「ハヤミちゃん、オレさぁ」
酔いも十分回った具合か、隣の顔は程よく赤い。眇められた瞳が怪しい光を帯びているようで、けれど、妙に頼りなくもあった。
「ハヤミちゃんが愛してくれるんなら、ハヤミちゃんに殺されてもいーよ」
なにせ酔っているとはいえそんなことをほざく輩だ、頼れる訳がなかった。殆ど突っ伏すに近い体勢でカウンターに凭れ掛かるロジェの身体は弛緩しきっており、欠片ほどの緊張感すら見当たらない。
けれど呂律は回っている。忌々しい程にはっきりと、甘やかな声が通る。
「何言ってんだお前は」
「ほら」
くるりと指先が回る。綺麗に切り揃えられて柔らかく光る爪。
それがびしりとこちらを指して、何やら誘われているような錯覚を覚える。
「ハヤミちゃん律儀だろ? だからさぁ、愛した人を殺したらさぁ、もうそれはずーっと責任取ってその人のこと愛さなきゃいけなくなりそう」
「意味わかんねぇ」
だろうなぁ、と見透かしたような、上っ面でくるくる回るような声。
「ハヤミちゃん真っ当だからな」
「……なんだろうな、バカにされてるような気しかしねぇんだけど」
「バカになんかしてねぇよ?」
からから笑う。底抜けに明るく笑われる。
「……してるだろ」
「なんでそう思うん」
「笑ってる」
「笑顔くらい自由だろ」
それでもその笑顔があまりにも可笑しげで愉しげで、それを隠そうともしないものだから、妙に腹立たしいような、真面目に取り合うのが馬鹿らしくなってしまうような。
どちらにせよこいつの思う壺なのだろうかと思うとどうにも遣る瀬無いが。
「そもそも事情があるならいざ知らず、恋人を殺すってのは正常な思考の上で為されることじゃねーだろ」
「いや恋人とは違うね。愛する人だよ、愛してる人」
「……そういうクサい言い換えはいいとしてな」
「言い換えてるのはハヤミちゃんだ」
ふっと声が冷える。引き寄せられるようにそちらを向くと細められた目は値踏みをするようで、どうにも罰が悪くなって目を逸らす。
それでも刺さる視線は容赦をしない。す、と耳元で唇が蠢く。
「愛する人と、恋人は違う」
「あー……まあ、それを殺すってのは、仕事とか、そういう事情じゃない限り、そうそうあるもんじゃないだろっつってんだよ」
「じゃ、仕事でオレを殺さなきゃいけなくなったらハヤミちゃんはオレを殺すか?」
「当たり前だ」
悩む余地もない。するりと当然のように答えが落ちる。
それに大して何が嬉しいのか、へらり、笑みを深めた奴は。
「じゃあ、そうするのも楽しいかな」
「……お前の自殺志願に俺を巻き込むな」
「あー、でもそれじゃあハヤミちゃんはオレを愛してないなー」
人の話など聞いていない。軽く見を仰け反らせて、熱っぽく嘆息。
煙ったい酒場で尚輝きを失わない金髪を掻き上げて、ついと長い睫毛を落としてから薄目を開け、ついと滑らかに、視線をこちらへ流してみせる。
成程商売道具にでもなるのだろうそれは。十二分に蠱惑的と評せられるに値する相貌は、けれど瞬時に破顔する。
「どうしたら愛してくれる?」
「お前が無害な隣人にでもなってくれたら考えよう」
「それただの隣人愛だよね。……んー愛としてはそれでもいいんだけどさぁ」
わりとオレそれでも満足するぜ、あんまり欲張らないからね、などと嘯いてみせてから。
「でも、殺されるんならやっぱり、フィロスじゃ満足できないかな」
「……は?」
何やら耳慣れない単語に、酷く不躾に返してしまった気がする。元々相当不躾なことを言われてばかりなのだから今更一つや二つ不躾な言葉をぶつけたところで構わない――どころか既にぶつけてばかりではあるのだが、それにも増して。
ハト豆みたいな顔して何してんの、とは奴の弁だが、そもそもお前は何を言っているんだか。
「俺を愛してくれてるハヤミちゃんに殺されるんだとしたら、その愛は、やっぱエロスじゃないと」
「………」
「で、だ」
勝手に納得している奴は、ぱちりと掌を合わせると、芝居がかった動作で掌を延べて。
「そのハヤミちゃんから齎される愛も死も何もかもを受け入れるオレの愛は、その時アガペーになるんじゃないかなって」
延べられた手が白い。長い指が緩く動いて、す、と顎から耳の裏を沿う。
そのまま再度、顔が近づく。今度は視線を合わせたまま。その億を探らせるように、悟らせないように。
「それでハヤミちゃんを縛れるのなら、オレ、死んでもいいや」
そうして当たり前のように、唇を寄せて――
「……ハヤミちゃんさぁ、その無駄なブロックの堅さどうにかなんないの」
「する気はねェな」
「オレのキス、金払ってでも欲しがる人いるんだけど」
「俺は嫌だ」
奴の額を掌で抑えて力尽くに引き剥がす。それにしても毎度感心する、実に鮮やかな手際であることよ。
言っていることは鮮やかというよりは意味不明だったが。
「いいから巻き込むなっつってんだろ。酔うのは酒だけ、自分に酔うのは俺の前ですんな、迷惑だ」
「はは、辛辣ぅ。……ところでさ」
「あん」
「さっきの話、結構マジだって言ったら?」
「他を当たれ。俺にそのケはねーの」
「取り付く島もない……」
さも残念そうに零されるが絆されてはたまらなかった。
基本的に、こういう輩に真正面から向き合ってしまうと後が面倒くさい。そしてしんどい。
そもそも愛だのなんだのという高尚な議論は肌に合わないし考えたこともなく、語る相手としても自分はふさわしくはないと思えた。
だから、と。
「愛だのなんだので殺されたいんなら、俺以外のもっといい相手でも探してろ」
「んーまあ別にいるけど。ハヤミちゃんなんて俺にとっちゃ凡百の一人に過ぎねぇし」
「だったら尚更な」
あしらってんだかあしらわれてるんだか分からないしこの際どうでもいい。
ただどうにも面倒臭さは否めず、酒を煽りながら横目で奴を見て、
もう少し一緒に飲む相手を選んでもいいかもしれない、と内心でなく溜め息を零した。
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