「あー……」
掠れたアルトが雑然とした事務所に響く。
灰色のソファに横たわって、気怠るそうに瞼を閉じているのは紬である。やや大きめで踵まで隠すトレーニングパンツに上はTシャツ一枚、という身体を締め付けない格好で、腹部にタオルケットをかけている。タオルケットは蒸し暑い中での精一杯の保温だった。
アスクとアイカは得意先との商談だし、サーシャは本を買いに行って不在である。要するに事務所を守るのは体調不良の紬ひとりであって、それは少々、いやかなり不用心だったかもしれなかった。
紬は小さな咳払いをした。痰が絡んで気持ち悪いしからからに乾いた喉は痛い、加えて下半身を苛む鈍痛に偏頭痛、しかも暑い。
ひどい暑がりの紬には夏は最悪の季節であった。生理痛には腹を温めろと言うが、その温もりすら鬱陶しく感じられる。
「……はぁ」
悩ましげにため息をついた紬は、鈍重そうにその上体を起こした。動かない身体をひきずるようにしてソファから立ち上がり、台所の水道台まで向かう。
その途中で引っかけたテーブルに積み上げられていた本が崩れ、床に散らばったが、紬は意にも介さない。シンクに凭れるようにしながら、水場に転がっているガラスのコップに水道水を注いで喉に流しこむ。
潤い、渇きから解放された喉奥から満足げな吐息が漏れた。
そのまま紬はコップを手放し、力が抜けたように台所に転がった。ひんやりとした床が火照った身体に心地よい。
このまま眠りについてしまいたい――紬がこの上ない誘惑にかられたときだった。
間の抜けた電子音が事務所内に響いて、紬は目が覚めたように瞬きをした。
今のは呼び鈴だ。商談を終えたアスクかアイカか、はたまたサーシャか。今日は三人とも、だいぶ遅くなるというふうに聞いていたと思ったが、予定が早まったのか。
アイカがいたら怒られそうで嫌だな、まだ大して身体を冷やしてはいないのに。
うだうだと考えを巡らしていた紬だったが、一向に開く様子のないドアに首を傾げた。サーシャが鍵でも忘れたか。
「……だれもいませんかー?」
再度鳴らされた呼び鈴、続いて窺うような男の声が紬の耳を打った。あれ、と意外そうに紬の眉が跳ねる。重い腰を上げてドアに向けて歩く。
「ソーニャ?」
中から鍵を外してドアを開くと、サーシャと同じハニーブロンドが目に飛びこんできた。吊り気味の目を軽く見開いて、ソーニャが口を開く。
「あれ、紬? サーシャは?」
「サーシャは買い物。帰りは遅くなるって」
「アスクさんとアイカさんは?」
「ふたりもいない。時間かかるらしいから、言伝てがあるなら預かるけど」
いや、別にいい、と首を振ってソーニャが上がりこむ。後ろ手にドアを閉めて荒れた事務所内を見回すと呆れたように眉根を寄せた。
少々大袈裟なくらいのため息。
「なんていうか……相変わらずだねぇ」
「たまにアイカが片付けはしてるけどね」
「それは大変だ、彼」
紬は壁に背中を預けて、ラフなシャツにジーンズのソーニャを眺めた。やれやれと肩を竦めた彼が視線に気付いて紬を見やる。
頭半個分上のアイスブルーの瞳が、紬の黒い瞳とかち合った。
怪訝そうにソーニャが目を眇める。
「どうかした?」
「いや。……むしろ、そっちがどうかしたの」
「オレ?」
うん、と紬が頷く。何か用があるんでしょ、と身体を壁にもたせたままソーニャに向けて首を傾ける。
「……そうだね」
その時のソーニャの顔を、紬はよく覚えていない。
気付いた時には肩を捕まれ、隣のソファに引き倒されていた。ソーニャの白い手が紬をソファに縫いとめる。
「……ソーニャっ?」
紬から見てソーニャの向こう側に天井があった。逆光でソーニャの表情は読み取れない。
ただ、横たわる紬の上にソーニャがいて、手首がソーニャに掴まれていて、ソーニャは黙っていて、それで――。
