何事かまくし立てようとする相手の声を遮るようにしてユーグは通信を切り、端末を閉じた。そのまま電源を切ってしまう。
端末をしまった手でピルケースを取り出し、適当に何錠か口内に落とし入れる。喉の奥で噛み砕いて嚥下すると壁にもたれ、力が抜けたように座り込む。片手で顔を覆ってゆっくりと息を吐いた。
唐突にその顔が寝室の方を向いた。やたら煩わしげな動作で立ち上がりそちらへ向かい、ドアノブに手をかける。
殺風景な部屋にベッドが置かれており、そこで横たわっているのは紬だ。ユーグが寝室へ入って言っても瞳は開かず、目覚めそうには見られなかった。寝相の悪さからか、ずれた毛布が白い鎖骨を覗かせていた。
ユーグはベッドの横で止まり、紬を見降ろした。目覚めそうにない彼女にユーグは、
走る、走る。
走る、走る、走る。
「はっ、はあっ……!」
風を切り、纏わりつく熱気を払い、もつれる足を無理に進めて。
何を目指すのかも分からないまま、思考を遠く置き去りにして、ただひたすらに、前に向かってひた走る。
息を切らすソーニャの脳裏を埋め尽くすのは、愉しげに笑う通信端末越しの声。
『――ローゼンブラット? また何のつもりですか?』
「………」
『どんなツラしてんのか、わりと純粋に興味あるんですけどね。面白い顔してそうだ』
「……うるさいよ」
『結構なことです。じゃあ切りますね』
「! 待っ――」
『待ちません。煮え切らない男は鬱陶しいからさっさと要件話せっつってんです』
「………。様子は、どう?」
『それをアンタが訊くんですか』
「………」
『……まあ、そうですね。こうして大人しくしてるのを見ると、見る目も変わってくるといいますか』
「は?」
『いつも仕事邪魔されることの方が多かったので、そういう目で見る機会はなかったんですが……思ったより肌白いんですね』
「……おい」
『胸ないですけど。オレ意外と気にしない方だったんですかね、わりと大きいののが好きだと思ってたんですけどね』
「何……言ってるんだよ」
『オレも男ですし。アンタと同じだと思うと、なかなか反吐が出ますけどね』
「マリアット、お前――」
『彼女は今ベッドで寝てますよ。なかなかいい眺めです。アンタの気持ちも分かりますね』
「っ!」
『それじゃ。ちょっと、お楽しみタイムってことで』
嘲笑うような声色が、耳にこびりついて離れない。
味気ない外観の家だった。目に見えて老朽化していて、あまり快適ではなさそうな。大方適当な空き家を勝手に使っているのだろうが。
上がりきった息を整える間も惜しんで玄関のドアノブを捻ると、それは存外あっさりと開いた。用意したヘアピンは無駄になったようだった。不用心な。
開いたドアを押し開けて、まろぶようにして家に上がる。姿は見当たらない、声も音も、物音は何も聞こえない。どこにいるのか、わからない。
「くそっ!」
適当に目についたドアを開け放ち部屋を見回したが目に入ったのは閉じられた扉がひとつと、それとは対極に開け放たれた窓で、緩やかに揺れるカーテンは、何故か不吉な亡霊を連想させた。荒々しく扉を開く。力任せに蹴り飛ばす。
「――つむ、……!」
紬はベッドに座り込んでいた。男物のややサイズの大きい寝間着を着て、驚いたようにこちらを見ている。その姿を前にして、彼女を前にして、
一瞬にして、言葉を失った。
「……ソーニャ……?」
紬が小さな声を漏らす。その黒い瞳が揺れていた、そこに込められているのは驚きばかりではない。むしろそれは恐怖だ。怯えだ。恐慌だ。
それは自分に対するもので、その全ては自分の所為だ。
「……なん、で」
彼女の声は震えていた。
どうして自分はここに来た。それはマリアットが、紬がまた傷つけられるような――けれど、そもそもが傷つけたのは自分なのだ。どうして来られたのか。彼女が自分を見ることで、さらに傷つかないわけがないのに。
傷口を抉るだけのこの行いをどうして自分は許したのか。
この思考すら道徳ぶったような気持ち悪さに塗れていて、もう言い訳などなにひとつできはしないのに。
自分はどうして、
「思ったよりは面白いツラしてんじゃねーですか」
乾いた声とともに、視界が急激に回転する。
無理矢理に転がされたと気付いたときには頭を打っていて、揺らぐ思考はさらに撹拌された。頭に響くのが何なのかも分からず、悲鳴ひとつ漏らせなかった。
むしろその声すら彼女を怯えさせるのではないかと思うとそれが怖くて。
