呼鈴を鳴らしたら返事がなくて、扉に手をかけたら鍵が開いていた。
扉を開けたら人間が寝ていた。
「………」
確認する。ここは玄関である。人の出入りする場所である。
どう間違っても、人が睡眠を摂るべき場所ではない。
「……全く」
俯せたスーツの背中は完全に弛緩しているが死んでいるわけではない。
僅か微かに上下する様子に、起きろ、と腕を掴んで引き上げれば、急な動きに付いてこられない首ががくりと傾く。
一筋、汗が垂れ落ちた。
掴んだ腕から伝わってくるのは、スーツ越しでも誤魔化しきれないほどの熱。
「起きろ」
二度声をかけ、しかし返答はない。
瞼は伏せられたまま、緩く開かれた口は酸素を求めて無音で喘ぐ。
押し殺されたように、息をしていた。
「………」
思い出されたものに対して、妙に腹が立つ。男の意識は戻らない。だらりと俯く顔は顰められたまま、瞳は伏せられたまま。また一筋、汗が。
起こすのも面倒になって、そのまま腕を引いて背中に担ぎ上げる。ぁ、と衝撃に小さく漏れた声、されど目覚めた様子はない。
力の入らない身体の重さが、妙に肩に伸し掛かった。
上着を剥がすと軽く武装を剥ぎ取り、ベッドに身体を放り込む。
横向きに転がった身体を仰向けて布団を重ねる。頬を伝う汗を指で拭ってやる。予想以上の熱さが皮膚に強く残った。
掌で額に触れる。
「………」
熱い。
人間とはかくも高熱を出せるものなのかとある意味感嘆した。
そもそも人間とは少し違うだの、火蜥蜴だのなんだのと言っていたか――あまり興味のないことだから聞き流していたし覚えてもいない。熱に汗にべたついた長い前髪を、軽く払ってやる。
「……ん」
鼻にかかったような声。むずがるように顔を背けて、顰められた顔に僅か安らいだような色が混ざった。
とりあえずこんなものか、と息をつく。看病人として為すべきは為した。
そもそも看病を頼まれているわけでもいない訳だからこれら全てはサービスだ。
であればもう良かろうと、最後にもう一度撫でてやったなら、
「……あつい」
譫言のように漏れる声も、縋る指先も酷く熱く。
めぐっている。めぐっている。
ぐるぐると行き場もなくまわって流れて、結局辿りつけなくて終着、留まって滞留して蝕まれる。
あつい。どこにもいけない熱が、どこにもいけないまま身体をめぐっている。
循環していく。積み重なっていくそれを吐き出そうにも、吐き出しても、嘲笑うように熱は温度をあげていく。
深く深くから沸き上がるあつさがだだっ子のようにあばれまわって、堆積してくばかりで、息がくるしい。
呼吸の仕方を忘れた喉が足掻き震えて開けども、欲しいものはまだまだ足りない。
いらないものが多すぎて、足りないものがありすぎて、指先はただ、そらを辿る。
辿った先に在るそれが、妙に懐かしいにおいがした。
掴まれたのだから仕方ないと言うことで片付けた。
存外甘い面があるものだと自らを鼻先で嘲笑う。サービスの時間は終了と、勝手に酒をせしめて来たが、恐らく対価としては吊り合わない。
ベッドの縁に背中を預けて、片手の酒瓶を呷り飲み干す。背後を振り返ると、依然苦しげに息を吐く男の姿が見える。
額の濡れタオルがずれ落ちそうだ。そろそろ換えてやるべき頃かもしれない。
下がらぬ熱をその前に、氷水の冷たさは酷く無力であった。冷めては温く。温くは熱く。
既に掌は投げ出されて、空を掻いては布団を掴む。
縋るように伸びる指先に応えてやる理由はない。
ただ、そばにいる。
あついあついと零すこの男の、そばにいる。
その呻きをBGMに呷る酒は、果たしてそう美味とは言えなかった。
元より米酒は好みではない。普段は甘味を好まない男の、酒ばかりは甘口を好むのも不可解だった。この味は、気に食わない。
断続的に耳を打つ掠れ声も然り。ひび割れた声で熱を訴えられたところでどうしようとも思えない。適当にタオルでも換えてやるかと振り返ると、
緩く薄く、ぼやけた瞳が目に映った。
「……起きたか」
焦点の合わない瞳が、静かに数度瞬かれる。当然依然と気怠げに、だらしなく開いた唇は鈍重な動きを見せるのみ。返答はない。
ただ見覚えのあるその動きに、この期に及んで聞き飽きたフレーズを紡がれるのも億劫で、タオルを掴んで立ち上がる。
不快な熱さが掌に馴染んだ。
「っ、あ」
聞こえた声は当然掠れたそれで、意味も形も為していない。
わざわざ拾ってやるのは後で良かろうと、先に流し台へと向かった。
氷は既に切れている。水道水に浸されたそれは、しかし熱冷ましには十分だ。清涼感に掌が喜ぶのがよく分かる。
ついでに冷蔵庫から清涼飲料水を取って戻ると、まだ意識は保たれているようだった。ねだるような目でこちらを見ている。
