パスタソースと新生活(検討中)

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 適当に肉と野菜を炒めたフライパンに、レトルトのナポリタンソースを流し入れる。音を立てて気泡を浮かべるソースに紬はすぐさまコンロの火力を弱めた。
 味を通すために煮込むつもりでコンロから離れ、台所に直結しているリビングのテーブルに投げ出されている雑誌を手に取った。二十歳前後を対象にしたその女性向けファッション誌を開くと、見慣れた顔が笑っている。
 しばらくその雑誌を読んだ後、テーブルに戻して煮込みを確認しに行った。充分に味が染み込んでいることを確認してから器に盛る。プレートに器とお手拭きとスプーンとを載せて、紬はリビングを出て階段を上る。
 広い家だな、と改めて思う。二人暮らしでも持て余すくらいだったと以前言っていた、一人ならなおさら寂しいだろう。
「入るよ」
 ましてや、今のサーシャように熱を出しているようなときは。
「んー……ありがと」
 ノックをして声をかけてから部屋に入ると、ベッドで布団を被ったサーシャが紬を見てほっとしたように表情を緩めた。その額には冷えピタが貼られている。
 紬は丸テーブルの上におプレートを置くと、ベッドの傍らにしゃがみこんでサーシャを覗き込み、冷えピタの冷たさが保たれていることを確認した。柔らかな頬はやや熱を帯びてはいたが、間違いなく引いてはきていた。
「だいじょうぶ? まだ食欲ある?」
「うん……ていうかごめんね、おかゆも作らせちゃったのにまた」
「食欲出てきたのはいいことだから気にしなくていいよ」
 ベッドから半身を起こすサーシャに、こぼさないようにね、熱いよ、と注意を促した上でプレートを手渡す。
 サーシャは素直に頷いて、しっかりとプレートを布団の上固定してから、いただきます、と軽く頭を下げた。ふうふうと吐息で冷ましてからおそるおそる口に含んだ。
 その青い目が俄然輝く。
「すごい! おいしいわこれ紬、ありがとう!」
「……レトルト利用の即席料理にそこまで言われるとかえって心が痛むんだけど」
「? レトルトなの?」
 目を丸くして紬の顔を見つめるサーシャに紬は首肯した。
「うん。キャベツとか豚肉とか炒めたとこにパスタソースのナポリタン入れて煮ただけ」
「へー……それでもすごいわ。私だったら思い付かないもの、パスタソースはパスタに絡めるもの、って決めつけちゃうわ」
 やっぱりすごいわよ、とだめ押ししてから、顔を綻ばせてサーシャは。
「全部食べられちゃいそう」
「それはなにより」
 純粋に嬉しく思う紬である。何せ昨日看病をしたというソーニャの話では。
「昨日はろくに食べられなかったんだよね?」
「うーんと、ゼリーとかプリンとか食べたわ。あとうさぎりんご」
「……うさぎりんご」
 思いもよらずかわいいものが出てきた。
 サーシャは、うん、と至って普通の顔で頷いて。
「いっつも私が風邪引くと作ってくれるの、ソーニャ」
「ああ……そうなの……」
 ソーニャがうさぎりんご。なんか、そこまで奇天烈な組み合わせでもないんだけれど、妙に気が抜けるというか、なんなんだろうこの感じは。
「私の方は作ってあげられたことはないんだけどね」
 少しばつの悪そうなサーシャだった。
 そのサーシャの額に触れて、大分熱が引いてきていることを再確認して、紬。
「……雑誌じゃ料理好きってことになってたけど」
「……あは」
 読んじゃった? とばつの悪さをさらに感じるサーシャと、あっけらかんと頷く紬と、なんだか微妙な空気である。
「……料理は本当に好きなのよ……上手くないだけよ。そこをぼかしてるだけっていうか……」
「……まあ、君がそう書かれたくてああなったわけじゃないんだろうしね」
 サーシャは女性向け雑誌のモデルである。
 アパレル系の専門学校に通う傍らの仕事で、発端は街を歩いていたところ声をかけられたというわりとベタなもので、確かにサーシャのテニスで鍛えられた身体は抜群のプロポーションを誇っていて、紙面上で見ても素直に美しいと感じられるレベルである。まあ紬が同じようにテニスをしていたとしてもどうにもならなかったというか、天から授かった部分も多かろうが。主に胸とか胸とか胸とか。
 ちなみに声をかけられたときにはユーグが隣にいたそうで、それはさぞや絵になる図だったろうなあ、と思う紬である。一緒に勧誘を受けたユーグの方はそれを断ったようで、その理由は明らかではないけれど、恐らくサラ関係のことなんだろうとだいたいのところは納得している。
 何はともあれ、専門学校とモデル業とウェイトレスのバイトを全てこなしているサーシャはかなりの多忙である。ただの大学生、バイトはせいぜい単発の紬なんかよりは、よほど。
 そういえば。
「今日バイトないの? 火曜の夜ってよく空くから結構入れてるみたいだけど」
「……あ―――――っ!」



