千々に眠る

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 重い身体を抱き締める腕の温かさに妙な心地よさと懐かしさを感じた。
 その安らぎに身を預ければ、幸せになれるような気が、した。

 薄く開いた目に映る世界はぼやけていたけれど、輝く金色だけは鮮烈に網膜に焼き付いた。そのあまりにも激しい鮮やかさに思わず息を呑む。
「……ッ、……?」
「ん――お目覚めかァ?」
 至近距離で笑う女の顔。
 左腕の途中、肘から先の、感覚がない。
 断絶された触感、その継ぎ目から端を発する、
 ――神経を掻き毟り、灼き尽くすような激痛。
「ッ!?が、ぁッ……ああ、ァ!?」
「どーしたどーした、大丈夫かよ?」
 面白がるように抱き締めてくる女の裸体の、押し付けられる柔らかさを意識している余裕はなかった。ただ沸騰しそうな痛みが全身を貫く。それに耐えるため、身を丸めようとして初めて、まともに動かない身体に気付いた。
 そうしている間も疼痛は容赦なくこの身を貫き苛み続ける。
 女の身体は柔らかい筈なのに、肌に触れてくるあらゆる刺激が痛みに摩り替る。背中に回される掌と、胸板に触れて形を変える柔らかな乳房。情事の最中であれば喜ばしくあるかもしれないそれらも、彼にとっては厭わしいを通り越して憎らしいものにしか成り得なかった。
 女は肘の先で断ち切られた左腕を掴むとその断面に舌を這わせた。細い紐で何重もきつく縛るという原始的な、しかし効果的な止血処置が施されたそこからは、既に血は流れていない。
「は、あ、あぁ! いっ――ぎぁ、かっ……」
 柔らかな舌先が断ち切られた筋繊維の一本一本をほぐすかのように断面をつつき揺れる。微かな動きも神経を走り、その信号が即座に脳に伝えられた。耐えがたい激痛という形を取って。
「っづう、うあ――! ああぁ、ぁ! がっ、は……!」
 刺激を受ける度、身体が跳ねる。その動きによって舌と断面が擦れ、刺激を呼ぶ。苦痛から逃れるための肉体の生理的反応が、その苦痛に拍車をかけているのだから皮肉なものだった。強すぎる痛みに遠のきかけた意識のどこかでそんな風に嘲笑う自分がいた。
「……イイ声だなァ? もっと啼けよ」
「ぎ、ぃあッ」
 唾液で十分浸されたそこを硬い犬歯で抉られる。最初に骨と歯が当たる硬い感触が、やがて力を込められれば筋肉をずらされ、生じた隙間には空気と言う異物が入り込む。その全てが、彼を苛む劇物以外の何物でもなく――見開いた筈の瞳には、何も映らなくなった。
 引き攣れた悲鳴を抑えることが出来ない。自分の想像の限界を遥かに超える痛みを更に上塗られ、内心漏らした嘲笑ですらも、現実逃避をするだけの余裕の上に成り立ったものであったのだと思い知らされた。
 突き立てられた牙が乱暴に動く。止血された先の皮膚を、筋肉を、神経をぐちゃぐちゃに噛み解し、やがて――
 柔らかくなったそこを、女は躊躇なく食い千切った。
「ぃ、があ、あぁッ!? っうあ、あ……! あ、ああぁ!」
「んー……」
 生肉を噛み締める粘性を含んだ音が至近距離で耳を打つ。そうして咀嚼されているものが他ならぬ自らの一部であったことが信じられなかった。目の前の女がさも美味しそうにその肉を味わっている風景にもまた、非現実感しか感じられずにいた。