そんな目をされたところでくれてやるものは大してないのだが。
「ぁ……、ん……?」
「話すのは後にしろ。どうせろくに意味も為さん」
遮るように声をかけると、濡れタオルを額に載せてやる。
煮え滾った頭には心地好かろうと置いたそれを、同じく熱い掌が剥ぎ取った。
「……ん」
タオルを掴んだ指の隙間から、水が腕を伝いシャツを濡らす。ひたり浸されゆく感触が気持ち良いのかと思ったら、そのままタオルを落とされた。
ぼとり、ともびちゃり、とも形容し難い音に、床に水が跳ねる。
「……おい」
「んー……」
相変わらずまともな返答はない。話すのは後にしろと言ったのはこちらだが。ふう、と熱を孕んだ息をひとつ吐くと、そのままごろりと横に転がられる。
目が合う。
焦点は合わない。
全く、とひとつばかり息をつき、タオルを拾い上げて額に戻す。払い除けられる。
「おい」
今度は明確に咎める色を以て。その意図が伝わったのかどうか、目の前の眉が寄って、たどたどしく唇が動く。
「……いや、だ」
声音こそ弱々しいものの、はっきりとした拒絶。
その対象は言わずもがなだが、理由がどうにも不明瞭だ。
「何が」
「いやだ。……つめたい」
成程。不可解だ。
それだけ言ってごろり、顔を背けて横に転がった。
湿った赤髪が横に流れる。尖った耳の赤さが妙に鮮やかで、不思議と腹が立つ。
何より、
「……あつ、い」
この期に及んでそんな呻きを漏らしているのが、尚更に苛立ちを煽る。
そっぽを向く肩を掴んで無理矢理に仰向けてやる。再び視線が合い、緩く唇が不快感を訴えた。
「あつい……」
「当たり前だ」
だから頭から冷やしてやろうというのに。
とはいえ拒否されたのを無理強いするのも正直面倒で、濡れタオルはさておいて、と蓋を開けたペットボトルを差し出す。
とぽりとスポーツドリンクの液面が揺れる。
「飲め」
罅割れた呻き声は酒の肴には相応しくない。
単品では嫌いな声音ではないが、看病を理由に居座っている以上些か心地を悪くする要因になる。
ただそれだけのことで、看病人としての義務を果たそうとしたまでの話なのだが、それをまたこの男は。
物言わず駄々っ子のように、ゆるゆると首を振ってシンプルな拒否を。
「いらんのか」
「……ん」
力ない声。拒絶の肯定。
それでいてやはり吐息は苦しげに熱いのが業腹である。
何をまた不可解な意地を張っているのか、理解に苦しめられる。
全く、と嘆息するとペットボトルを呷った。アルコールに灼かれた粘膜が爽やかな清涼感に濯がれる快感。
熱に苛まれた喉にとっては、この上ない薬であろうに。
二度息を吐く。
「ぁ、つ……うー……」
朦朧とした声にそちらを見るが、濡れタオルを拒否、水分を拒否とされたなら私がすることは他にはない。ろくな看病も出来ないというか、拒否されてまでする甲斐がないというか。
それでもこちらを見る瞳は、恐らく何かを求めている。
……常日頃から思って吐いたが、随分と面倒臭い男であった。
「何だ。何が欲しい」
叶えてやる気もない要望を訊きつつ、手を伸ばす。放置していたもの。シーツを浸し始めていたタオル。
それを回収しようとした、その手を、手が掴む。
熱い。
私のそれより大きな掌が、長い指が絡んで、力なく頬元へと擦り寄せられる。奇妙な構図。
ざらりとした頬傷の感触と高熱。皮膚の下の煮え滾る灼熱。
そのひとつひとつが、この男には、妙に似つかわしくておかしい。
細められた瞳の揺らめく赤色が、掌にかかる吐息よりも、熱く、燃えている。
「……んん」
最早面妖な動物でも眺めている気分であった。
どうした、などと甲斐もなく、さも親切げに問いを投げるのも、いっそ観察の一環というか実験というか。
そういった行動に出たくなる程度には、目の前の高温動物の挙動は不審が過ぎた。最早興味を唆られるとでも言うべき次元である。
「……が、する」
「?」
「ちのにおいがする」
だから。
「……これ、きらいだ……」
などと宣いながら。
それでも安息を得るかのように。
頬を凭せて意識を落とすその様子を、笑い飛ばさずに済んだのだろう。
瞼を開けたら見慣れた天井で、いつもの通りの朝だった。
「………」
ただ、何か、酷く懐かしい夢を見た気がする。
それは遠い日の再現で、この歳になってまで望めることじゃないし望もうとも思わないけど、それでもいざ目の前にぶら下げられると、どうにもこうにも惜しくなるというか。
妙に感傷的になっている自分を訝しみつつも身体を起こそうとして、意識が眩む。
「……っ、?」
そのまま、ぽすん、とベッドに沈んだ。
「ああ、起きたか」
「―――!? っ、なん――げほ、ぇほっ」
隣からかかった声に驚愕するのと、張り付いた喉の渇きに咽るのとが数秒差。