 サーシャが器を引っくり返さなかったのは不幸中の幸いだったなぁ、と思い返す紬は、ビニールのエプロンに長靴の完全防備で汚れた皿と相対していた。
 慌ててディックと連絡を取ったサーシャだったものの突然の事態に融通が利く人もおらず、何故かサーシャの替わりにシフトに入ることになった紬である。
 そんな経緯で紬を迎え、挨拶もそこそこにディックはまずこう言った。
「……紬ちゃん、接客業の経験は?」
「申し訳ないけど、バイトは引っ越しの単発くらいしか……」
「肉体派だね。……まあ、幸い今日の洗い場はレティーシャだし、彼女に替わってもらえればなんとかなるか……っ」
 神妙な顔でそう言ったディックは、レティーシャを呼ぼうと振り返り、目の前に立っていた彼女に驚いて全身の動きを止めた。
 レティーシャがおかしげに噴き出す。
「ちょっ……びっくりしすぎでしょ! ねぇ!」
「……小心者でね、驚かせないでよまったく。話は分かったよね? ホールよろしく」
「えー」
 不満そうに眉を寄せたレティーシャ、今度は紬の背後に回り込んで彼女の両肩をがしりと掴む。ディックの方に薄い身体をぐいとおしやって、挑みかかるような目付きで言った。
「紬ちゃんが制服着てお給仕してくれたら面白いと思うんだけど」
「えっ」
「……紬ちゃん困ってるよ……」
 ディックはがくりと力なく項垂れたが、締めるところはきっちり締めるという風に顔を上げてレティーシャを向いた。
「それに、僕らが面白くてもお客さんは面白くないの」
「むー……」
 渋々といった体で頷くレティーシャである。
 よかった、と一安心した表情でディックは紬を見下ろした。
「それじゃ、紬ちゃん、洗い場に入ってもらえる?」
 というのがことの次第である。
 とりあえず皿の汚れをある程度落としてラックに並べ、業務用の食器洗浄機にかけるくらいの仕事なら紬でも教わってすぐにこなせた。がこん、と食洗機を閉じる作業がなんだか面白い。
「そこの黄色い皿取ってくれ。あと終わったらそこの茶碗にご飯」
「ん。わかった」
 時折料理人のジャイルズに出される指示も容易いものだ。恐らく不慣れな紬を相手に、あまり複雑な指示は出さないようにしてくれているのだろうけれど。
 皿をジャイルズに手渡した後、茶碗を持って巨大な炊飯器に向かいながら、紬は一人残してきたサーシャの心配をするくらいの余裕はあった。
「……大丈夫かなぁ」
 病気で一人きりというのは、実はとても寂しい。まず心細くなる。どうしようもなくなるくらいに、人恋しくなる。
 なるべく早くに済ませて帰ろうと、紬はいそいそと皿を洗う手を動かした。

「お疲れ様! 紬ちゃん、ありがとね」
 奇妙に上機嫌なレティーシャは紬に礼を述べると、茶色い紙封筒を差し出した。反射的に受け取ってしまった紬に告げる。
「今日の分のお給料よ。手伝ってもらったんだから、ちゃんと渡さなきゃ」
「でも、私はサーシャの代わりに入っただけで」
「細かいことは気にしなくていいんだよ」
 優しく頭を撫でられて振り返ると、高い位置にあるディックの顔が目に入る。ディックは人を安心させる柔らかな笑顔で紬に念押しした。
「サーシャちゃんが急に欠けちゃって、紬ちゃんいなかったら困るところだったし……。本当に助かったよ、ありがとう」
「……どういたしまして」
 ディックの横ではジャイルズも静かに頷いており、やたら真摯に謝辞を重ねられてやや反応に困る。おずおずと頭を下げた紬の腕を、横から伸びてきた手ががっちりと捕らえた。
「……レティーシャさん?」
「うふふ、丁度いいわ。紬ちゃんちょっとこっち来なさいな、制服着て撮影会と洒落込みましょう」
「え、いや、私ちょっとサーシャが」
「問答無用! いっつも化粧っけないのがもったいないくらいかわいい顔してるからいっぺんいじってみたかったのよ、お姉さんに任せなさいっ」
 いやだから早めに帰りたくてというか審美眼大丈夫かなっつーかなんなのこのとんでもなく頑丈なホールドと凄まじい引力と。
 ろくな抵抗も出来ずに引きずられる紬を、誰も助けることなどできなかった。