「のこのことまーよく来たもんです。面の皮が厚いと言いますか」
「……マリアット、どうして」
紬の声が遠く聞こえる。マリアットに向ける声は、自分に向けたそれとは違い、震えを一切感じさせることはなかった。信頼すら感じさせる声音だった。
「この男はオレがアンタに手ェ出すんじゃないかと心配で突っ走ってきたみたいですよ? 人のこと言えんのかって話ですけどね」
「………? ごめん、よく分からない」
「まあ、これはオレからの忠告と言いますか、アンタがどうなろうと知ったこっちゃないんですけどね」
相変わらず嫌味ったらしい口調だ。思考がまとまらない中で、ふっとそんなことを思った。
「男に手ひどい目に遭わされた後なんだから、もうちょっと男を疑ってみるくらいはした方がいいですよ」
寝室を出るユーグを呆然と見送り、紬はベッドに倒れ込んだ。身体に力が入らない。頭を疼痛が苛む。
「……なんで、なの」
なにがなんだか分からなかった。上がり切った息、それにも関らず血の気が引いた真っ青な顔。揺れる瞳、案ずるようなその色。思わず見返すと、避けるように逸らされた視線。
逃げ出しそうな、その表情。
「なんで、君がそんな顔をするの」
そんな顔をするくらいなら、そもそも来なければいい。走るのだって得意ではないだろう、あまり体力のある方ではないのだから。
心配で来たとマリアットが言った。どうして、何が心配だというのだ。自分を心配する必要などソーニャにはないのに。
どうして目は逸らされたのか。自分を見るのが忍びなかったのか。もう二度と、会わないつもりでいたのだろうか。
心配するくらいなら、罪悪感を感じるくらいなら、そもそもあのようなことをしなければよかったろうに。
「……馬鹿みたいだ」
小さく漏らされた言葉は、誰にも聞かれることなく虚空に消えた。
胸倉を掴んで力任せに引きずる。憎らしいことに背は自分より高いが、抵抗しない筋肉もついていない身体は楽に動いた。
家の外にまで引っ張り出したそれをひび割れたアスファルトに放り投げて転がし、倒れ込んだそいつの胸倉をもう一度引っ張り上げた。地に膝をついて顔を近づける。
「おーおー、惨めな顔ですこと」
答えはない。ただ澱んだ目で見返してくるだけで、先ほどの表情よりよほど面白みがない。さっきはもっと、抑えきれない顔をしていたのに。
「で? ほいほい波多野の前に顔出して、怯えさせた今の気分はどうです? どんな気分?」
「……お前、紬に手出してないだろうな」
挑発への返答は別方向からの質問だった。低く唸るような声を鼻先で笑い飛ばしてやる。
「アンタと一緒にすんなって話です。理由なく女性を傷つけるような最低な行為、オレには出来ませんからね」
目の前のソーニャの顔が歪んだ。
「あの女への恋慕など、理由にはなりませんよ?」
「そんなこと理由にするか!」
反射的に声を荒げてソーニャが叫ぶ。
挑みかかるようなその声に、ユーグはため息をついた。胸倉を掴む手に力を込めて、腕でソーニャを引き上げる。
絞め上げる前のぎりぎりの体勢でソーニャに問いかける。
「……本当に?」
「本当、だ」
「早すぎる否定は肯定だって言いますけど?」
「……どう答えれば納得するのさ」
うんざりしたようにソーニャが答えて、それがユーグの癇に障った。
「うるせえな、クズ野郎」
ぐいと喉元引き上げて、ソーニャを力任せに絞め上げた。苦痛を露わにするソーニャの顔すらも腹立たしく感じられた。
「……ッ!」
ソーニャの爪が絞め上げる掌に食い込む。ささやかな抵抗を見苦しく思った。
「何言われようと納得なんてするわけねえだろうが。強姦魔の言動に整合性求めるほど馬鹿じゃねーんだよ」
「……なん、だ――っ!」
反駁する声は手で封じた。ふっと軽くソーニャを引き上げ、思い切り力を込めて地面へ叩きつけた。仰向けに蹴り転がし、痛みに丸まる身体に腰を下ろす。
無様な姿を見降ろすのは、中々に気分のよいものだった。
「反論できるような立場だと思ってんのか?」
「………」
ソーニャの瞳が揺れた。一人前に動揺しているのが胸糞悪い。追い打ちのように言葉を紡ぐ。
「てめえがあの女をどう思ってたかなんてのは、傍から見てりゃ一目瞭然なんだよ」
「……だから、なんだって」
「自分のやったことの意味もわからねえのか」
叩きつけるようにして言葉を吐き出す。
そうだ、こいつのやったことは、
「あいつが何を言ったか知ってるか?」
