「……なんで、恨まないの」
「誰をです?」
当然のように疑問を呈する彼は明らかに異常だと思った。
「決まってる。……あなたの人生、その人に滅茶苦茶にされたようなものじゃない」
「滅茶苦茶にされた? まさか」
鼻先で笑い飛ばされた。おかしい。本当に、異常だ。
「オレはあの人に救われたんですよ。あの人がいなければ、あの暗く汚い世界で朽ち果てていた。……それを救い上げてくれたのは、あの人だ」
そう語る彼の顔は酷く誇らしげで、敬愛を示すように眇められた目が表情が恐ろしく穏やかで、
反吐が、出る。
「……あなたは」
自分の声が掠れるのが分かった。咽喉で詰まった言葉を、無理矢理絞り出す。
「利用、されただけでしょう」
「それでも構いません。……救われたことに変わりはない」
「あなたじゃなくても良かったの! あなたのためでもなかったし、本当、いいように使われただけで!」
「それに何の問題があるんですか?」
訊き返されて、息が止まる。
本当に、心底不思議だと思っているのだと分かって、言葉を失う。
「さっきからあなたは何が不満なんですか? オレが彼をどう思っていようが関係ないでしょう。どうしてそんなに突っかかって来るんですか」
「……っ」
「……何か、気に障るところでもありました?」
そう問い返す相手の表情は明らかに愉しげな色を含んでいて、感じたのは僅かな、苛立ちと――胸に広がる、間違えようもない、安堵。
「煩い! ……それ以上言ったら薬減らすわよ、黙ってなさい!」
彼の言葉を封じるために吠えると同時に背中を向ける。そのままベッドに彼を残してドアノブに手をかけ、部屋を出ると同時に荒々しくドアを閉める。
ドアノブを握る手は間違いなく汗ばんでいて、早鐘を打つ動悸を確かに感じた。力なくその場に、座り込む。
「……なんなのよ、あいつ……」
彼の言う相手は間違いなく唾棄すべき、憎むべき、恨むべき相手だ。
それなのに。
『……救い上げてくれたのは、あの人だ』
全てを赦し受け入れるかのような、穏やかな声は、表情は、
――さながら、聖人にも似たそれで。
「……馬鹿みたいよ、そんな……おかしい、絶対おかしいわ、なんで……」
何故お前は赦さないのかとでも言うような。
お前の小ささを思い知らせてやるとでも言うような。
心を蝕まんばかりの塊が、そこにはいた。
「……赦せるわけ、ないじゃない」
言葉を吐く。そのどす黒さに気付かないわけがない、それでも吐き出さなければやっていられない。
息が出来ないくらいに、胸の中が重い。
「赦さないわ」
自分から全てを取り上げ、強要し、ただ己のためだけに自分を育て上げた女を。
果ては自分を捨て、己の欲望のままに行動を起こす計画を心に秘めていた女を。
――母、を。
「……あんな女、然るべき最期を迎えただけの話なんだわ……っ!」
――同じ最期から逃れるために、自分は何をした?
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