凌遅刑

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「……っ」
 ゴムのベルトで肘に近い右前腕をきつく締め上げられ、ソーニャは圧迫される痛みに息を詰めた。抵抗しようにも背後から押さえ込まれ、腕を突き出し、テーブルに上体を凭せ掛ける形で拘束されているために叶わない。
(……っていうか、まあ、もともと無駄だけど)
 拘束された状態でも視界の自由は利いた。物が乱雑に置かれた狭い部屋で、妹の過ごしていた事務所を連想させた(あの部屋はもう少し広かったけれど)。窓にはブラインドが下ろされ、室内にいるのは自分と、自分の身体をテーブルに押し付けて拘束する男が三人と、テーブルの隣に立って自分を見降ろす男。
 それと、もう一人――自分と向かい合う形で椅子に座り、自分の手を取って凝視する白衣の男。
「……なあ、悪いことは言わねえからよ」
 立ったままソーニャを見降ろしながら、男の一人がしかめっ面で口を開いた。しかめっ面をしたいのはこちらの方だと言い返したい衝動に駆られながらも、ソーニャは何も言わずに男を見上げた。
 まっすぐに視線を向けられて、男がたじろぐのが見えた。唇を一度舐めてから、再び口を開く。
「お前のために言ってんだよ。今ならまだ止めてやれるから、さっさと例の娘の居場所を――」
「陳腐なことさせないでよ」
 男の向上を遮り、ソーニャはため息をついた。背中を伝う汗の冷たさを感じながらもきっぱりと断言する。
「オレは知らない。彼女の居場所なんて、これっぽっちも」
 男はソーニャを見降ろしたまま暫しの間黙り込む。苦り切った顔をした男はやがて首を振ると壁際に置かれた椅子に腰を下ろした。腕を組み、白衣の男に視線を向ける。
 ただそれだけの動作で、白衣の男の表情が劇的に変化した。
「いっ……」
 血流が滞り白さを増してゆく右手首を握り込む男の力は異常に強くなり、ソーニャは小さく声を漏らした。反抗心を露わに相手をきつく睨みつける。
 しかし、相手はソーニャの手首を舐め回すように眺めるのに夢中で――その鬼気迫る熱中ぶりに、ソーニャはぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
 蛇に睨まれた蛙のように、言葉を忘れ身動きひとつ取れない。
「……綺麗な手ですね」
 永遠に続くかとも思われたその沈黙を破ったのは相手の方だった。
「……は?」
「綺麗な手だ。幾らか傷が残ってしまっているのは残念だが、形そのものは非常に美しい」
 滔々と語る男の口調はひどく滑らかで澱みなく、その瞳を見たソーニャは身の毛がよだつのを全身で感じた。思わず男の瞳から目を逸らす。目を合わせたくない、そう思わせるような強烈な劣情。
 瞳の奥に秘められたものを見せつけられて、遠く在る筈の記憶が鮮やかに蘇る。
「本当に……光栄ですよ」
 恍惚と呟く男はソーニャの右手を握り込むと、テーブルの上にあった金属製の手枷に嵌めこんだ。重量のあるブロック状の手枷により、突き出した腕も殆ど動かせなくなる。
 動かせるのは、手首の先だけ。
 その個所も男の眼差しにやられて、縛りつけられたように動かない。
 指一本動かせない、動かすことすら考えられないソーニャの前で、白衣の男がメスを取り出す。白衣にメス。見慣れている、というよりも自分自身が実際に見につける組み合わせであるはずなのに妙に異様に思えるのは、自分が今置かれている状況が異様であるからか。
「随分と緊張してますねえ」
 銀色の輝きから目が離せないでいるソーニャに男が声をかける。顔を上げたソーニャは男と目を合わせてしまってその身を強張らせた。欲望に揺らめくその色に射抜かれ、身体が竦んでしまった。
「そんなに怖がらなくてもいいんですよ?」
 嘯く男が、ソーニャの人差し指の先にメスを添える。
 そして、その刃を滑らせた。

「……?」
 思わず目を閉じたソーニャは、想像していたような激痛が来ないことを訝しんで薄眼を開けた。メスで指を裂かれるくらいされるかと思い込んでいたが、実際は皮膚を削り落とされただけだ。それも真皮にも届かない、本当に表面の表皮部分だけを。
 男はソーニャの指に沿ってメスを滑らせ、少しずつ表皮を削ってゆく。人差し指から指の付け根を経由して中指へ、中指が終わったら同じように薬指へ。丁寧に、しかし慣れた手つきで手際よく。
「……何、を……してるんだよ」
 痛みは無い。むず痒いとでも言うべきだろうか、妙な感覚はあるがこんなものは痛みには入らない。ただ、薄気味悪さと――不吉な予感ばかりが心の中を満たしてゆく。
「ちゃんと手順を踏まないと、楽しくないでしょう」
