めよ。自分じゃいまいち美味しいかどうか分からないの、お願い」
「ハイハイ」
 わかったよ、とフォーク取りながらアイカさんは言って、野菜炒めに手を伸ばしました。

「……敗因は何かしら」
 ソファの脇に座って、紬さんの脚に上体預けて、しかめっ面でサーシャさん。
 紬さんも渋い顔でこめかみを押さえています。心中は合掌中。自分の説明が悪かったかと反省中。むしろ猛省中。
「……食材が悪かったとか」
「みんな買ったばかりだったわ」
「……暑いしさ、最近」
「暑いと一日も経たずにだめになっちゃうの?」
「……今日買ったんだっけ」
「今日よ」
「……だめになるんだよ、暑いと」
「そう」
 はあ、と二人の溜め息が重なります。
「……お前達、さっきアイカが出ていったが――ん。またなにか作ったのか」
 重たい雰囲気の中に顔を出したのはニコラさんでした。隻眼を瞬いて、テーブルに放置されてる野菜炒めを指さして。ぐったり気味の二人を余所に首を傾げました。
「……どうしたんだ」
 柳眉を寄せて不可解げに、微妙に困惑した様子です。
「……なんでもないの、なんでもないけど……」
「……奥が深いよね、料理……」
 気怠げな二人に、ニコラさんはまあ、あっけらかんと。
「……そうでもなければ、そのような苦労はしないだろうな」
 なんとなく事態が想像できて、ちょっとアイカさんを可哀想に思ったニコラさんでした。


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