最初に目に入ったのは天井だった。
紬は目を瞬いた。ひどく厭な夢を見た気がする。
窓から射す西日が事務所をオレンジ色に染め上げていた。あれからかなり時間が経ったようだ。――あれから?
ぼやけた意識が一気に覚醒するのと同時に、紬は下腹部の不快な感覚に気付いた。全身がぎしぎしと軋むような痛みもあったが、それは紬にはほとんど感じられなかった。
痛む身体を叱咤して身を起こす――どろり、と、粘性のある液体が自身の中で蠢いた。
ざっと血の気が引くのがわかった。続いて、強い目眩に襲われる。
「――っ」
乾いた喉が空気を通し、びゅうと間の抜けた音を立てた。身体から力が抜けて、今にも倒れそうな気がした。
できることなら倒れてしまいたかった。このまま眠って、なにも考えたくない。
そう思う気持ちを押し込めて紬は立ち上がった。くずおれそうになる身体を無理矢理に支え、笑う膝を引きずってシャワールームに向かう。
ガラス戸を開け、タイルの床に転がり込む。座り込んだ体勢で精一杯腕を伸ばしてレバーを引き下げる。降り注ぐ水の冷たさに身体が跳ねたが、シャワーを温水に切り替えるためにもう一度腕を伸ばす気にはなれなかった。
それよりも大切なことがあった。
紬は蹂躙されたそこに手を伸ばした。震える指でそこを広げると、粘液が指をつたってタイルへと落ちた。
シャワーの水に流れゆく赤と白を目の端で捉えた瞬間、再びの目眩が紬を襲う。ユニットバスに肩を押しつけるようにしてギリギリに体勢を保ったが、目眩は止まらない。
「……うっ」
目眩に続けて来た嘔吐感に耐えられず、むせこむようにして吐き出す。食欲不振でろくに食べていなかった紬には吐くものすらなく、逆流した胃液が喉を灼いた。
それも同じように流され、排水口へと吸い込まれてゆく。
「はっ……あ、ぁ……」
荒い息に肩を上下させながら、冷えきった身体を持ち上げて、シャワーを止める。
ユニットバスに寄りかかった紬は、水を吸ったTシャツ一枚の姿で呆然と座り込んだ。鳥肌が立つほどに冷えきった身体のことも忘れるほどだった。
不意にバイクのエンジン音が耳に入り、紬の身体が跳ねた。
まずい。
紬はシャワールームを出た。Tシャツを脱ぎ捨て洗濯籠に放り込むと、バスタオルを手に取り大ざっぱに全身を拭く。
身体が鉛のように重く、ひどく痛んだが、頓着はしてられなかった。今誰かが帰ってきたら。アスクに、アイカに会ってしまったら。サーシャと、鉢合わせてしまったなら。
――何を言えばいいのか、まったくわからない。
紬は適当に選んだハーフパンツに上はタンクトップを被って、事務所のドアに手をかけた。逸る気持ちで外開きのドアを押し開け、街道に面した階段を駆け下りる。
その矢先、スカイブルーの瞳とかち合った。
「っ!?」
「うわっ!」
相手も飛び出してきた紬には驚いたようで、そのままふたりは衝突して階段を転がり落ちる。
正確には上から降りてきた紬が相手を地面へと押し倒した形で、相手にも紬を受け止めるくらいの度量はあったようだった。
「いってえ……あんた一体何なんですか、――!?」
紬の下敷きとなって後頭部を打ったユーグが、顔をしかめて小さく呻く。
苦情をたれながら紬の肩を掴み、彼女の身を起こしながら自らも起き上がる。その途中でユーグは絶句した。驚きに青い目が見開かれる。
紬の顔色は紙のような白さだった。髪は十分に乾いておらず肌に貼りつき、タンクトップを濡らしている。触れた肩は水に濡れて、ひどく冷えきっていた。
紬の目がユーグを捉え、びくりと震えた。
「さわるな!」
肩に触れた手を払いのけ、ユーグから離れて立ち上がる。怯えた目で彼を見つめ、一歩二歩と足が下がる。
あまり深い親交はなかったものの、それでも明らかに尋常でないと分かる紬の様子に、ユーグは言葉を失くした。
払いのけられた手に驚きはしたが、とりあえずは首を傾げるに留めてユーグは立ち上がった。高さのあまり変わらない目線が交差し、すぐに紬が目を逸らした。
「……別にいいですけどねオレは」
ぽつりとユーグが小さく呟いたのが紬にも聞こえた。コンクリートの事務所を仰ぎ見、ユーグが続ける。
「ローゼンブラット――ソーニャ・ローゼンブラットがいますよね? オレが用あるのそっちなんで……」
ユーグは知らずして最大の地雷を踏んでいた。
「……ソー、ニャ?」
