オーバーキャパシティと元旦の試練

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 いつ見ても広い家だと思う。ユーグに手を引かれながら、サラは自分を迎えた人々の見慣れぬ顔を見回した。
「ごめんくださーい。あけましておめでとうございます」
「あ、あけましておめでとうございます……」
 塀は高くて門は大きくて、門から邸の玄関までの道のりもまた長い。
 これが自分の生家なのだと言われても、すぐには納得できないし、納得できたところで実感は沸いてこなかった。
 自分の生家は、ユーグと暮らしていた小さなアパートの一室以外では有り得なかったから。
「あらぁ、あけましておめでとう。久しぶりねぇ、サラちゃん」
「元気だった? 結構遠いものねぇ、疲れちゃったでしょ? ゆっくりしていきなさいな」
「あ、え、その……は、はい……」
 自分の叔母さんや、よく分からないけど血縁にあたるらしい人々に次々声をかけられて、どうにも人見知りのサラはユーグの服の袖を握り締めた。
 昔は彼の背中に隠れてしまったことすらあったことを考えれば、これは大きな成長であるとも言えるけれど、自分のふがいなさはどうにも拭いきれなかった。
「マリアット君、ちょっといいかね」
「はい、なんでしょうか?」
「手伝って欲しいことがあってね。腕っ節があるとやっぱり便利なんだよ」
「ちょっとこっちなんだが、来てくれないか?」
「分かりました」
 だって彼はこの生家に来るときはいつも忙しい。何かと用事を言いつけられるし、それらを全て嫌な顔ひとつせずこなす。
 それほどに忙しい彼が、いつまでも自分の傍にいられるはずはない――必然、すぐに引き離されてしまう。
「それでは、サラ、少しおいとまします。いい子にしているんですよ」
「……うん。ユーグも、がんばってね」
「……ええ」
 そう答えた彼の蒼い瞳に宿る色は、妙にサラの胸にわだかまりを残したけれど、その正体を幼いサラが突き止めることはできなかった。
 ただ離れていく、大きな豪邸の奥へと導かれていく彼の背中を、縋るような目つきで見送るだけだ。

 本当に辛いのがどちらなのか、そんなこと知りもせずに。



「……サラちゃんももう中学生よねぇ? 学校楽しい?」
「あ、はい……えっと、楽しいです、はい……」
 そそくさと元旦の宴の準備が進む傍ら、サラはしきりに親戚の伯母さんに話しかけられその都度おずおずと答えを返していた。
 もっとサラと年の近い子供達、それこそサラと同年代くらいの少年少女もいたのだけれど、滅多にこの家に帰ることのないサラは彼らとの交流が殆どなかった。それでも年に二度帰るのならば話す機会もないわけではなかったのだけれど、それ以上に頻繁に顔を合わせているらしい彼らの間には既に一種の結束が出来ている用に見えて、やや人見知りの気があるサラは彼らにうまく馴染むことが出来ていなかった。
 それ以上に、事あるごとに何かを確認するかのような質問を大人に投げかけられ、その応対にいっぱいいっぱいだというのもあったのだが。
「そうなの? ずっと遠くの学校に行っちゃってるから、私たち様子がよく分からなくて心配してるのよぉ」
「え、あ、でも……そんな、心配なんて」
「マリアット君、ちゃんとお迎えとかしてくれてるの? 塾とか、夜遅いと危ないでしょう?」
「あ……の、塾は、行ってないんです。部活ありますけど、そんな遠くないですし、遅くもならなくて……」
「塾行ってないの? 大丈夫なのかしら、それで」
 自分の目の前の女性が表情を厳しくするのを見て、サラの心は竦み上がった。慌てて大きな声を絞り出す。
「あ、あの! 大丈夫です! ……ちゃんと、教えてもらって……それで、勉強とか、困ってないんです、……大丈夫です」
「……なら、いいけどねぇ。今時塾も行かないなんて……」
「塾じゃなくても、先生とか……いますし。大丈夫です。あの、部活も楽しくて、だから、大丈夫です」
 大丈夫です、としか言えない自分が情けなくなってくる。
 つまりは自分は、彼のフォローすら十分に出来ないのだ。
「お膳の用意が調いましたよー!」
「あ、はーい! ……ま、いいわ。でも不満があったらおばさんに言うのよ? すぐ解決してあげますからね」
「……はい……」
「行きましょう」
 そう言って自分の手を握る掌は慣れたものとはかけ離れていて、サラはそれを握り返すことは出来なかった。
  かと言って、握り返すこともできなかったけれど。