「……た、ただいま……」
「おかえりなさい、……大丈夫?」
 ベッドから身を起こして見上げてくるサーシャを紬は手で制した。しかし脱力感からは逃れられず、力無く床にくずおれる。
「紬!? どうしたの、大変だった!? 急だったものね、ごめんなさい」
「いや、なんか……バイトそのものより……バイトの後のが疲れたっていうか……」
 きゃー紬ちゃんかわいい、やっぱり私の目は確かだったわ、ほらこれなんかよく撮れてるでしょう、もっと笑ってくれればよかったのにねぇ、ハルトが見たら喜ぶわよ、え、だめ? じゃああと一枚くらい撮らせてよ、ちゃんと笑顔でね。
 凄まじい勢いでマシンガントークを放つレティーシャを誰が止められただろうか。
 最終的にディック(何故か涙目だった)が引っ張り出してくれたから助かった。その後の彼の身の上については、……考えないことにしよう。
 とりあえず心の中でそう片付けて、心配そうにこちらを見下ろしてくるサーシャに告げる。
「……ごめん、今日泊まっていい? なんかもう帰る気起きない……」
「! いいわよっ」
 ぱっと表情を明るくして起き上がらんとするサーシャを宥める。なんとか身体を持ち上げて、紬はサーシャに厳しく告げた。
「病人は寝てる。私は私で準備させてもらう。それでよし」
 びしりと厳命。
 なにせ、勝手知ったる他人の家、なので。

 というわけで慣れた様子でシャワー入って寝間着借りて布団出してリビングに敷いてぐっすり眠った紬であった。
 目覚めて顔を洗って、最初にサーシャの様子を見に行く。気持ちよく眠っていた様子の彼女は、紬が部屋に入って目を覚ました。
「おはよう。ごめん、起こしちゃったね」
「おはよ……んん、いいの、別に」
 ぐっと身体を起こして伸びをしたサーシャは、それから、あら、と目を丸くした。嬉しそうに紬を見上げる。
「気分がいいわ。熱、下がったみたい」
「よかったね。一応熱測って。私は朝ごはん作っとくから」
「え、悪いわよ、私作るから」
「いいから。サーシャはシャワー入ってさっぱりしときなよ」
 なおも引き下がろうとするサーシャを押し止めて体温計手渡して階下に降りた紬は、朝食を拵えるためにエプロンを手に取った。
 パンがあるし、これ焼いてあとハムエッグとサラダでいいかな、と冷蔵庫を見て考える。極めて簡単なメニューだが、朝食だしこんなものだろう。重すぎるのも考えものだし。
 手際良くメニューを並べて、絞ったお手拭きを皿の横に並べたところでほかほかと上機嫌のサーシャがリビングに入ってくる。
「やっぱり下がってたー。ってもうできたの?」
「まあ、簡単なのだし」
 座りなよ、と椅子を示すと、ますます笑みを深めていくサーシャだった。それを見て紬も嬉しくなる。
「いただきまーす。わぁい、なんだか朝起きてごはん用意されてるってすごいいいわ」
「うん、その気持ちはよく分かる」
 こちらも、いただきます、と掌を合わせた紬が、心の底からサーシャに同意する。
 自分以外が作ったごはんも、自分以外のために作ったごはんも、それが当たり前のときには想像できないほどに温かいものだった。一人より二人、とはよく言ったもので。
「うふふ、美味しい。紬はいいお嫁さんになるわよー」
「それはどうなんだろう……」
「なるったら、なるの!」
 サーシャの強固な主張を無下にすることもないか、と疑問を拭えないままにもとりあえず反論を諦める。一応褒められてるみたいだし。褒め言葉は素直に受け取ったほうがいい。たぶん。
 そんな風に処理する紬の心中を知っているのかどうか、ハムエッグを載せたパンを頬張って、サーシャはおずおずと下から紬を見上げた。
「……にぇ、ひゅむぎ、ひゃんがえはんらけど」
「飲み込んでからね」
「……んぅ」
 窘められて、ホットミルクで口の中の食べ物を流し込んだサーシャは改めて口を開く。
「考えたんだけど……一緒に住まない?」
「え」
 思わず固まった紬に対して、慌てて掌を振るサーシャ。
「あっいや、嫌だったらいいんだけどね、でもこのおうち広いし! ソーニャは遠いから出て行っちゃったけど、紬のキャンパスにはそこまで遠くないし、もし良かったらって!」
 あわあわとまくし立てる。別に彼女に同棲切り出す彼氏でもないのにそんな慌てなくてもいいのに、紬はどっかずれたツッコミをしながら(口には出さない)、ふむ、と考え込んだ。
「……ルームシェアかぁ」
「あの、うん! 家賃とかいらないのよ、あと家事も半分で! 細かいところは話し合いで! みたいなっ、ええと……」
 顔を赤くして言葉に詰まるサーシャを見て純粋にかわいいなぁと考える紬は、そうだね、と相槌を打って。
「……ソーニャがいいって言うんなら、前向きに検討してみるかな」
「ほんとっ!?」
「まあ、検討を」
 今のアパートの家賃とかここから大学に通う定期代とか通学時間とか便利さとか、色んなものを心の中で天秤にかけながら、とりあえずこの笑顔が毎日見られるんなら一気にこっちに傾くよなぁ、とか結構冷静に思案する紬である。この娘こんなに可愛いんだからポポフさんもさっさと落ちてもいいよなぁ、とかってかなり余計なこととかも考えつつ。


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