かりかり、かりかり、かりかりと。
例えるならば、子猫が戸を引っ掻き続けるような音。
薄暗い部屋の中、いつまでもいつまでも諦めず、ひたむきに金庫のナンバー錠を回し続ける音。
82360。開かない。
82361。開かない。
82362。開かない。
十万通りの組み合わせ。
その中に在るたったひとつの正答をただ総当たりに探し続ける。
82575。開かない。
82576。開かない。
82577。開かない。
金属の錠に触れ続け豆さえ出来た白い指の、厚くなった皮膚が数字を繰る。
ただひとつの、答えを求めて。
その数字が、間違っていますように。
この金庫を開けるのが、その数字でありませんように。
開かない。開かない。開かない。
扉は開かない。
がむしゃらに定められた数字では、扉は開かない。
94576。開かない。
94587。開かない。
94568。開かない。
開かない。
開かない。
開かない。
開かない。
開かない。
開かな――。
そうして辿り着いた正答の先。
あまりにもあっさりと開いた扉の中を、猫は覗き込む。
安堵と落胆の両方を胸に抱え込み、金庫の大きさには余りにも不似合いの、ごくごく小さなただひとつの宝物を、指先で拾い上げる。
愛された塊を、確かめるように瞳に映して。
そうして猫がなんと鳴いたか、聞いた者は一人もいない。
「ロジェ!」
買い物帰りの街道で呼び止められ、ロジェは振り返った。
「? どうかしたのか? ディアナ。オレ、昨日なんか忘れ物した?」
声だけで相手を特定するのは仕事柄。特に彼女は常連客で聞き間違う筈もない。
当の彼女、赤毛の妙齢の女はロジェの軽快さとは真逆に不機嫌な様子で。
「あんた、この街を出てくって本当?」
「ん? なんで?」
「いいから答えて」
詰め寄られて苦笑で躱す。
「まあ一応。だからディアナとは昨日が最後だったね」
「………」
機嫌の悪さは相変わらず、下から睨み上げられてロジェは肩を竦めた。
”こう”なることが分かっている相手だったから、あえて言わずに出ようと思っていたのだが。
「ご贔屓にしてくれててありがとな。金も結構溜まってきたし、まあそろそろ潮時かなって」
「……なんでよ」
「? っとと」
俯いた相手の、微かな呟きを聞き取れずに視線を合わせようと膝を屈めた――ところで、肩を捕まれさらに寄せられる。
「なんで出て行っちゃうの」
視線が近い。熱を孕んだ瞳を寄せられて、首に回された指先も頬に掛かる吐息も同じように近い。
なんとなく既視感を覚えて、それでも自分が返せるのは苦笑ばかりであった。
「ごめんな」
回された腕を掴んで拘束を解く。彼女の隣を摺り抜けると、背中を追ってきたのは縋るような声。
「そこまでして、何をしたいって言うのよ!」
ああこんな声を出していたのか。
「……夢をな」
足は止めないで振り返った。惜しむような表情は自分には勿体無い。ただ僅かの時を共にした相手に、あんないい女が向けていい顔では決してなかった。
だからせめて、自分もとびきりを返そうと。
それをせめての置き土産に、全てを消し去れたらよいと思った。
「夢を、叶えに行くんだ」
その馬鹿馬鹿しさまでは、伝えることができなかったけれど。
そうして出立する最後の最後に、あのひとに会いに行く。
「や」
返答がないのを良いことに、全てを勝手に捲し立てるだけ捲し立てる所存だ。
大丈夫だと、きっと分かってくれていると勝手な妄想で虚しさを埋めて、一方的に棄てていく。
「色々と言いたいことはある気がするんだけど整理しきれなくてさ。まあでも、これだけは言っとかないとと思って」
指先でそれを示して弄ぶ。にんまりと悪戯小僧のように笑って、ほら、と顕示するように差し出した。
「約束、破っちまった」
開けるなって言われてたのにな。
自分でも悪びれていない声だとよく分かった。元より反省などしていないから当たり前である。
ただ自分とその人を繋ぎ止める為に必死だった。だから、先は相手のほうが悪い。
「でもこれでやっとイーブンだよ」
先に約束を破ったのはそっちだろって、だからこそ悪いなんて少しも分かってない。
跪いて顔を近付けると、滑らかなそれに掌を這わせる。
自分の肌より冷たい温度が心地良い。
「……なぁ、本当にこれで」
顔を近付け囁きに声を潜める。
誰も聞いていないと分かっているけれど、だからこそ。
蜜言のように秘事のように、小さな小さな、甘やかな声を、
あなたにだけに、届けたいと。
「これで殺しに来てくれるんだろうな?」
そうして想いごと盗品を胸にしまいこんで、
ただ静かに、あなたに触れるだけの口付けを落とした。
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