 意図の掴めない答えを返しながら、男は手を止めはしない。メスは手首までを辿り、刃と肌とが接する角度を鋭くされて真皮に食い込んだ。ぴりりと僅かな痛みが感覚として脳に伝わる。
 その際にソーニャが感じたのは、ごく僅かな痛みとどうしようもないほどの戦慄。
 真皮を傷つけられたものの止血処理を施されているがゆえに、血は静かにゆっくりと流れた。それとは別に透明な液体が、冷や汗と脂汗とがソーニャの全身を滲ませていた。そのくせ身体は寒い。芯まで、心の奥底まで冷やされきって凍えそうなほどだった。
 ソーニャは壁際に座る男に顔を向けた。腕を組み見物を決め込んでいる男は、汚い物を見るような目をしていた。
 その目は同時に、何かを哀れむような色を宿してもいた。
「どこ見てるんですか?」
 白衣の男の声がしてソーニャは視線をそちらに戻す。赤い組織を露出させたソーニャの掌から目を離さない男は、ソーニャにとっては残酷な要求を口にした。
「ちゃんと見ててくれないと。自分の解体なんて、なかなか見られるものじゃないでしょう」
「……っ!」
 解体、と言った。解剖ではなく。解剖ですらなく。
 一つ一つパーツを外すようにして掌を切り分けていく過程を、この男は解体と表現したのだ。
「目を閉じるとか顔を逸らすとか、そういうことはしないで欲しいですね。無理矢理見せつけるのはあまりスマートじゃ――」
「ちょっと止まれ」
 椅子に座ったままの男に遮られ、白衣の男は一瞬表情を曇らせたが、すぐに口を閉じてメスを動かす作業だけに専念し始めた。嫌悪感を隠さずにその作業を一瞥し、男はソーニャに視線を移す。
「……分かっただろ? だからさっさと吐けよ。まだ取り返しが付くぜ、手は大事だろ? お前はさ」
 必要以上に馴れ馴れしく話しかけてくる男は、なるほど本人としては親切で言っているつもりの部分もあるのだろう。この白衣の男のすることを知っているから。これからソーニャが辿るであろう末路を知っているから。
 けれど、ならばそもそもあんな組織に属している時点で、ソーニャをこんなところに連れてきた時点で、
 何よりも、あの少女を害そうとしている時点で、親切などという言葉からは程遠いところにいるのだ。
「――オレは、『知らない』」
 だからソーニャは男を突っ撥ねた。もともとが相容れない相手で存在だ、この程度で屈するつもりはなかった。
 そう――この程度で。
「何回聞かれようが脅されようが、これがオレの答えだ」
「……そうか。勝手にしろ」
 男が吐き捨ててソーニャから目を逸らす。最後にちらりとソーニャを見たとき、憐憫の情のようなものを強く窺わせたような気がしたが――冗談じゃなかった。余計なお世話だった。
 こんなところで大した偽善だなと、そう吐こうと口を開きかけたソーニャの頭を大きな手が鷲掴み、無理矢理に前を剥かせる。前を、白衣の男の方を、ソーニャ自身の手の方を。
 赤い掌を。
「お話が終わったんだから、ちゃんとこちらを見なければなりませんよ」
 語る男が、掌の真皮を落として皮下組織にまでメスを食い込ませて抉る。深度を増すたびに比例して大きくなる痛みがソーニャを苛むが、まだまだこの痛みが序の口であることはソーニャにも良く分かっていた。
 来たるべき激痛を予感させながら嬲るように緩やかに進めていく作業のやり方が厭らしい。
 男は皮下組織を抉って削り落とすと、その下に在るものを見つけて表情を綻ばせた。その笑顔が妙に純粋で無邪気なものに見えて、ソーニャは子供が隠し持つ残虐性を連想せざるを得なかった。
「ほら、これでもう爪は取れますよ。邪魔なんで取っちゃいましょう」
「っう、あ――ぁ! っ、はぁっ……」
 爪床近くまでを削られたために安定を失って揺れていた爪を一気に引っ張り抜かれ、ダイレクトな痛覚に思わず悲鳴が漏れた。途中で慌てて悲鳴を押し殺すと、喉の奥に押し込められた空気が逃げ場を失い掠れた喘ぎとして零れる。
 自らの迂闊さに唇を噛み締めるソーニャに反して、男は喜びを深めていた。
「ああ――いい声を聞かせてくれました。あなたは無駄にわめかないのはいいんですけど、少々静かすぎるきらいがあります。適度に声を漏らしてくれる方が楽しめるというものですよ」
 そんなことは言われなくとも分かっていた。
 この手の輩を楽しませるようなことはしたくなかったからこそ、ソーニャはただひたすらに息を押し殺していたのだ。
 こんな、無抵抗の相手を嬲ることに快感を感じるような輩を楽しませることなど、二度としたくなかったからこそ。

「随分とすっきりしてきましたね」
「は、……っ……っふ、う……」