「――それでは皆さん、あけましておめでとうございまーす!」
 こうして一同に会するのを見るたび、この家の親戚筋の人間の多さには目眩がした。
 その一人一人を覚えるのも最初は一苦労だったけれど、些細な無礼を突っ込まれるのも馬鹿馬鹿しい。故にユーグは必死になってその顔と名前を一致させたものだった。
 それはユーグがこの家の人間に足下を見られないようにするための努力の一端に過ぎなかったし、それだけやっても全く不十分だったのだが。
 乾杯してビールを煽ったユーグの鼻先に、茶色の瓶が差し出される。
「いやーマリアット君、今年も随分と働いてくれたねぇ」
「ありがとうね! ささ、飲んで飲んで? もう成年だろう?」
「ええ、お陰様で――ありがとうございます、頂きます」
 毎年正月の度にこの家に招かれ、ユーグを待っているのは必要以上に負担のかかる重労働の数々だった。大量の酒やら魚やら食べ物を取りに行かされたり、重い荷物を運ばされたり。それはユーグのために、ユーグにさせるために用意されている仕事であることにはとっくの昔から気付いていた。
 今年からは大っぴらに飲酒出来る年齢になってしまったがために、新たな大仕事が追加された。
「あ、そちらも」
「はいはい、どーも!」
 付き合いとして酒を飲まなければならないことは今までも百も承知だったが、それ以上に未成年で飲酒したという事実をこの家の人間達に焼き付けるのが恐ろしかったがために頑なに断っていた。
 その言い訳も今年からは通用しない。

 ――過剰なまでにユーグが気を張らなければならない理由は、この家が生家となるはずの一人の少女にあった。
 彼女の父親であるカレヴィ・セレーニ。名家に生まれ、名高い研究者であり大学教授でもあった彼は実験途中に命を落とし、研究で築かれた莫大な財産は一人娘のサラ・セレーニに受け継がれた。
 まだ幼い少女が実質そのまま遺産を受け継ぐことは出来なかったために、親戚筋の人間――セレーニの家の、カレヴィに近しい誰かがそれを管理することになるはずだった。
 けれど、カレヴィは遺言を残していた。セレーニ家の誰もが想像だにしなかった彼の遺志が、その遺言には記されていた。

 ――そうして現在、ユーグは彼女の後見としてこの宴会の跡に座っている。
 セレーニ家とは縁もゆかりもない、生まれすら定かではない彼が遺産の管理とサラの後見を務めることになった時は親戚内の会議が紛糾したものだったが、現状ではなんとか一応の落ち着きを見せて彼はその役割を担うことを許されている。
 許されてはいるが、認められてはいない。
 故にこの家を訪れるたび、必要以上の雑事や手間のかかる仕事を押しつけられていた。
 それだけでなく、嫌がらせとしか言いようのない扱いを受けることも数え切れないほどだ。
「それにしてもやっぱり、マリアット君が飲めるようになってよかったなぁ!」
「そうですか?」
「そうだよ、男ってのは酒を飲み交わしてなんぼだからねぇ」
「君は硬派だったからこうして成人するまでお酒飲んだりしなかったけど、やっぱり男には付き合いってものがあるんだからね。まあほら、もう大人になったんだからもっと飲みなさい」
「……ありがとうございます」
 今までの様子から間違いなく無理矢理飲まされるだろうとは思っていたが、ここまで猛烈に勧められるとは思っていなかった。
 勧められる、というか、押し付けられる、というか。
 なみなみと注がれる黄金の液体を飲み干せば、すぐに次が注ぎ足される。注がれたそれを飲まなければいいかと思っていたが、断り切れる雰囲気でもなかった。
 ユーグは決して押しに弱い方ではなかったけれど――僅かな粗相で揚げ足を取られかねないこの状況で、自分を通し切る術を知らなかった。
「飲むねー! やっぱりよく飲む男の子ってのはいいよ、ほら!」
 自分が酒に弱いとは思っていない。それなりに強い方だと自負しているものの、この集中攻撃を耐え切れるかと言われると否である。そもそも相手は自分を潰すつもりで来ている上に複数で、その上圧倒的に自分は立場が悪い。
 一応酒に強い知り合いを付き合わせて有る程度の予行はしていたが、正直心許なかった。というかその知り合いが強すぎて、自分が酒に弱いと錯覚してしまいそうになったために逆効果だったような気がする。
 それでも自分はこの場を切り抜けなければならないのだと、ユーグは新たにグラスを満たしたビールを思い切り煽った。