そうですよ、と紬に視線を戻したユーグは、同時に彼女に飛びつかれて目を丸くする。
震える指先がユーグのシャツに絡んで握りしめた。紬はユーグに縋るようにして顔を俯けた。掠れた声で問いかける。
「ソーニャ、が……いるの?」
「? いないんですか? ――ちょっと!」
膝が折れ、紬はその場にしゃがみこむ。指先の震えは全身へと広がっていた。紬は身体を縮めるようにして自らを抱きしめた。
どうしても震えが止まらない。
「あんたおかしいですよ、あいつと何があったんですか!」
焦点の定まらない瞳を下から覗きこまれ、紬は身を竦ませる。顔を逸らして、紬はからからに渇いた喉から声を絞り出した。
「……ソー……ニャ、……は」
言葉が見つからない。
「ソーニャは――!」
ユーグが紬の手を取った。
その行為と伝わる手の温もりに、紬が驚いてユーグを見返す。ユーグの視線は紬の手首に注がれていた。
紅い痕が痛々しく刻まれた手首に。
「……あんた」
ユーグが紬の顔を見た。揺れる瞳が紬を射ぬく。紬は顔を逸らしたまま俯き、唇を噛みしめた。傷口が開き、血が顎をつたって地に弾けた。
「……いないんですね?」
ユーグにはそれで十分だったようだった。全てを諒解した様子でため息をつくと、紬の手を離して立ち上がった。座り込む紬を余所に通信端末を取り出し、操作しようと指を動かす。
その手に紬の手が伸びた。端末を奪わんとする手から、ユーグは腕を高く上げて逃れた。泡を食って叫ぶ。
「ちょ――何すっ」
「だめだ!」
耳を打った声の悲痛さに、思わずユーグは動きを止めた。その隙をついて紬が端末をもぎ取り、安堵に力が抜けて座りこむ。
「波多野!」
責めるユーグの声に首を振り、紬は奪った通信端末を胸に強く掻き抱いた。
「――アスクも、伊鶴さんも……っ」
サーシャにこれを知られてはならない。情報をもたらすであろうアスクとアイカにも。
そして、伊鶴に知られるわけにもいかなかった。彼女の前に今の自分を晒したくはない。――それはひいては、ソーニャに、
「……オレにどうしろっつーんです」
ユーグは困り果てたような、呆れ果てたような表情で紬を見下ろした。落ち着かなげに頬を掻く。
「言っときますけどね、オレ何もできませんよ。誰か呼んでどうにかするしかないんです。ここにあんた放置してもいいですけど、じきに誰か戻ってくるでしょう。今誰が戻ってきたっておかしくないんですから」
紬がぎくりとしてユーグを見上げる。縋るような瞳がこの上なく雄弁で、ユーグは返答に窮した。
くそ、とユーグは悪態をつき、しゃがみこんで紬に手を差し出した。
その一挙一動に紬は身体を震わしたが、頓着しない様子で口を開く。
「ウェンデルにも中原にも連絡しません。――これすら疑うんなら、オレはもう知りません」
切実な本音に、紬はおそるおそる端末を差し出した。ユーグがそれを取り、立ち上がって端末をいじる。
「――カトゥアール?」
やがて相手が出たようで、ユーグはそれを耳に当てた。憮然とした様子が明らかに見て取れる。
「――はい。いいから――……――はぁ!? あんた何言って――」
口元を手のひらで覆い、ひそめた声で話すため、紬にはよく聞き取れなかった。時折声のトーンが上がるが、それだけでは話はつかめない。
「――分かりました、分かりましたからちゃんと持ってきてくださ……」
口上の途中で通信を切られたようで、ユーグは思わずといった様子で目を眇めた。しばらく端末を睨みつけたのち、苦々しげに紬を振り返る。
「……オレの家に匿われるのは抵抗あります?」
精一杯言葉を選んだようだったが、それでも頓狂な提案だった。紬は何も返せずにユーグを見上げる、その顔がきつくしかめられた。
「だめならウェンデルの方へ。カルヴァンは事務所の他に家ありますし、転がりこめないこともないんじゃないですか」
ユーグは紬の返答を待った。やや高圧的な紋切り口調ではあったが、紬は覚悟を決めたように首を縦に振る。
ユーグは仏頂面をそのままに指を鳴らした。
「きまりだ」
シャワーの音をかすかに聞きながら、ユーグは手慰みに銃を弄んでいた。握り慣れた二挺が冷えた指にしっとりと馴染む感覚に、気持ちがだいぶ落ちついた。自分もそれなりに気が動転していたらしい。
ユーグは床に座ったまま、掃除したばかりの部屋を見回した。開け放たれた大きな窓、ベッドにクローゼット、小さな棚にテーブル。台所は広くはなく、気紛れにしか使われない冷蔵庫が決まり悪げに置かれている。