紬は呆然とソーニャを見上げた。ソーニャの手がTシャツを引き上げ、紬の日焼けしていない腹を撫で上げる。
「やっ、ソーニャ!? ちょっ」
手首は解放されていて、ソーニャはもう片方の手を紬の顔の横についていた。紬の身体を撫でる手は止まらず、少しずつ上を辿ってきている。
「ソーニャ! なにをっ――!」
ソーニャの手を紬が止めた。今度は紬がソーニャの手首を掴む形になる。
紬はソーニャを強く睨みあげた。怒りで上気した頬が赤い。怒鳴ろうとして紬が口を開いた。
その唇を、唇が塞ぐ。紬の目が見開かれて閉じた。背けようとした顔を固定され、覆い被されてもがく身体には力が入らない。まとわりついて離れない痛みが紬の動きを鈍らせていた。
ソーニャの唇が不意に離された。手の甲で口元の血を拭う。紬が噛みついたのだ。
紬の乱れた呼吸が、密着した胸越しにソーニャに伝わった。紬からは相変わらずソーニャの表情は窺えない。少しの身じろぎで強まる痛みに、彼の行動の不可解さに、確かに迫る危険に、それでも紬は身動きが取れなかった。
「ソーニャ……やめて」
力ない声。ソーニャは答えない。紬の両手首を彼女の頭の下でまとめあげると、床に転がっていたビニールテープで縛りあげた。抵抗しようと捩る身に激痛が走り、紬の動きが止まった。
歯噛みした紬の目に、放られて再度床に転がったビニールテープが映った。あれはサーシャが雑誌を縛るのに使っていたものだったと、逃避気味の頭が考えていた。
「ひっ」
胸を這う手の冷たさに、現実に引き戻される。豊かさとは無縁のそこにぬるりとした生温かさ、舌で舐めあげられて背筋が凍る。
紬はソーニャが嫌いではなかった。むしろ好きなほうだったし、サーシャの双子の兄弟ということで信頼していたと言ってもいい。
それでも、今こうして強いられる行為には――嫌悪感しか感じ得なかった。
ソーニャが執拗に胸を責め立てる。紬は唇を強く噛みしめた。ゆるく首を振って抵抗の意を示すが、それも力ないものだった。
眇められた紬の瞳から光が消えた。
ソーニャが軽く身体を起こして紬を見下ろす。そこで初めて、紬はソーニャの顔をまともに見た。
どうしようもなく無表情だった。興奮も焦りも、愉悦すら感じられないその顔に、紬は恐怖を感じた。どうしてこの人は、こんな顔で人を犯せるのだろう。
「……紬」
初めてソーニャが声を発した。戸惑いに眉を寄せる紬の身体にもう一度覆い被さり、耳元で愛を囁くようにして言う。
「つむぎ」
紬はきつく目を閉じて首を振った。そんな風に言うな。そんな顔して、そんな風に言うな。
なにを信じればいいのか分からなくなる。
紬は唇を強く噛みしめた。
「……お願いだよ。やめて」
これが最後のラインだった。お願いだからここで止めてくれ。まだここまでならなかったことにできるから。今までと同じように振る舞えるから。
なにもなかったかのように振る舞えるから。
「………」
しかし、彼は首を振った。ただ静かに手を伸ばす。その先は、
「! いやだ! や、やめっ」
怯えに紬の声が上擦った。大きく足をばたつかせて抵抗する彼女を押さえて、ソーニャの手はトレーニングパンツのゆるいウエストに潜り込んだ。身体の圧迫を嫌った結果だった。
潜り込んだ手がトレーニングパンツの中を這い回り、やがてその動きを止めた。紬が唇を噛んで俯く。縛られた両手を強く握りしめる。
「……道理で」
小さな呟きが聞こえた。何も言うな。もうやめて。お願いだから。嫌なんだ。紬は俯いて身体を強張らせたまま身じろぎひとつしなかった。
トレーニングパンツから引き抜かれたソーニャの細い指先に赤い血が付いていて、指は紬の腹部を這って紅の軌跡を残した。
ソーニャはそれを呆然としたように見つめていた。事務所に沈黙が降りる。目を閉じた紬には、その沈黙が永遠のように感じられて――このまま時が止まって欲しいと願った。
