ベッドに仰向けに横たわる身体の上に馬乗りになる。こんな風に彼を見下ろしたことは未だかつて数えるほどしかなかったし、こんな風に彼の顔をよく眺めることはとても久しぶりだった。
静かに眠る彼の顔は、見れば見るほど自分の好きな顔で、見れば見るほど魅せられてしまいそうだった。すっと通った鼻筋だとか、伏せられた長い睫毛だとか、僅かに開かれた唇だとか、そういうもの全部が大好きで、彼が好きだからこの顔が好きなのか、この顔が好きだから彼が好きなのかはもうはっきりしない。気がついたときから、ずっと好きだったから。そのすべてが。
ゆっくりと手を伸ばして、その頬に触れる。無遠慮に撫で回すことを彼は決して嫌がらなかっただろうけれど、今まで一度もこんな風に触ることはなかった。できなかった。
触れられる感触にか僅かに寄せられる眉、本能的に避けようとする顔。長い睫毛が震えて、ゆっくりと目蓋が上がったことで露わになった瞳の色も自分は大好きだった。
本当に、大好きだ。
「……サラ? いったい……」
ぼんやりとこちらを見上げた彼は呂律が回っていなくて、なるほど起き抜けの彼はこんな風なのかとよく観察する。隅々まで脳内にその様子を焼き付けようとしている自分に気付いてから、今まで彼が目覚めるところを一度たりとも見たことがなかったことに気付いた。あんなに長い間ずっと一緒にいたのにも関わらず、一度たりとも。
その事実に思い当たって、堪らなく悲しくなった。彼にとって自分は共にいて神経を緩められる相手ではなかったのだと。
「……どう、し……」
けれど酔ったような口調も定まらない焦点も、彼が覚醒したばかりだからというだけでは決してないのだ。
触れていた顔に、自分の顔を近づける。男はごついし興味がないだとか、セクシーな女の人が好みだとか、そういう軽口を叩いているのを聞いたことがあったけど、今自分が見下ろす彼は隙だらけで、なんだかそれがとてもセクシーだ。そういう相手の場合、彼はどうするのだろう。勿論そういった性癖に目覚めてもらいたいわけではないけれど、純粋な疑問である。
そんな疑問は今はどうでもいいか、と思い直して、目の前の唇に自分のそれを重ねた。
「……ッ!? ん、んんっ――」
薄ぼんやりとしていた目が一気に覚醒する。肩を掴まれるけど、その抵抗はひどく弱々しいものだった。非力な自分さえ押し返せないような緩い抵抗。それが彼本人の意思によるものか、他の要因によるものか、自分には判断できないし、しようとも思わない。
ただこの腕の中に頭を抱え込んで、その口腔をひたすらに貪った。歯列をゆるゆるとたどり、逃げようとする舌を追う。拙いものと分かっていたけれど、無我夢中だった。必死だった。
やっと口を離すと、二人の唇を銀糸が繋いだ。それが切れてしまうのを残念に思った。繋がりが絶たれてしまうのは、いつだって寂しい。
だからせめて余韻を楽しもうと彼の唇を舌で拭う。逃げようとする彼を抑え込むのは容易かった。それが嬉しい。どうにもできなかったものをどうにかできる、その事実に、心が打ち震えた。
「……っ、はっ……」
彼はとうとう言葉を無くしていた。問い掛ける内容を見失っていた。こんな風にパニックに陥る姿も、あまり見たことがなかった。
「……いつも、お薬を飲んでいるでしょう」
「何の、はなしを」
「知ってるの」
抱えた頭を離すと、そのままベッドに沈む。起き上がれない彼の身体を、上にのし掛かって抱きしめる。背中に手を回して、きつくきつく抱きしめる。
そうして顔が見えないようにして、耳元で囁くようにして告げる。
「知ってるから、すり替えたわ。見た目はそっくりで、全然違うお薬に」
「………」
「あなたは気付かなかった」
助かったわ、と心からの吐露だった。
「だから、全部お薬のせいにしていいの」
あなたは悪くないのよ。これはわざわざ口にしなかった。なんとなく、言っても無駄な気がするから。
「……っ、いっ……だ、だめです、サラ……っ!」
絞り出される声には必死さが滲んでいた。その必死さと対象に、もがく彼の抵抗はひどく弱々しかったけれど、ああ彼は本気で嫌がっているんだなあと分かった。
嫌われてしまうかもしれないな、心の片隅で思った。けれど彼にとってはそんなことは関係ないのだ。自分のことが好きだとか嫌いだとか、そんなことは全然関係ないのだ。
そのことを思うと、どうしても手が止まらない。
幸い彼の服はいつものタートルネックでなく黒いカッターシャツだった。一つ一つボタンを外して、前を開いていく。自分の手を押さえようとする手は縋り付く弱さだ。簡単に振り払えてしまう。
露わになった白い鎖骨に、思い切って顔を寄せた。ゆるゆると舌を這わせて、形のよい骨を辿る。舌に伝わる確かな感触が愛おしくて、食べてしまいたいと思って歯を立てた。密着した身体がびくりと跳ねる。
「やめ、っ……」
抑えられてくぐもった声が耳を打って彼の顔に視線を向けると、いっぱいに反らされた顔が両腕で覆い隠されて表情は窺えなかった。
