「はい、あんたこれ好きでしょう」
不躾に透明な液体の入った瓶を押し付けられ、ソーニャは渋面を作った。確かにそれは余計な風味付けのされていないウォッカで、ソーニャが好んで飲むものだったのだが、なんというか、相手と状況が気にくわない。座りが悪いというか落ちつかないというか、気持ちが悪いというか。
ソーニャにウォッカを押し付けた相手――マリアットは澄ました顔で小さな折り畳み式の丸テーブルの上にピクルスやらハムやらスモークサーモンやらのつまみを並べている。こちらの好みに配慮しただろうメニューで、その気の回し方が尚更薄気味悪い。
そもそもの発端がどうにもおかしいのだ。
「浴びるほど酒を飲みたい気分なので付き合ってくれませんか」
そう言われたのが一週間前のこと。その時も着々と準備を進めている今も変わらない無表情というかむっつりと仏頂面で、酒を飲みたいという風には決して見えない。嫌なことがあったから飲んで忘れたいのかもしれないけれど、よく分からないがそれも違う気がする。
一通りつまみを並べ終えたマリアットは、冷蔵庫からビールの500ml缶を取り出して音を立ててテーブルの上に置いた。それはもう勢いよく、置くというより叩きつけるとでも言わんばかりの勢いで。
でも今のソーニャにとってそれは問題ではない。その勢いは問題ではない。むしろ問題なのは。
「さ、飲みますよ」
「……ねえ、今のなに?」
「今のって何ですか」
「いや、冷蔵庫の中身……」
あまりの衝撃に直接口に出すのも憚られるソーニャである。だって、なんたって。
「安上がりだから箱買いしたってだけの話ですよ。あ、あんたのもダースで買ってるんで安心してください」
箱ってアレか、24本入りのアレか。12Lか。正気の沙汰じゃない。
「……あんた飲まないんですか? 瓶から直? それでもいいですけど」
「あ、いや、うん」
急かされて、氷を入れたグラスに良く冷えたウォッカを注いだ。液面に浮いた氷同士が触れ合ってからりと心地の良い音を立てる。
目の前でマリアットはビール缶のプルタブを開けている。プシュッと炭酸の抜ける気持ちの良い音が響き、マリアットは手の中の缶をソーニャに向けた。まったく面白くなさそうな顔で口を開く。
「乾杯」
「ん、乾杯―……」
ビールとウォッカで乾杯して、呷る。グラスの中身を飲み干したソーニャは、目の前のマリアットが500ml缶を一気に飲み干さんばかりの勢いなのを見て度肝を抜かれた。それくらいは自分でも出来るが、いや、でも、自分以外でそんなことやる奴は初めて見たので。
しかも途中で耐えきれなくなったのか慌てて缶を置いて口元を押さえた。何がしたいんだ。
「……何してんの?」
「っ、えほっ……なんでもな、いです」
浴びるほど飲みたいって言ったでしょうが、って相変わらずの仏頂面で言われても。正直付き合わされる方はたまったもんじゃない。酒は用意するって言葉に釣られてほいほいと承諾してしまったことを既に後悔し始めていた。
しかしまあ、何度見直しても異様な状況である。不本意ながらこの男の家を訪れるのは初めてではないし、というか結構来ているし、それでもわざわざ一緒に酒を飲むような仲では決してない。そもそもニコラさんが言うに、こいつは酒付き合いが悪かったはずだった。誘っても全然来ない、と愚痴を零していたし。まああの人は飲めれば相手がいようがいまいが関係ないんだけど。
とりあえず目の前で男が楽しくもなさそうに妙に決意の籠もった表情でまた酒を流し込もうとしているのを止めるべきか否かなんだけど、もうちょっと落ち付いて飲めば500ml一気飲みくらい不可能じゃないと思うんだけど、どうしてそんなかっこもうとするかなー。
「……ふうっ」
空になった缶をテーブルに置いて、マリアットは冷蔵庫からビール缶を取り出した。一本片手にプルタブ開けながら、訝しげな顔である。
「なんかペースおっそいですねアンタ、酒好きなんじゃないんですか?」
