歌えると思ったのだ。
潮気を孕んだ空気が喉を通るのも、静かで緩やかな波音が伴奏のように響くのも、吹き付ける海風の懐かしい心地よさも、全てそうするのに適した、そうすべきものだと自然に感じられたから。
全てがそうするものだと語りかけていたから。
「――、…………」
だから、口を開けて喉をひらいて、声が出なかったことをこそ疑問に思った。
それから思い出したのは、自分は歌などろくに歌ったことがなかったということだった。
船というものは思いの外よく揺れるものだった。ハンドレールに体重を預け、寄せては返す波を海面を眺めながら、クロニカは目を細めた。
海を吹く風は不思議な香りがする。潮風と言うらしい。要するに潮を含んだ風だ。言葉というものは存外わかりやすく出来ているものだと感心した。
潮風に吹かれていると、髪や肌がべたべたしたりぱりぱりしたりするのだとも聞いた。これからこの海と遺跡しかない場所で生きていくのだからなるべく早く慣れていきたいと思うがどうなることやら。
そう、テリメインと呼ばれる地域には、海と遺跡しかないのだそうだ。
その多くが未知で、人には知られぬ生き物や金銀財宝、万里を統べる魔法の存在、お伽話のようなそれぞれがまことしやかに語られる未開の地域。それがテリメインだということだった。
ずっとニールネイルの郷で暮らしてきたクロニカにとっては世界の全てが未知であったが、その中でも特別に深い”未知”には少し惹かれた。誰にも知られていないものを自分の目で発見することを考えると、幾らか心が浮き立つのを感じる。
恐らく、そう感じる心が、自由というものなのではないだろうかとも思う。
自由になりなさいと言われた。
クロニカは生き方を強制されてきたとも人生を拘束されてきたとも思っていない。自分には自分にできる仕事が、役割があった。それで役に立てるのならばそれでよかったし、自分にその能力が備わっているのだからそうすべきなのだとも考えていた。
役目を果たせなくなったからこうして郷を出てきたが、それをあまり気に病んでもいない。その能力を失ってしまったのだから仕方がない。自分に原因があるわけではないが、長く光明も見られなかったその問題の解決のために周囲に心を砕かせるのも忍びなく、であれば言われた通りに出ていくのが一番迷惑も面倒もない選択であった。
外の世界のことなど全く知らなかったから、その点では困ってしまったが。餓えることもあれば寝床を見つけられず雨の中夜を過ごすことも、ひどくすれば行き倒れることもあったが、今は雇い主を見つけてなんとかなっている。
クロニカの雇い主はディド=パシャという男で、まさに空腹で行き倒れていたクロニカを救ってくれたのが縁の始まりだった。
彼は野心家だった。どこか荒んだ目の奥に、強い野望を抱いている。クロニカは彼に付き従いながらそれを肌で感じていたし――同時に不思議にも思っていた。
なにを、何故、そんなに追い求めることがあるのだろう。
欲しいものがある。それは分かる。クロニカにもある。腹が空けば食べ物が欲しいと思うし、喉が渇けば飲み物が欲しい。眠くなれば寝床を求めるし、寒いのは嫌だから衣服や防寒具が必要だ。
そういった欲はクロニカにもある。ただ、彼を衝き動かすものは、もっともっと奥深くから、本能とは違う場所から、クロニカの知らない場所から湧き出ているように見えた。
その由縁はクロニカの肌ではとても悟り得ず――だから、面白いと思った。彼の行く先に、目指すところに興味を持った。知りたいと思った。
故にクロニカは彼の勧誘に乗った。一番の理由は彼が対価としてクロニカが生きるための糧を、金銭を提示してくれたからだが、それがなければ彼に雇用されることもなかっただろうが、それでも彼の生き方に心を惹かれたのは確かだった。
これが趣味と実益というやつなのかもしれない。
(……違うような気もする)
どちらにせよ、こうして生きられることが自由というやつなのだろうと自分の中でひとまずの結論をつけてみる。
どうにも煮え切らないこの感覚に、形のわからないものを追い求めることの難しさを再確認して、あれほどの強い渇求を抱く雇い主の凄まじさをも――
「……何をしている」
呼びかける声を聞く。思考を中断して振り返れば、そよぐ風に揺れるゆったりとした紫の衣、どこか洗練された立ち姿。反して刺々しい瞳の色。
クロニカの雇い主がそこにいた。
「ディド」
「……入会手続きが始まる。とっとと済ませてこい」
「入会手続き」
「……海底探索協会だ。こんなところで躓いたらクビにするからな」
「それは困る。前金も返せない」
ああいや、前金は返さなくていいから前金なんだったか。どちらにせよ困るは困るので、自分を見込んで雇ってくれた雇用主に報いるべく最低限の人並みの努力はしなくてはならなさそうだった。
努力。というのも、割と、耳慣れない響きだった。故郷で役目を果たすことに努力は必要なかった。ただそこにいれば、受け入れればいいだけで、自分から能動的に何かをするというようなことは殆どなかった。
だから、こうして自分で何かを掴み取りに行くことに、そうする権利としての自由に、クロニカはクロニカなりに心が浮き立っているのだ。自分はまだその味を知らないから。それがどれほど素晴らしいものであるのか期待をしてしまうから。
自由になりなさいと言われたのだ。
だから、そう言われるほどのものであるのだろう。
「聞いているのか。ぼうっとしてるんじゃねえ、さっさとしろ」
「ああ。……聞いている」
今、行く。
返事をして、足を踏み出す。