いまいち殺風景な部屋だったが、ユーグにはこれで十分だった。
沈みつつある夕日が窓から見える。吹き込む風に髪を揺らし、ユーグは掌の中で左の一挺をくるりと回して目を細めた。正直戸惑っていた。
何故紬を呼びこんでやったのか、その場に放置してもまったく構わなかったろうに。ユーグが紬の面倒を見る理由はどこにもなかったし、紬にもまたユーグを頼る理由はなかった。
それなのにこうして紬が自分の家にいることがソーニャの思惑通りな気がして、ユーグがそれが癪だった。だからと言って分別なく紬を放り出すほど子供ではなかったが。
軽い音がユーグを思索から引き上げた。シャワールームのドアの開く音だ、紬が上がったのか。ユーグは開きっぱなしの部屋の戸からそちらに軽く意識を向けた。腰に銃をしまう。
そのままベルトに吊り下げたポーチからピルケースを取り出し、赤い錠剤をひとつ口に含んで噛み砕く。ピルケースを戻して小さく息をついたとき、やや低めのアルトがユーグの耳を打った。
呼ばれている。
「どうかしました?」
ユーグは立って部屋を出た。シャワールームに隣接している洗面所のドアをノックする。
薄いドア越しに遠慮がちな声が返ってきた。
「……悪いけど、脱脂綿みたいなのないかな」
「脱脂綿?」
ユーグは眉を上げた。おずおずとした肯定が返ってくる、控えめな態度は紬らしくない。もっともユーグは、らしいだのらしくないだの言えるほど彼女をよく知ってはいないが――。
そこで思い当たった。ゴミ箱に放り込んだ、汚れたタオルケットが脳裏をよぎる。
「ちょっと待ってください」
軽く声をかけてから取って返す。まさかこんなところで役に立つとは思わなかった、戸棚をあさりながらそう思った。封の切られていないそれを取り出す。
ユーグは紬に声をかけた。
「開けますよ」
返事を待たずに薄くドアを開け、狭い隙間にそれを押し込む。
受けとった紬が戸惑いに声を漏らすのが聞こえた。
「マリアット、これ」
その戸惑いももっともだ。――ひとり暮らしの男の家に、生理用品があると考える人は少ないだろう。
「いいんです」
ユーグはドアを閉めて鬱々と答えた。どうせ。
「あの子がオレと暮らすようなこと、しばらくはないでしょうし」
その呟きには返答がなかった。小さな沈黙に続いて、ごめん、と謝罪の言葉。ユーグは黙ってドアから離れた。
目に入った、整えたばかりのベッドに飛び込みたくなった。明らかに余計を言ってしまった。紬が気にするとは思えなかったが、ユーグにとっては自分がボロを出してしまったような気分だった。乱されている。
ユーグはピルケースを取り出して赤い錠剤を眺めた。しばし逡巡したのち、もうひとつを呑み込む。
それと同時に呼び鈴が鳴った。
「マリアット? 持ってきたわよ、出てきなさい!」
続いて女の声。ユーグは眉根を寄せると、洗面所を通り過ぎて玄関へと向かい鍵を外した。外側に扉を開く。
「はい。どうも」
やや不機嫌そうなユーグの顔に、女は――リーリヤ・カトゥアールは、あら、と眉を上げた。明るいブラウンの髪が揺れる。
「なんか気分悪そうね。誰とやらかしたの?」
「いいからさっさと出してください」
紬と違う姦しさに反比例し、ユーグのテンションは下がっていた。過剰でない程度に着飾ったリーリヤの色彩が目に刺さる。
リーリヤはハイハイと相槌を打ってバッグを探った。もう一方の手はユーグに向けて突き出されている。ユーグはそこに紙幣を二枚握らせた。
「まいどあり」
リーリヤは唇で笑みを作った。柔らかそうなピンクの唇。ユーグは小さな紙包装を受け取ると扉に手をかけた。
「ありがとうございました」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
リーリヤが扉にしがみついてユーグを見上げる。好奇心に満ちた目、勝ち気な表情だった。
リーリヤは口を開いた。
「だから誰なの?」
ユーグの眉根がさらに寄る。
「あんたに教えると面倒だからさっさと行ってください。そもそもオレじゃなくて――」
背後でドアの開く音がして、ユーグの言葉を遮った。リーリヤが意外そうに目を丸くする。ユーグが目を眇めて振り返る。
「……あんたああいうのタイプだったかしら?」