「まあ好きだし強いけど。なんか状況が状況っつーか……」
「なんですかそれ」
どっかりと腰を下ろしたマリアットは、再び酒を喉に流し込む。今度は前よりは節度を守った様子というか、学習したといっていい様子で、咽るようなことはなかった。それでもなんか、どっかおかしい。
意識して箍を外しているというか、そんな感じだ。
「男と飲むとかつまんないじゃんかー」
「そりゃそうだ。オレもつまんないです」
「……お前人を誘っといて……」
でも、とマリアットは缶を軽く揺らしてから。
「まあアンタが色々と都合がよかったっつーか」
「……なにその不吉な発言」
「細けーコト気にしてんじゃねーよ」
「細かくねーよ!」
はあ、と大きくため息を吐いた。つまみを口に運びながらマリアットを窺うと、二缶目を空けたようで腰を上げて冷蔵庫を開けている。面倒になってきたのか、まとめて二缶をテーブルの上に置いた。
これを除いてもあと20缶あるみたいなんだけど、ええとそれ全部飲むわけじゃないよね流石に。浴びるほど飲むっていうかもう浴びればいいのに。いっそ浴びせてやろうか。
「女の人相手に前後不覚になるってのも不甲斐ないですし」
「オレ相手ならいいの!? すっげー迷惑だからやめてくんない!?」
「酒くれてやってんだから細かいこと気にしてるんじゃないですよ」
さっきからこいつの発言の理不尽さときたらひどいってレベルじゃない。なんでこんな奴に付き合ってやってんだろう。もう帰りたい。
そんなこちらの心情など知ったこっちゃないという風に、というか実際知ったこっちゃないのだろう、マリアットはマイペースに酒を飲んでいる。いや、マイペースじゃないな。マイペースというよりは、かなり無理をしている。ハイペースだ。
なんでオレこんな奴のこと気にかけてんのかなぁと心の中で愚痴を零しながら、こちらもウォッカを注いで。
「……で、どんくらい飲むつもりなの?」
「最初から言ってんじゃないですか、『浴びるほど』ですよ」
「抽象的なんだよ。今すぐ冷蔵庫開けてぶっかけてやろーか全部そうすればオレの用事終わるから。具体的に言え、具体的に」
「具体的に……」
一旦酒を飲む手を止めて、マリアットはむっつりと手の中のビール缶を眺めている。むしろ、睨んでいる。それこそ仇を見る目つきとでも言うべきか。
「……とりあえず、24缶くらいは目指そうかと」
「アホか!?」
「おっと」
投げつけたビール缶(空)は軽く避けられた。なんかむかつく。すごくむかつく。
「目指すってなんなんだよ目指すって! お前はどこに行く気だ! 酒豪の大会にでも出る気か!?」
「あー、ちょっと近いかも」
「近いのかよ!」
もう最初からこいつ相手に突っ込み以外してない気がしてやるせなくなってきた。スルースキルを鍛えようと心に誓いつつ、三缶目を一気に飲み干しやがった奴に言う。
「そういう酒飲みなら勝手に一人でやっとけよ……」
「死んだら困るんで、保険っつーか」
「オレに何をさせる気だ!?」
何って、と、目の前のやつはあっけらかんとした顔でプルタブを開けながら。
「まあ、危なかったら適当に救急車呼んでくれりゃそれでいいですよ、応急処置して」
「うわ、すげーめんどくさい……」
「あはは」
目の前で奴がにひゃりと笑う。どこか崩れたその笑顔に、ああ、こいつ酒回ってきたな、と思う。遅いけど。遅すぎるけど。
途中で酔って寝てくれればいいけどなあ、と思いながら自分のウォッカを煽ったソーニャの前で、空の缶を転がして次を取り出し開けて一気に呷り、がつんを勢いよくテーブルを鳴らして高らかに宣言しやがる奴の瞳は。
「とりあえず、行けるとこまでは行かせて頂きますよ」
行けなかろうが関係ありませんけどね。と、
どこかしら陰鬱な色で満たされていた。
「……っふ、うえ、あふぅっ……」
「あーもう」
