鏡越しの手を繋ぐ

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 ベッド回りの掃除を終えたグラシアは、疲れた体を労わるように身体を伸ばした。
 今日退院していった客はそれなりの大金を落としてくれたから、暫くはのんびり気楽な生活が送れそうだ。一人ひとりからはぼったくるが、あまり荒稼ぎするつもりはないグラシアである。
 贅沢な暮らしをしたいわけではないのだ。喰うに困らない程度に仕事をして、日々それなりに和やかに、趣味を全うしながら生きることができるのなら、それだけで十分満足だ。この街でグラシアが望むのは、そういう、比較的平凡な生き方だった。
 ただ、彼女の仕事と趣味が、少し平凡とは外れていたというだけで。
 カーテンを引いて、窓から外を見る。空が白みつつあった。数限りなく立つビルの隙間から窺える光に清々しいような気持ちを抱いて、窓を開けて五階からの景色を堪能する。
 朝の訪れを間近に控えたこの時間帯は、夜の住人と昼の住人の活動時間、両方から外れた中途半端な時間帯である。この静けさがグラシアは嫌いではなかった。心が安らぐようで、薄汚れた街並みを美しく見せてくれる。
「……んー?」
 静の中で動く黒を認め、グラシアは小さな声を漏らした。
 動く黒は人間だった。羽織った上着もインナーも、髪までもが黒い。手に持ったアタッシュケースも薄汚れていて、その黒い印象を変えるような働きはしなかった。おまけに塗れているのか、彼が通る道筋すらも濡れて暗い色へ塗り変えられていた。
 グラシアが見降ろす中で、その黒い影が膝を折った。力が抜けたように膝をつき、両腕をアスファルトに四つん這いのような体勢になる。そのまま力無く頽れ、地面へとうつ伏せに倒れ込んだ。
「あら」
 そこまで見届けたグラシアは窓際に置いたオペラグラスを手に取ると、倒れ込んだ黒い影をまじまじと眺めた。
 上から顔を見ることはできなかったが、かと言って動く様子はなく、少なくとも意識を手放しているのは間違いないようだ。手放されたアタッシュケースは彼の横に所在なさげに佇んでいる。
「……これは、もしかして、もしかしたらー」
 オペラグラス越しにと、オペラグラスなしとで周囲を見回す。他に人影が見当たらないのを確認、窓を閉めて取って返す。部屋を出て廊下を抜けて玄関を出て、エレベーターを降りて外へ出る、と、黒い人間は依然その場に横たわったままだった。
 最初に目に入ったのは腹部の下からじわじわと広がる赤い色で、案の定怪我をしているようだった。膝から先が濡れているのは下水や川でも走ってきたのだろうか。血痕を掻き消すためと考えれば、その予想もそう外れていないと思った。
 こうして近くで見てみると、黒に染め上げられた衣装とは対照に肌は酷く白かった。血の気の引いたそれであることは間違いないが、それを差し引いても、白い。近付いて初めて見えた顔立ちは、それだけ見ると男か女か判別の付かない繊細な作りをしていた。体格から男であることは間違いなく読み取れたが、それも医者のグラシアでなかったら悩んでしまったかもしれない、そう思わせる程度の細身ではあった。
「……あれ?」
 そんな取りとめのないことを考えながらアタッシュケースに手を伸ばしたグラシアは、ふと思い当るものを頭の中に見つけて手を止めた。