「……知らないよ」
拗ねたような様子が滑稽だった。
「誰にも知らせるな――って、必死に言ってたんだよ。いい女だな」
目の前でソーニャが言葉を失う。ああ本当に最悪だ。何が最悪って、何もかもが。
「お前の妹にだけは知られたくないって様子だったぞ」
「―――っ」
サーシャ・ローゼンブラット。
ひたむきで、前向きで、芯の強い女。
この男と同じ経験をして、この男のような歪みを持たず。
一人の男を、恋い慕う女。
「お前がどういうつもりでコトに及んだなんてことには興味はねーんだよ。お前の行動がひとつの実証になった、それだけだ」
「……うるさい……」
「なあ――そうだろ?」
「歪んだ出自で、真っ当な恋なんてできたもんじゃねえんだってさ」
吐き出したそれは、自分の中にも強く響いた。
「……それは、ちがう」
「何が違う? なあ言ってみろよ、何が違うって言うんだよ! お前がそれを否定すんのか!?」
「サーシャはっ……違うだろ! オレだけだろ、こんなッ……全部オレだけの問題じゃないか!」
「あの女がそう思えると思うか!?」
言葉に詰まるソーニャを追いこむように言葉を放つ。
「時間がかかったんだろ、認めるまでにも! 乗り越えてッ――乗り越えられたかどうか、まだ完全には乗り越えられてねえだろうなぁ! 気兼ねする理由なんてそれ以外にないからな!」
「知ったような口を聞くな!」
「こっちの台詞だレイプ野郎!」
その事実だけで目の前のろくでなしを抑え込める。それは逃げでもなんでもない。
募る苛立たしさに息が詰まりそうだった。こいつらに関わるといいことがない。どうしてこんな気持ちにならなければならない。
「ああ――そうか」
ひどく冷えた声音がユーグの耳を突いた。
見降ろした先の男は、どこか白けたような顔でユーグを見上げていた。
「あんたは自分のことで怒ってるんだろ」
冷水を浴びせかけられて、ユーグの動きが止まる。口の中が貼り付いたようになって、うまく動かない。絞り出した声は今までとは打って変わった掠れ声だった。
「……自分の、ことって」
「サーシャのことは、そのまま自分に当てはまるんだろって言ったんだよ」
乗りかかられた圧倒的に不利な体勢で、それでもソーニャはユーグを嗤った。振り切ったような、冷めた表情で。余裕すら感じさせる様子で。
「同じ経験、したもんなぁ?」
暗い部屋、身体じゅうを這いずりまわる掌に下卑た声、絶え間なく響く機械の冷たい音。
不意に映し出されたその映像に、自分たちは、全く同じ反応を示したのだ。
「――ぐっ!」
沸騰した。目の前の顔を思い切り殴り付ける。握りしめた拳が痛い。手の甲から、掌から、違う爪痕が血を流す。
腫れた頬を歪ませて、ソーニャは勝ち誇るように笑った。
「っは……図星、じゃん」
「うるせえ」
「要するにあんただって認めたくないんだろ? 自分が立ち直れたって、あんな経験したって真っ当に生きてけるんだってさ」
「うるせえ……」
「銃握ってる時点で十二分に真っ当じゃないけどねぇ。それ以前にどう考えてもおかしいんだよ、あんな女の子に縋って生きるなんて」
「うるせえうるせえうるせえ!」
腰から銃を抜き放ち、ソーニャの額に突きつける。引き金にかけた指は震えていた。かたかたと、額と銃口が擦れて音を立てる。
ユーグは大きく首を振った。流れる汗を掌で拭うと、その代わりに血が頬を汚した。汗と混じり合った汚らしい色に吐き気がした。
「一緒にすんなっつってんだよ」
神経がかきむしられるような気分だった。知ったようなことを言うな。歪みに破綻した男に、自分のことを分かったような口をきかれる不快が脳を侵す。犯される以上のおぞましさに眩暈がする。
「オレは――幸せだ」
震える声で福音を紡いだ。
「あの人に救われて、あの子を守れて――意義を、見つけられて。幸せなんだよ、これ以上なんて一つもない」
これ以上など。望みなど、もう一つもない。ただこのまま彼女を守れればそれでいい。
だから、
「それこそ、茶番じゃないか。幸せなら、そんなふうに怒る理由は――」
「……ああ、お前は邪魔だな」
「……は?」
そうだ、邪魔だ。こんな男を彼女の傍には置いてはいけない。確かに中原女史につけば医者としてのノウハウを学べる、それは彼女の望むことだ。けれどこの男は邪魔だ。危険だ。
いつ彼女がその毒牙にかかるか分かったものじゃないから。
「邪魔だ」