もうこれで何度目だろうか。なるべく視線を逸らしながら便器に嘔吐するマリアットの背中をさすってやる。
とはいえこいつは最初から胃に固形物を入れていないため、吐き出すものといえば液体ばかりだ。胃液とアルコールの入り混じったそれでどれほど咽喉を灼かれたことだろう、心配してやる義理はないが。
顔を上げたマリアットはトイレットペーパーで口元を拭って捨てると、腕を伸ばして吐き出したものを流す。それから赤い顔でこちらを見て、何も言わずに立ち上がった。
「……のむ」
「おーい……」
すっくと力強く立ち上がってみたものの、部屋に戻ろうとする奴の足取りは頼りない。千鳥足というには弱々しい、ふらついた身体でくずおれるようにして座った。飲みかけの缶を掴む。
「おい、いい加減にしろって」
掴んだ酒を引き剥がしてやろうとしたが、思った以上に力が強かった。なんであんなふらふらしてたのにこんなに握力がありやがるんだこいつは。それでもなんとか奪ってやろうと引っ張り合いを続けると、不意にその手が離された。
「!? ……どわっ」
勢い余ってバランスを崩す。その拍子にビールが溢れて、炭酸がカーペットに沁み込んでしゅわしゅわと泡を立てた。
しまったとそれを見降ろすと、あっさりと飲みかけの缶を諦めて次の缶を取り出していたマリアットがカーペットを示した。
「あー、なにしてくれんれすか。それちゃんとなんとかしてくらさいよー」
「おーまえなぁ……」
しかしこのままは流石にまずそうなので、適当に雑巾でビールを拭き取る。そうしている横で奴はガンガン飲んでて、なんでオレこんなとこで雑用みたいなことやってるんですか?
とりあえずひとしきり吸い取れた気がするので、後はもう知らん。勝手にしろ、と雑巾を流し台で洗って戻ると、ビール零す前と比べて缶が3つくらい増えてた。なんかペースあがってませんかー。
「ふうっ」
息をついた奴の手から、空の缶が転がる。あーもうこいつちゃんと置く気力も残ってないんじゃないか。それでもまだ飲もうとしてるんだから立派なものだ。いや立派じゃないけど、全然立派じゃないけど。
「ほんっと……いい加減にしろよ、お前本当……コレ、ニコラさんよりタチ悪いぞ」
「うっ……さい……んんっ」
缶を奪おうにも先程の二の舞が怖くてなかなか力づくにいけない。相手もそれが分かっているのか、適当にあしらわれて一気に缶を煽って息を吐き出した。
酒臭い。最悪だ。酔っ払いの、しかも男の息を吹きかけられるとか。
「……らって、飲めなきゃ、駄目れすよぉ」
「はあ?」
何言ってんだこいつは。酔っ払いの言動は得てして理解不能なものだが、今日に限ってはこいつの言動は酔う前から理解できない。まあこいつの人格が理解できないんだけどそもそも。
とはいえ喋ってる間は飲むのやめるかな、と一抹の希望を胸に続きを促してみる。
「こんぐらいで、音ェー上げちゃあ……サラも、守れな……うぷっ」
口元を押さえて腰を上げる、トイレに駆け込む奴に今度は付き添ってはやらなかった。深くため息をついてつまみを口に運ぶ。結局気が進まなくてあんまり飲めていなくて、ずっとつまみばっかり食べている気がする。
奴はつまみには手をつけていない。酒ばかり、飲んでいる。
「……はあ、はあっ……」
肩を揺らして戻ってきた奴はまたビールに手を伸ばす。その腕を掴むが、奴の掌はビールを捉えた。
「もーやめろって。急性アルコール中毒って知ってる?」
「吐いたからだいじょーぶ……」
「なんだその理屈は」
吐き戻し癖つくのも悪いんだぞ、拒食症とかあるだろ、と言い聞かすが聞く耳持たないことはよく分かっている。なんかもうこいつ放り出して帰りたいなあ。帰っていいですか。別にいいんだろうけど、なんで帰らないんだろうなあ。
結局はこいつの心配をするあの女の子がオレは心配なんだろうけど。ああ涙ぐましい。
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