こちらを驚かせた当の本人はというと、素知らぬ顔でペットボトルなど差し出したりして。
「だから飲めと言ったんだが」
だのなんだのぼやいているのと隣に、半分程残っていたスポーツ飲料を飲み干した。潤された喉が歓声を上げている。
身体全体に水分が染み渡っていくような感覚に浸されて脱力する。
一方でこちらの様子など知ったことかと、無遠慮に額に掌が触れた。硬い掌の感触は、けれどひんやりとしていて妙に心地が良い。
心地が良いのは、いいのだが。
「……いや、ていうか」
「よく声が出るものだな。……とは言え無理に喋るものでもなかろう。下がったとはいえまだ熱がある」
「……なんで、そんな、お前」
「一先ずは安静にしておけ。水も嫌がらなくなったようだしな。喋るのはその後でも――」
「――なんでお前、俺の服着てるんだよ!?」
しかもヒトのことは上着剥ぎとったまま放置しといて。
言い切ってから二度咳き込む。まるで喉が焼き付いたかのように言うことを聞いてくれなくて、でもなんというか、聞いておかなければならないことだと思った。いや不可解すぎるし。
そもそもなんでいるんですか、何してるんですか、いや状況的に看病してくれたんだろうけど色々おかしい気がする。あと背景に転がりまくってる酒瓶も見逃せない、ってそこに転がってる空瓶それなりに高価な代物なんですけど分かってますか?
勿論分かってないんだろうな、というのは悪怯れる様子がろくにない横顔から見て取れるのだが。
「血の匂いがすると言われてな」
「……は?」
「それで風呂を借りた。どれくらい落ちたもんだか分からんが」
元の服を着たら元の木阿弥だろう、とヒトの寝間着を引っ張りながら。別に全く袖が余るとか全然なさそうなのがなんか妙に哀しい。灰色のスウェットが泣いているように見える。
俺は泣いてません。
「誘うにしてももうちょっと上手いやり方があるだろうと思った」
「誘うとしたら相手を選ぶって。……え、ていうか、それ言ったの俺か、もしかして」
「看病人として病人のニーズには応えておくべきかと」
何を言っているんだ一体。
あと風呂貸すぶんには別にいいし服貸すのも単品ならそこまで気にしないんだが、もしかして下着まで借りてんじゃないのかとかは流石に怖くて聞けなかった。そこで何の気なしもなく頷かれたら色んな意味で立ち直れる気がしない。全く以て欠片もしない。
「……っていうか」
今、看病人って言った。
「仕事帰りに飲みにでも誘うつもりだったんだがな」
「……あー……えー……」
「親父殿には既に連絡してある。懐かしいもんだと笑い飛ばしていた」
「………」
閉口。
一応こいつは真っ当に看病らしきことをしてくれていたらしい。食って掛かって悪かったと思うのが半分、しかしいくらなんでもそれはないだろうと思うのが半分。
色々と諦観の念が湧いてくるのも今更か。溜息をついてベッドに身を沈める。汗で肌に張り付くワイシャツの感触がどうにも不快であるが、今更それを訴えるのも癪というか心臓に悪いというか。いや流石に脱いで寄越すような非常識じゃないだろうとは思ってるけど。
というか待て、少し待て。
「……水も嫌がらなくなったって何だ?」
何が怖いって結構記憶が飛んでいる。なんとなく夢を見てたような記憶しかなくて、その夢を見た理由を考えるのはなんか更に怖いというか危険な気がして追求を避けるけど、どうにもこいつに握らせたくない何かを握らせてしまったような気がしてならない。
「………。大したことでは」
「今の沈黙一体なんだ、そこでシラ切るか普通!?」
「熱に魘される速の様子を詳細に渡り報告してやった方がいいと言うのならそうするが」
「………」
なんか、それはそれで怖いので黙っておく。パンドラの箱って多分こういうもののことを言う。いや言い過ぎか。
妙に疲れたような気がして、顔を見るのも嫌になってきて、背中を向けて瞼を伏せる。熱の気怠さと疲労感に、少しずつ、意識を沈めていく。
穏やかな眠りの淵に、誘い込まれていくような感覚がして。
「それなりにいい見世物だった。次の酒の肴に良さそうだ」
一言で一気に打ち砕かれた。
「……お前は一体何を見た」
「大したことでは」
「でも酒の肴にはなるんだよな」
「そうだな」
「………」
「………」
「………」
「誠意次第で貴様との飲みに限ってやろう」
「……有り難き申し出」
その誠意ってつまりは奢れってことだよな、とまでは流石に口に出せず。
自分の背中側に広がる空瓶のことを思うと、どうにも頭も懐も痛む気がしてならなかった。
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