 この家が元旦に出すお膳は確かにご馳走だけれど、サラはいつも食べきれなかった。量が多すぎるのもあったけれど、純粋に口に合わないような気がしたのだ。いつも家で食べていた料理の方がずっと好きだと思ってしまうのは、サラ自身この家が好きでないからか。
 すぐに食欲が失せてしまっていたサラは、早々に引き上げて宛われた部屋に戻っていた。ユーグとの二人部屋である。初めて二人でこの家を訪れるとき、まだ今よりも幼かったユーグに別の部屋でいいかと問われ、サラは大泣きでそれを拒否したものだった。今思い返すと、どうしてあんなに泣いたのか自分でも分からないほどに。ただあの時の自分は父親とユーグしか知らなくて、父親を亡くした中で彼から引き剥がされてしまうことに我慢がならなかったのだろうと思う。
 今でさえ、気を許せる相手がいない中でもみくちゃにされて疲れ切ってしまっている。自分はまだ自由に振る舞えているはずなのにこの様だ。思わず胸が重くなる。
「……ユーグ」
 ユーグはまだあの席にいるのだろうか。今年から飲酒が可能になった彼は今まで以上に大人達に絡まれていた気がする。サラからは遠く、顔も対して覚えていない相手の中を掻き分ける勇気もなかったから、あまりよく分からなかったけれど。
 それでも、何故だか急に心配になった。
「……ユーグ、大丈夫かしら」
 言葉に出すと心配は更に膨れあがった。抑えきれず立ち上がったサラは扉を開けて、まろぶようにして廊下を駆けた。
 目指す先は、彼一人。
 他には何も知らない、ただ彼を、彼の姿を見たい。
「……ユーグ……!」
 大食堂へと繋がる扉を勢いよく開けて、大勢の人が一斉にこちらを向くのを見たサラは思わず息を呑んだ。
 今まで自分を動かしていた何かが、急速に萎んでいってしまったような気がした。それでも彼をこの目に収めたいと、その気持ちは変わらなくて、サラは部屋の中へと一歩足を進めた。
 彼はいなかった。襟足の長い黒い髪も、憂いを帯びた蒼い瞳も、外に出ている割に焼けない白い肌も、サラの好きな顔も何もかも、見つからない。目に入らない。
「……サラちゃん? どうしたのかしら?」
「……あ、その……っ」
 彼はどこか。それをそれを口にしていいのか分からずに言い淀む。この空間はあらゆる手段で彼の身体を精神を蝕もうとしているような気がして、サラは何が彼にとって幸いなのか分からなかった。
 自分の行動で彼を苛むようなことは、絶対にしたくなくて。
 でも彼に会いたい、その気持ちを押し殺すことは出来なくて。
 どこに行けばいいのか分からず、サラはその場に立ち尽くした。

「……お、サラちゃんじゃないか!」

 背後から彼女にかけられた声は、確かに彼女の救いになるものだった。
「……あ、えっと……」
 振り向いたサラは、大柄な影を見上げて息を呑んだ。
 壮年の男がサラを見下ろしていた。彼女の顔を見て髭で覆われた顔をくしゃくしゃに歪める。
「丁度よかったなあ! ちょっとほら、こっち来てくれんかい?」
「え? あの、あ、えっと……!?」
 大きな掌に手を引かれ、大食堂から連れ出される。
 引かれて廊下を歩くサラの目に映ったのは自分の腕の一回りも二回りも、それどころか二倍も三倍も太い腕だったけれど、その掌を握り返すことが出来たのは、その掌がどこか温かかったから。
 安心させてくれるような温もりに満ちていたからだった。