 呑気に言う男に答える意思も言葉も気力も、ソーニャは持ち合わせてはいなかった。
 既に手枷は外されている。長期間の止血されたままの前腕は完全に色を失い、もともと白かったとは言えその色は既に死人のものに近いおぞましさだった。
 掌から先からは違う色も窺えた。死人の肌とは違う色。
 鮮やかな赤色と、その中から突き出す白色。
 既にソーニャの右掌の指は、骨を残すばかりとなっていた。
 筋鞘を落とされ腱も既に断ち切られ、力無く項垂れる白く細い骨の数々。指を通っていたはずの毛細血管は器用に剥がされてだらりと垂れ下がっている。親指に繋がる筋肉も屈筋支帯を切り離した上で同様に外されており、仲良くテーブルに置かれたバットの上に並べられていた。
 ソーニャの右掌は最早原形を連想するのが難しくなるほどに解体されてしまっていた。
「く、あ! うぁ、あっ――」
 痛みに跳ねる身体は屈強な腕で押さえ込まれる。
 反射的に漏れる声を殺すために噛み締められる唇はとっくに切れて赤い血を流していた。
 赤い血を。切り分けられた掌から静かに流れるものと同じ、赤い血を。
 男は今、人差し指を動かしていた筋肉を切り離そうとしているところだった。その光景を最早慣れたものとして眺めるソーニャは、先程から何度も遠のきかけている意識を気力だけで繋ぎ止めていた。
 いっそ意識を失ってしまった方が楽かもしれない。そんな風に思うこともあったが、ここで意識を保っているのはソーニャの意地だった。
 こんなのは全然辛くないと。
 いつかに比べたら、だれかと比べたら、こんなのは全然辛くないのだと。
「っ、が、あぐっ!?」
「あなたはあんまり鍛えてないんですねえ。全体的に小さいです」
 鍛えているような人間だったなら、こんなザマには遭わないだろうよ。
 痛みにスパークする頭のどこかでぼんやりとそんなことを考えたが、しかしどんなに鍛えていても三人がかりで押さえつけられたなら抜け出すことはできないだろうなとも思った。だが鍛えていればそもそもこんなところに捕まらないような気もする。
 そんなことを考えていても、今ソーニャがここで拘束されているという事実に変わりはないのだけれど。
「それにしても、泣きごとひとつ言いませんね。声はすっごくいいの聞かせてくれるんですけど――珍しいな。楽しいですか?」
 楽しいか、と。
 とんでもなくふざけた戯言に、しかしソーニャは微かに笑みを零した。
 まだいいのだ。
 今のこの状況は、昔に比べたらずっとマシなのだ。
 愛しいものが傍にあるのに守ることも出来ず、寒く汚い部屋でお互いがお互いに縋るようにして過ごしていた。暖を取るために二人身体を擦り寄せようにも、どちらの身体も凍えきっていて叶わない。ただ訪れる絶望に怯え、光も知らず涙を流す日々。
 でも、今はこうしていることで守りたいものを守れている。あの少女を魔の手から逃がすことができる。
 だから、こんなものは全然辛くなどない。
「楽しいのなら何よりですね。さて、続けますよ」
 筋肉を引き剥がされる痛みにも、神経を直接弄ばれる激痛にももう慣れた。脳の隅々までを灼き尽くされ掻き混ぜられるようなあの感覚にも。
 そもそも自分はまだ掌しか駄目になってはいないのだ。ずっと止血されたままだから前腕に障害が残ることは間違いないし、止血にしても強すぎる圧迫の周辺も恐らくやられているだろう。それでも、まだ前腕だ。
 片腕を根本に近い位置で斬り飛ばされた彼女に比べれば、まだ。
 それでも尚彼女はベッドで笑顔を見せたのだから、自分もそれくらいはしなければならない。医者だからだとか、戦場に出ることがほとんどないからだとか、そんなことは関係ない。この街で、都市で、島で生きている時点でそれぐらいの覚悟は出来ていて然るべきなのだ。
「っつう―― あ、があぁっ!?」
 そして、何より、あの少女。
 生まれついてより親に愛されることもなかった、あの少女。
 兄弟もなく、幼いころより慕う相手には歪んだ感情を返され、伝わらないと父を、世界を憎み。
 無条件に頼ることのできる相手を誰一人持つことのできない少女。
 世界は彼女の敵だった。
 あんなにも愛らしく心優しい少女なのに、彼女はあらゆるものに怯え、あらゆるものに迫害された。
 そんな少女に比べれば、自分の境遇など。
 ――逆立ちしても、辛いものになんかなり得ない。
「はい、右はこれで終わりですね。お疲れ様でした。まあこれから左手を――」
 そう信じようとするソーニャの意識は、男の言葉を聞き終えるまでもなく静かに闇へと沈んでいった。


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