 その中で唯一、痛みばかりが異常なまでに鮮烈で。
「……やっぱり切り落としたのよりは、そのまま直に食った方が美味いよなァ」
「……ッ、ぃ……は……?」
 茫洋と零された女の呟きの意味を理解するのにも時間がかかる。痛みで頭が回らないからというだけでなく、理解することを脳が拒んでいた。
 それは即ち、既に断ち切られた腕の、その先の行方。
「まあアレはアレで美味かったけどよ。ごちそーさん」
「……な、に……いって――っ!」
 抱き締められていた身体が突き飛ばされ、柔らかいマットレスに沈む。その時初めて自分がベッドの上にいることに気付いた。
 依然自由にならない自分に馬乗りになった女は獰猛な笑みを顔に張り付け、指先まで残っている方の右腕を手に取った。
 自由にならない癖に感覚ばかりは鋭敏なそこに、濡れた柔らかさが触れる。指を唾液で浸し、場違いに卑猥な音を立てて舌を這わせる。愛撫のような優美な動作に、しかし呼び起されるのは不吉な予感以外の何物でもなかった。
 女の瞳を彩る狂気の色がその予感を裏付ける。生殺しの切迫感を胸に抱いたまま、逃れられぬその時を待つ。
「ッ……!」
 心の準備が出来ていた為か、無様な悲鳴を上げずには済んだ。それでも骨ごと小指を食い千切られた激痛はダイレクトに脳を駆け廻り掻き乱す。肉を噛む柔らかな音と骨に歯が当たる硬い音が耳を満たしていく。
 ぐちゃ、とか、がつ、とか。にちゃり、とか、こり、とか。そういう。
 BGMのように絶え間なく立てられるその音が、脳を浸食して麻痺させていく。かと言って鋭い疼きが薄れることもなく、侵されていくのは思考回路ばかりだ。
 希望を、活路を見出そうとする僅かな足掻きなど、端から塵芥にも等しいものだったけれど。
「……は、く……ッ! っつ、う……、……!」
 薬指、中指、人差し指、親指。
 鈍い刃で一本一本押し潰されるように指を切断されていく過程から、目を逸らすことが出来ない。
 押し殺した呻きが咽喉を鳴らす。強く食い縛った奥歯が圧迫される痛みを訴えていたがそんなものは明らかに瑣末だった。
 先程断面を食まれた左腕とは異なり止血されていない右腕の、かつて指の付け根であったそこから血が流れて掌を浸す。腕を伝い落ちる赤い液体を、同じく赤い舌が舐め取った。惜しむように。味わうように。
 殊更に音を立てながら腕に絡みつく舌の動きは、口淫にも似たそれだった。
「……ん、あー。でもコレ、アレかァ? このままだと死ぬよな、血ィ止めてねェもんな」
「………っ」
 血さえ止めていれば死なないとでも言わんばかりの口ぶりは的外れにも程があるものだったが、それを訂正する気力は残っていなかったし、訂正しようとしても聞き入れないだろうことは明らかだった。言葉が、通じない。そういう相手だった。
 そういう相手に、なってしまった。
「っく、ぅ――」
 肩口を細く丈夫な紐で縛り上げられる痛みは、断面を抉られる痛みとも指を噛み切られる痛みとも種類が違った。肌に食い込む、神経に訴えてくるぴりぴりとした痛み。何度も何度も、念入りに肩に紐を巻き付けて縛ると、女は指のない掌を取って頬を擦り寄せた。
 噛み切られた断面から噴き出る鮮血が恍惚に蕩ける女の顔を塗らす。舌舐めずりをした女は再び大口を開き、待ち兼ねた正餐にありつくように赤い肉塊に齧り付いた。