 目を覚まし、最初に見上げた天井は知らない色をしていた。
 マリアットが呆けたようにその色を眺めていたのはそう長い間の事ではなかった。すぐさまベッドに寝かされている自分に気付く。何度か目を瞬くと、とりあえずはと身体を起こそうとし――その動きが、途中で止まった。
「いっ……?」
 止められた、と表現すべきか。
 万歳をするような形で頭の上へと持って行かされていた両手首に、固い金属の感触があった。軽く動かした身体が訴えた痛みに思わず息を詰めつつも状況確認を優先させる。
 蒼い瞳に映り込んだのは、手錠。ベッドのパイプに鎖を通すことで彼の動きを封じていた。
 思わず、呆然とつぶやく。
「……な……んだ、コレ」
「……ん、ふぇ……」
「!? ――いッつ、う……!」
 不意に聞こえた声に驚き身を捩ると、再び激痛に襲われる。
 抑え切れない悲鳴を上げるマリアットの視界に飛び込んだのは、ヘーゼルの瞳の女の顔だった。
「――は、」
「起きたー、ですかー?」
 そう問う女の方が眠そうな目をしていた。欠伸を噛み殺しながら、ベッドの隣のパイプ椅子に腰かける。
 ナース服を着た女性だった。跳ね気味の茶髪を肩口まで伸ばしていて、白の編み上げブーツがミスマッチだった。これ見よがしに足を組む、覗くふとももが妙に健康的な眩しさを放っている。
 だがマリアットにはそんなものを気に留めている余裕はなかった。
「……アンタ、何者ですか」
「えー? 一応怪我の手当てしてあげた親切な人間で恩人なんですからぁ、そんないきなり威嚇しなくたっていいじゃないですか!」
 自分の腹部に巻かれた包帯を指さし、子供のように頬を膨らませる様子を見せつけられたところで、マリアットの緊張は解けなかった。むしろ、さらに訝しむように眉根を寄せる。重ねて彼女に詰問する。
「この状況で無茶を言いますね? なんのための拘束なんですか、親切な人間ならこんなことしないと思いましたけれど」
「だって襲われちゃったら困りますもーん」
 妙におどけた、えばった口調が耳障りだった。茶化すような態度が苛立たしい。
「……じゃあ、なんで助けたんですか」
 そもそも助けなければ、襲われる心配などないだろうに。余計なことに首を突っ込まなければ安泰のはずだ。こうして処置して貰っていなければ死んでいたかもしれないことを考えれば、助かった、とも言えるが――彼女の好意は不可解に過ぎた。
 マリアットの心情など彼女は知ったことではなかった。椅子から立ち上がり、ベッドに手をついてマリアットの顔を近くから見降ろす。
「んー……それはですねぇ、気になったっていうかー、うん、そんな感じでして?」
「……はぁ? ――ッ!」
 ベッドが軋む音が響いた。
「にゃはっ!」
 馬乗りになられ、マリアットは痛みに息を詰めた。彼の傷を労わる様子など微塵もない、口の端に笑みを刻みながら彼女は彼の目の前に何かを差し出した。
「がッ……!?」
「これ、なーんだ」
 赤い錠剤が入った、ピルケースだった。マリアットの顔色が一瞬で青褪める。
「っ……薬、ですよ、別にただのっ……!」
「えー? ほんとですかー?」
「この、状況で……嘘、なんか……!?」
 これ見よがしにピルケースをちらつかせた彼女は、マリアットの言葉を遮るようにピルケースを放り投げた。放られて床を転がるプラスチックのケース、無意識に目がそれを追う。
 彼女はマリアットの上から降りると、転がったピルケースの元へと向かった。すぐ隣で止まるとマリアットを振り返り、口端を更に吊り上げた。マリアットの胸に嫌な予感が去来し、頬を伝う汗の感触が妙に煩わしく感じた。
 マリアットの予感に彼女は行動で応える。視線をピルケースに戻すとおもむろに足を振り上げ、力任せに振り下ろす。
 床に転がした、ピルケース目掛けて。
「っ――やめろ!!」
 張り上げた声は酷く切羽詰まった色を含んでいた。
 踵と床が衝突する固い音が高く響く。ピルケースから僅かにずれた床を打った踵、そのままの体勢で彼女は再びマリアットを振り返った。
「……ただの、薬なんでしょう? どうなんですか?」
 彼女はピルケースを拾うと、手の中でそれを弄びながら返答に窮する彼へと近づいた。焦りの色を滲ませる彼と対照に彼女は酷く愉快そうだ。ピルケースを振って軽い音を立てながら、椅子に腰かけて足を組む。
 そして、ゆっくりと口を動かした。
「――ユーグ・マリアットさん?」
「………!?」
 呼ばれた名前に蒼い瞳が見開かれる。目の前で激変する表情を眺める彼女の顔に差したのは、明らかな優越感。
「な……んで、その……名前……」
「マリアットって姓は出してても、名前の方は出してませんものねぇ、あなた。……ね、教えてくださいな」
 彼女は口元を歪ませると、マリアットの耳に唇を寄せた。
「……何で、戻ってきたんです?」

「へー、ふーん、そーゆー……」
 したり顔で何度も頷く彼女の前で、マリアットは憔悴しきったような様子を見せていた。
「……ッ、もう満足でしょう。手錠外して、それ返して下さ――」
「やですよう」
 当然のように彼女は拒否を示した。続けて理由を説明する。
「今あなたを解放しちゃったら、口封じに殺されちゃいかねないですしー。だから、保険として――」
 思わせぶりに言葉を切ると、女は再びピルケースを振った。
「……ねえ、これ、もう残り少ないですよね? さっきの必死な様子見るに。流石にこれで全部ってことないとは思いますですけれどー」
「……それが、どうかしましたか」
「作ってあげられますよ?」
「は?」
 意味が分からないとでもいうような、素っ頓狂な声だった。投げつけられた変化球を受け止められなかったとでもいうような。
「私、これでも医者なんですよぅ。もともとは違うこと、してましたですけど。だからあなたのこと知ってたわけですしね?」
「……アンタ……まさか――んぐっ」
「しー」
 ピルケースでマリアットの唇を塞ぎ、女は蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。
「……それと、その女の子を助けるお手伝いとか――」
「ッ本当ですか!?」
「きゃんっ」
 勢い込んだマリアットに気圧されたように、女は身を竦めた。何度か瞬きを繰り返すと、怒ったように拳を握り締める。
「もーぉがっつきすぎですよー、こっちの話も聞いてくださいっ!」
「それより、今言ったことは――」
「条件付きですよう。無償奉仕なんて真っ平ですもの」
 マリアットの取り乱しようは名前を呼ばれたとき以上だった。彼にとってはそれほどにまで重要なことなのだと、改めて実感させられる。
 だからこそ、彼は間違いなくこの提案に乗ってくるだろうと。それを確信することができた。
「私のお手伝いもして欲しいんですよねー。この街でお仕事しながら趣味と実益兼ねながら平和に暮らしたいんですけど私、ちょっと不安要素があるもので」
「……不安要素?」
「です。やっぱり不安抱えて生きるのってやなのですよぅ」
 期待と不信感の籠もった目を見返して目を細める。
「私の名前はグラシア・オルティス。ユーグ・マリアットさん、お互い目標達成のためにここはひとつ、懇ろな仲になっちゃいません?」
 そこで初めて名乗った女の口説き文句は、誤解を招きかねないほどの笑顔を伴っていた。


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