そして、その願いは叶わない。
「――うあっ」
生理用のショーツごと、トレーニングパンツを一気にずり下げられた。経血の独特の蒸れた匂いが鼻をつく。汚さないようにか、臀部の下には何回か折り畳まれたタオルケットが敷かれているようだった。
紬の握りしめられた手が、その指先が、爪が強く掌に食い込んだ。その痛みを紬は感じなかった。気付くこともなかった。
ベルトを外す金属音が聞こえて、紬はこれからを悟る。それを否定するように首を振る。目は頑なに閉じられたままで、ソーニャもそれを咎めなかった。
ぐいと脚を掴まれ、広げられる。血の伝う感覚がして、それにも増して鈍い痛みがあって、そのどちらもが今の紬には些末だった。彼女はもう何も考えられなくて、何も考えたくなかった。
何故ならば考えてしまうからだ。どうしてこんなことになってしまったのかを。
広げられたそこに、まだほとんど触れられていないそこに、なにか当てられたのが分かった。紬が息を止めて唇を噛みしめる。食い破られた唇から一筋、赤が顎を伝う。
ソーニャは無言だった。
「……っあ! いっ……や、うあ、あぁ!」
矯声からは程遠い、紬の喉から絞り出されたのは悲鳴だった。細い喉を反らせて紬が痛みに喘ぐ。
経血で濡れたそこに押し入られて、その苦痛は尋常ではなかった。痛みに身を捩る、それがまた新たな痛みを呼ぶ。
「く……は、んっ」
最後まで入られて、紬はソファに額を擦り付けた。その額に脂汗が浮かんでいた。
瞳は依然として開かない。
楔を打ち込まれて震える細い身体が、次の瞬間、強く揺さぶられた。
「や! やぁ、う、つっ……あ! あっ……」
打ち付けられるたび、紬が叫びを漏らす。がくがくと揺さぶられる身体、閉じた瞼の裏が真っ赤に染まる。
ぐちゃぐちゃと卑猥な水音が連続して響いた。タオルケットに血が飛んで、それはソファを汚すことはなかった。ソーニャの思惑通りに。紬が願う通りに。
長く揺さぶられていた紬の身体が、唐突にびくりとひときわ大きく震えた。
「――っ!」
声にならない悲鳴をあげて、吐き出された欲を受け止める。反らされた首ががくりと落ちた。
頑なに閉じられた瞳から、透明な涙が零れてソファを濡らした。
ソーニャは自分の服を整え終えて、気を失った彼女を見下ろした。だらりと力無く投げ出された手首には、痛々しい拘束の跡。
歓喜とか悦楽とか、そういうものとは無縁の気分だった。
彼女は自分のことが嫌ってはいなかったろうと思う。先ほどあっさり鍵を開けたのも、自分を信用してのことだったのだろう。
それらを、全て踏みにじった。
ソーニャは彼女が横たわるソファの隣に膝をついた。ぼろぼろの眠り姫が、ソーニャが汚し傷付けた眠り姫がそこにいた。
「……気持ちだけは、本当のつもりだったよ」
届かぬ言葉をソーニャは紡いだ。免罪符にもならぬ言葉、反吐が出るような言い訳じみた、彼女が聞いたなら、彼女をさらに追い込むような。
どうしてこんなことになってしまったのかを考える権利はソーニャにはなかった。
結局自分はどうしようもなく歪んでいて、彼女はその割を食っただけなのだ。そう考えることで自分の中でひとまずのけりをつける、この上なく醜いやり方で。
ソーニャは通信端末の電源を入れた。立ち上がり、最近登録したばかりの番号につなぐ。不審そうな声が聞こえた。
「マリアット――ねえ、お願いがあるんだ」
通信を切って、彼女を見下ろした。汚されても彼女は綺麗だった。手の届かぬ彼女のままだった。
目の端に涙が滲んでいる。彼女は半ばからずっと目を閉じたままだった、その端に涙が滲んでいた。
ソーニャは彼女の傍らに跪いた。これが最後と、彼女の涙を唇で拭う。
最も気持ちの込められたキスだった。
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