「――ユーグ!」
 大男に連れられて入った部屋のベッドに横たわる青年を見て、サラは思わず叫び声を上げた。形振り構わずユーグに駆け寄る。
 ぐったりと目を伏せるユーグの頬は青白く、唇の色もよくなかった。
 思わず息を呑んだサラの後ろで、大男は穏やかな声を出した。
「潰れちまっただけさね、大丈夫」
「だけって……!」
 泣きそうな顔をして振り向かれて、落ち着かせるように掌を振る。
「無理してたんよ。随分飲まされとったからなぁ、五回ぐらい吐きに行って戻ってくるとこ捕まえて、ベッドぶち込んだらすぐコレでな」
「……やっぱ、り」
 男の言葉にユーグを見て、サラは僅かに喉を鳴らした。目元が熱くて、堪えきれないものが溢れる。頬を伝うものが誰のためのものか分からなくて、サラは両掌で顔を覆った。
 自分のための涙であったなら自分の弱さを曝け出すようで嫌だったし、
 ユーグのための涙であったのなら押し付けがましくて嫌だった。
 だからサラは、声を押し殺して顔を隠すことしか出来なかった。
「……どうして泣くん?」
「……っ、だっ、て、ユーグ」
 男の質問にも上手く答えることが出来ない。自分はいつもこうだ、ユーグに頼ってばかりで、自分一人では何一つ十分にできないで。
 彼が無理している時に、力になることもできない。
「ユーグが、こんな……ッ、わた、しの、せいなのに」
 自分が全ての元凶であることぐらい、とっくの昔に分かっていた。
 ユーグは自分を守るためにいつも無理をしているのだと、認めたくない事実から目をそらして彼に全てを託して。
 こうして耐え切れなくなった彼を見て自分は泣くけれど、本当に辛いのは彼なのに。
 彼が泣く姿を、サラは見たことがない。
「……まあねー」
 頭に触れる手が優しくて、それがさらに涙を誘う。
「この青年のこと、おっちゃんは結構前から気にしてたんだけど」
 それは初めて聞いた。彼の味方をしてくれる人がこの家にいるとは思っていなかった。
「去年までは酒飲まんかったから、飲めないんかって酒ぶっかけられたりとか、それで遠くまで買い出し行かされたりとか、色々あってさ」
 それも初めて聞いた。彼は何も言わなかった。
 聞かなかったのは、自分だった。
「しかもバイクでしょう? 酒の臭いぷんぷんさせてるからって検問引っかかっちゃって、飲酒してないと認められたとはいえ未成年だしってなかなか解放してもらえなくてさぁ」
 おっちゃんに連絡が来たから、迎えに行ったんだけどね、と語る目が妙に優しかった。
「青ざめてたけど、まっすぐな目してたよ」
「……?」
「どんなことにも耐えられるって感じの目ぇしてた」
 無骨な指先が髪を梳いてくれるのが妙に心地よくて、サラはいつの間にか涙が止まっていることに気付いた。
 ユーグの顔を見る。青ざめた頬を見る。
「……今日も同じ目だったよ」
「……きょ、うも?」
「うん。まあ流石に酒はね、身体は耐え切れなかったみたいだけど……目は同じでさ」
 今は彼の瞳は閉ざされてしまっていて見えないけれど、彼が目覚めたならその目を見ることが出来るのだろうか。
「何があっても守るって、心に決めてるみたいな、そんな強い目だよ」
 その目を見て、自分にそんな価値を見出すことが出来るだろうか。
 彼が身を挺して守る程の、価値ある人間になれるだろうか。
「……ん……」
 言葉を発せずにいたサラの前で、ユーグが僅かに身動ぎした。薄く開いた蒼い目が静かに揺れる。やや焦点の合っていなかったその瞳がサラを映した瞬間、一気に大きく見開かれる。
「ッ、サラ!? ―――ッ、いっ……!」
「こらこらこら、寝ときなさいよ」
 慌てて上体を起こして頭を抱えたユーグは、大男に身体を押し戻されて眉根を寄せた。忌々しげに舌打ちする。
「……ベルトラムさん、何を余計なことを」
「余計じゃないと思うんだけどなあ。急性アル中は怖いんだぞ。まあ今回ばっかはちょっとみんな反省してたし、来年はもうちょっと楽になるといいねえ」
「勝手な、こと――っ、サ、ラ……?」
 反駁しかけたユーグは、自分の首に抱き付いてきたサラを向いて言葉を切った。小さな少女の肩が震えている。その様子に、思わず言葉を無くす。
「……サラ? どうしましたか、何か嫌なことでも?」
「……っ」
 違うのだと首を振る。こちらを案ずる彼の目を、どうしても見返そうにない。
 やっぱり自分が弱すぎて、彼が普通に話しているだけで涙が溢れてきて、自分のためにこんな風に無理をしたのに、当たり前のように自分に優しい彼が嬉しいのか悲しいのか分からなかった。
 この感情をどう呼べばいいのか分からなくて、ただひとつ言えることは、自分は彼が大好きで、辛い思いなんてさせたくないということ。
 そればかりは確かなことだと、腕の中の温もりに思った。


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