 窓のない殺風景な部屋。恐らくこのために用意された。
 置かれているのはベッドと、傍らに机。机の上には注射器や薬、止血帯やガーゼに紐、ハサミにメス、その他諸々。
 天井の隅にはカメラが設置してあって、常にこちらを監視している。悪趣味なことだがこの女は監視対象なのだ、仕方がない。とばっちりを食う身としてはたまったものではないが。
 天井の気味の悪い白さとか、ベッドひとつだけで占拠してしまうには不似合いの部屋の広さだとか、そういうものも既に全て、頭に収めてしまっている。
 それだけ長い時間をかけて、喰われていた。
「っ……ふ、うぁ……はぁ……あ、ぁ」
 音を立てて軋むベッドに合わせてだらしなく漏れる声を抑える意思など、とうの昔に失われていた。
 両腕は既に無い。肩口できつく止血処理を施されて、そのぎりぎりまでを食い千切られ赤と白の断面が露出していた。
 右足は太腿まで、左足は膝先までを食らわれている。もう少しで完全な達磨となるところだったが、そうなる前に女の興味は他へと逸れていた。
「……ん、ふァ……ッ! は、なァ、オイ、思ったより、いいもん持ってんじゃ、ねェか!?」
「ぐ、っ……あ、ぃっつ、う……!」
 小さくなった身体に跨り、屹立を咥え込んだ女はまた別の意味で餓えを満たしていた。貪る女の裸身が上下に揺れる度、ベッドが揺れる。身体が振れる度、振動が痛みとなって全身を苛む。
 受動的に上がる声に快楽の色はない。苦痛と無力に喘ぐその身体で、彼女を擦り上げるだけの硬さを持つ筈がない代物は――机の上に転がる注射器に収められていた薬によって無理矢理に力を与えられた、虚しいものだった。
 握り締める拳もばたつかせる足も、もう残されていなかった。耐えることも放棄して、ただ時をやり過ごすのみ。やり過ごしたところで、もうそこには何も存在していないけれど。
「何とか、言えよ、なァ!? もっとよォ、知性のある言葉ってヤツだよ、さっきから啼いてばっかいねェで――それはそれで、美味ェけどよッ!!」
「がっ! あ、く……ぅあ、はっ、――あ!」
 女が好き勝手に身体を弄ぶ。その振れる身体を、見た目だけを言えば美しいとも形容出来る容姿を、痛みに塗り潰された意識の上でどこか穏やかに観賞していた。
 痛みに漏れる自らの声も、苦痛に歪む自らの顔も、既に当たり前のこととして意識からは逸れる。発狂しそうな痛みばかりは排除できないけれど慣れの力は偉大だった。狂いながらも、ものを考える余裕を与えられる程度には。
 けれど肉体的にはそうもいかない。衝動的に開いた唇は、思った以上に上手く動いてくれない。
「……――ツ……リ、エ」
「っはァ!? 聞えねェ、よ、もっと、はっきり……――ッ!」
 女の声が途中で途切れた。鍛え上げられた豊満な身体がびくりと震えると大きく反れる、その曲線は柔らかで美しかった。もう一度女の身体が震えると、力が抜けたように横たわったままの自分へとしな垂れかかってくる。
 その重みは痛みしか生まないはずだった。
「……ツェ、――リエ……」
 鼻先に掛かる髪はぼさぼさで、血と腐肉の臭いがした。惜しげもなく晒された身体には傷跡が無数に刻まれている。狂ったような笑みに品は見られないし、その唇から紡がれるのは下卑た言葉ばかりだ。彼女によく似た色だった筈の瞳は、爛々と輝く金色に塗り替えられて。
 この女を彼女と形容していいのか、疑わしいことこの上なかった。面影はない。肉体という器に収められた人格も既に変わり果てたもので、それでも顔の造作だけは彼女と一致するのだ。
 造作が人を決めるなどということは、決してないだろうけど。
「……ツェツィーリエ」
 それでもこの名を呼んだのは、狂ってしまったからだろうか。
 女が身を起こした。血みどろの顔で、訝しげにこちらを覗き込む。その表情に心臓が跳ねた。
「――ツェ、」
「どうしたの?」
 跳ねた筈の心臓が、止まったと思った。
「あなたがそうやって私の名前を呼ぶときはいつだって何かを求めているときよね? 呼び方で分かるわ、そういう堪えたみたいな呼び方。分かりやすいのよ、あなた。分析しやすくて助かるけど。でもまあ、だからこそ一応、あなたの要望って聞いておきたいのよ」
 真摯にこちらを見つめる吸い込まれそうな瞳も、すらすらと紡がれる声も口調も、忘れ得なかったそれと相違なくて。
「ね、何して欲しいの? 教えてよ、ユーグ」
 既に当たり前の前提として存在していた痛みすら、忘れるほどの。
「……っ、あ」
 咽喉に絡むものが鬱陶しい。
 何か言わなければならなくて、何か伝えなければならなくて。
 けれど、滲む焦りが更に声を詰まらせる。
 もどかしい時間の中、不意に視界が歪んだ。
「――って、かァ?」
 違った。
 歪んだのは、女の顔だった。透明感すら感じさせる表情が、一瞬で狂った殺人鬼のそれへと塗り替えられる。
「は、はははははは、はははは! 何だよコレ何だよコレ、なんかいきなりぶってみたくなっちまったじゃねェか! 意ッ味分かんねェ、何なのお前? 何したんだよ、オイ?」
 高い哄笑、嘲笑う声。どちらも既に先程の静かな色を残しておらず、いっそ清々しいほどの。
「はは、気持ち悪ィ、はははは、ははははははは。何なのお前、面白ェけどうぜェ、一気にすげー目障りだ!」
 女が手を伸ばす。テーブルの上のメスを逆手に掴む、赤い断面を掴んでなりそこないの達磨をベッドに押さえこむ。
 そのまま振り上げた銀の刃を、真っ直ぐに振り下ろした。

 最期に見たものが、全てを捧ぐと誓った彼でも、心の奥底で愛した少女でもなく。
 かつて恋した女の姿でもなかったことが、どうしようもなく心残りだと、思った。


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