呟くリーリヤを、紬が不思議そうな目で見つめた。シャワーを浴びて上気した頬、男物の青い寝間着に濡れた黒髪。
思っていたよりは寝間着のサイズは大きすぎなかったようだ。ユーグにとって癪なことに。
リーリヤは合点がいったように目を瞬かせた。
「あ、わかった! 彼女に自分の服着せるって一種のロマン――ってなにすんのよっ!」
いきなり退けられ玄関のドアを閉められたリーリヤの抗議を、ユーグは無視した。無言で鍵をかける。
錠が落ちる音でリーリヤも諦めたのか、それ以上は何も言わず、玄関前からは去っていったようだった。
ユーグは気が抜けてため息をついた。紬を振り返る。
「今のは」
「あー。気にしないでください、ただの女です」
心なしか頭痛がするような気がして、ユーグは紬に掌を振った。紬は納得いかない様子で首を傾けた。
その紬にユーグは紙包装を投げた。紬が受け取ってユーグを見る。
「アフターピルです。今すぐ二錠飲んで十二時間後にもう一回。もともと生理中ってあんま妊娠しないんですけどね」
紬は目を見開いて紙包装に視線を落とした。上気していた顔が色を失ってゆく。
いっぱいいっぱいまでそこまで気が回らなかったのか。
それを今の言葉で思い知らされたのか。
同時に、思い出してしまったのか。
「……あ」
紬がその場に膝をついた。震える身体を支えきれず、包装が床に落ちた。
俯けた表情はユーグからは窺えず、ユーグはその場で立ち尽くした。
内心で舌打ちする。比較的無表情だったからか、紬の心情を慮れなかった後悔。どうしてそこまでしてやらなきゃならないのかという苛立ち。その両方が忌々しかった。
「……早く飲んだ方が効きますよ」
ユーグは紬の横を通り過ぎざまそう声をかけた。紬の肩が大きく震える。ユーグはほとほと嫌になった。女の面倒さと自分自身に。
ユーグは先ほどまでいた寝室に入ると、台所の冷蔵庫に向かい、アルミパウチのゼリー飲料をふたつ取り出した。
冷蔵庫を閉めて腰を伸ばす。振り向くと紬と目が合った。立ち上がった紬は白い頬のままだが、震えは収まっていた。
「……ちょっと、眠ってもいいかな」
絞り出すような声だった。ユーグは瞬きをして確認する。
「薬は飲みました?」
「飲んだ」
「じゃ、どうぞ。ベッド使っても構いません」
素っ気なく言って紬に近づく。強張った身体にアルミパウチを差し出し、手に押し付けた。
「一応カロリーとっといた方がいいですよ」
紬は手の中のアルミパウチをまじまじと眺めた。
「……これ」
「まともなメシありませんし、食えないでしょう。副作用で戻すのも怖い」
ユーグはそれだけ言って部屋を出た。洗面所のドアを開けて中に入る。閉めたドアに背中をもたせてずるずると座りこんだ。
曇った鏡が目に入った。温く湿った空気がまとわりつくようだった。紬がシャワーを使っていたからだ。
ユーグはため息をついた。頭が痛んだ。ピルケースに手を伸ばしかけてやめた。その手を銃に持っていく。冷たい。頭が冷える。ぐちゃぐちゃだった思考回路が復活する。
どうしてあの女は男に犯された後で男の家に逃げ込めるのだろう。親しさで言えばソーニャの方が自分よりよほど上だ。
だからか。気の置けない相手からの仕打ちに動転しているのだろうか。手っ取り早く縋れそうなものに縋ったのか。それなら分かる気がした。
それでも、動転した上での行動はろくなことにならない。紬もユーグでなく他の男だったら分からなかった。
「……ローゼンブラット」
ユーグは嫌悪感そのままに呟いた。通信端末でのやり取りが蘇る。
『マリアット――ねえ、お願いがあるんだ』
「は?」
『お願い。詳しくは直接会ってからでさ、アスクさんとこ来てくんない?』
「ウェンデルの? なんですかあんた一体」
『報酬は言い値でいいから』
「……はあ」
『それじゃ。待ってる』
実際は待ってなどいなかった。
ソーニャの声は震えてなどおらず、むしろ気味が悪いほどに平淡な声だったような気がする。聞き流してしまったからはっきりとは覚えていないが。
ユーグは目を閉じて首を振った。ソーニャのことは胸糞悪い。そんなことは考えないに限る。
そう決めたユーグの耳を、唐突に響いた電子音が打った。通信端末だ。
画面の着信表示を見たユーグは、今度こそ音に出して舌打ちをした。
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