隠すことないのに、と思って鎖骨から顔を離して彼の腕を掴む。無力な腕は容易く退けられて、その顔を覗き込むことができた。
泣いてはいなかった。ただ蒼白で、見開かれた瞳は動揺に揺れていた。怯えというよりは戸惑いとか、後悔とか、そういう感情が読み取れて、この人は思った以上にストイックなのだと思った。それがまた魅力で、攻めたくなるところだ。
噛み締められた唇が白い。このままでは唇が切れてしまいそうだ。
「唇、切れちゃうよ」
そう思ったからストレートに指摘したまでだ。深い意図はなかったけれど、彼はそうは思わなかったのかもしれない。薄く口を開いて、噛み締めた痕の残る唇で言葉を紡いだ。
「それがいやなら、やめて欲しいと思います」
「それは、もっといや」
すぐに突っぱねる。意地悪ではない、ただ欲望に従っただけ。
「ずっと子どもだと思っているでしょう。私はお父さんの、可愛い可愛い一人娘。それは間違ってないかもしれないけど……子どもじゃないのよ」
言葉が上手くまとまらない。言葉でまとまらないのなら、行動で示すしかない。
そう思って自分は組み敷いた身体の下腹部へと手を伸ばs
「きゃあああっ!?」
悲鳴と重なって、騒々しい金属音が響く。その音にサラを振り向いたソーニャの表情は妙に訝しげだ。
「どうしたのサラちゃんまた。……ありゃ」
「ご、ごごごごめんなさい、あっ、あのっ消毒したばっかりなのにっ」
「大丈夫、大丈夫だから、あー……そこのゴミまとめて捨てといて。うん」
「は、はいいっ」
床に散らばったピンセットを掻き集めながら首を捻るソーニャを前に目を逸らしながら、サラの心臓は先程から早鐘を打ちっ放しだ。明らかに変だと思われている。というか、変だ。その自覚はある。あるけれどどうしようもないし、理由を聞かれたらもっとどうしようもない。話すわけにはいかない。
だってだって、いくらなんでも、あんな夢。
「ひやぁっ」
「また!? っていうかそこ何にもないけどなんで転ぶの!? 大丈夫!?」
「あ、あうぅ、あわわわわわ」
何も言えず、床に尻餅をついたまま頭を抱えるサラはなんかもう穴があったら入りたいってこういう気分ですか。墓穴でも構わないです。というのが本音なところだった。本当に、もう。
「ほら、落ち着いて。今日はもう休んだら? 調子悪いみたいだし」
調子悪い、というのはものすごくオブラートに包んでくれた言い草でこの人は本当に優しいなあ。オブラートっていうかもうこれはパイ生地とかそういう分厚さだなあ。優しい人でよかったなあ。
「ほら、立てる?」
案ずるような顔で見下ろしながら、掌を差し出してくれる。そう思いながら手を取ろうとしたサラは、先程からソーニャをなるべく見ないようにしていた理由を完全に失念していた。というわけで、思いっきり見てしまった。
――だから普段あなたはわりとタートルネックとかTシャツとかVネックとか多いと思うんですけどなんでこういう時に限ってカッターシャツなんですかっ!
心の中での悲鳴をそのまま声に出すわけにはいかない。ちなみにソーニャがカッターシャツを着ることは格段珍しいわけではないのだが、なんかもうそこら辺はとりあえず食って掛からなきゃやってらんないサラである。心の中だけに留めているぶんにはどんだけ罵ろうと自由である。どんなにそれが理不尽であっても。
「……あの、サラちゃん? 顔赤いけどもしかして熱?」
「ひゃ、ひゃいっ!? っ」
気がついたらソーニャが額に掌を当てていて、サラの目の前にカッターシャツが鎮座していて、
――ええとあのボタンを指でわたしがそれで開いてそれからええとたしか――。
「……う、ううぅ……う〜〜〜っ……」
「ちょっと熱っぽいよ、う……なって、えっ!? そんなに辛い!? 泣くほど!? もういいから休みなよ、相当だよ今日のサラちゃん!」
「ひ、ち、違うの、違うんです〜〜〜っ……わ、わたしはっ」
「……どうしたんですか、皆さん?」
先程から騒がしくしていたのが気になったのか、奥の部屋からサラとソーニャの様子を見に来たのは伊鶴である。
ソーニャの目の前でサラがぽろぽろと涙を零している、という、どうにも誤解せずにはいられない様子を見て、目を丸くして口元を手で覆う。
そして、本日最大の爆弾を投下した。
「あらあらソーニャさん、サラちゃんをいじめて泣かせてはいけませんよ。ユーグさんに怒られてしまいます」
「なんでオレが! いじめるわけないじゃないですかこんな女の子のこ、と……さ、サラちゃん?」
「ご、ごめ――」
ひぐ、と喉の奥で音が鳴った。
「ごめんなさい〜〜〜〜〜〜っ!」
「くしゅんっ」
「なんだ、風邪か?」
「いや、なんか……そういうこともないんですけど。おかしいですね」
「……噂でもされてんのかね」
「さぁ……」
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