銃把を握る手の震えはいつの間にか治まっていた。しっとりと掌に馴染む感触、ああ、心地がいい。
「……八つ当たりでオレを殺すって?」
「八つ当たりなんかじゃねーから安心しろ。そうだな、強いて言うなら――」
将来のための保険だ、と、そう呟いて引き金に力を込める。
「――待って!」
凛とした声がそれを止めた。
うそだろ。振り返ると、覚束ない足取りで駆ける一人の女が視界に飛び込む。
「紬……ッ!?」
「――何の、用ですか」
からからに乾いた喉から声を絞り出す。目の前の女は、自分の寝間着を来た女は、立ち止まると首を振った。悲痛な表情。こちらが悪いことをしたような。
「……殺さないで」
懇願された内容は予想通りのものであったし、想像だにしなかったことでもあった。どちらにせよ、信じられない。あり得ない。どうして。
それは自分だけでなく、下で転がっている男も同じようだった。見開いた瞳に血の気の失せた顔。
自分もあんな顔をしているのだろうか。それはないと信じたいが。
「別に、あんたのために殺すんじゃありません。ただ、この男が邪魔で――いつサラに危害を加えるかも分からない危険因子だから消すまでです」
精一杯の本音を、紬はそれでも首を振った。お願いだと懇願を重ねた。縋り付くような懇願。
こんな懇願を、自分は今日何度受けてきたのだろう。
「お願いだ。ソーニャを殺さないで、欲しい」
「紬……?」
ああもう黙れ。女の声は不快じゃない。けれどこの男の声は酷く不快だ。自分のものと同じ傷口を抉ることすら躊躇わないような下種のこの声が、いつ大切なものに危害を加えるか知れないものの声が。
憎らしいそれがひどく近く、愛おしいそれは今は遠く、その二つが近く在ることに耐えられない。
ユーグは紬から目を逸らした。ソーニャも見たくない。虚空に視線を彷徨わせたまま、ただ、問うた。
「……なんで、そんなことを、言うんです」
その男は、あんたを――続ける前に遮られた。
「友達なんだよ」
信じられないほどあっさり言ってのけた。少し前までは縋り付く声だったのに、今は割って入る強い声。これだから女は怖い。
視線を落とすと、間違いなく自分以上に動揺した顔が目に入って少し溜飲が下がった。愉快な気持ちにはとてもなれなかったが、それでもいい気味だ。こいつが苦しめば苦しむほどいい。嫌いな奴ってそんなもんだ。
「……友達、ね」
あっさり言ってのけた割には、面倒な言葉だ。自分からは関わりたくないような。ユーグはソーニャを見降ろしたまま、後ろの女に改めて尋ねた。
「じゃあ、友人として保証してくださいよ」
「何を?」
「この男が、サラを汚すようなことは絶対にないと」
返答の前に銃を抜いた。
「もしそのようなことがあったら――」
抜いた銃を突きつける。二挺拳銃の片方はソーニャに、もう片方は紬に。動揺したのは男の方で、女の方は至極穏やかだった。強かとも言う。
強かな女は、確固たる意志を込めて頷いた。
「うん。……いいよ」
忠告は完全に無駄だったのかもしれないと思った。いつか見せた揺らぎを全く見せない女に、忌々しさと輝かしさを同様に感じた。
それは自分とは縁遠いものだ。
「……聞いたな、ローゼンブラット」
紬に向けた銃だけを下ろし、立ち上がりながら無様に転がった男に吐き捨てた。なるべくなら会話したくない。けれどこいつがサラの近くにいる限りは、また会うことも言葉を交わすこともあるのだろう。汚らわしい。
「殺すぞ」
最後に念押しして顔を背ける。勝手にしろと吐き捨てて、二人に背を向けた。今はなるべく忘れたい。何にも触れたくなくて、何にも触れられたくなかった。
好ましいものに触れて汚すことも、唾棄すべきものに触れて汚れることも、自分は受け入れられそうになかった。
仰向けに転がっているソーニャを、紬はその場から見降ろした。
ソーニャは動かなかった。少しでも動くと、ぎりぎりの均衡を崩してしまいそうで怖かった。自分の全てが、彼女を傷つけるのだと思うと怖かった。
胸を占めるこの黒く粘ついた感情を、形にすることが出来なかった。
「……ソーニャ」
「………」
紬が自分を呼んでいる。なにか答えなくてはと必死に頭を回すが、散漫と浮かぶ言葉の奔流に呑まれそうになる。声を出さなくてはと口を開くが、乾ききった喉は風を通すのみだ。
けれど、黙っている権利も、自分にはない。
「ど、う……したの、紬」
「……ひどい声だね」
残酷なことを言うと思った。自分ごときが、彼女を残酷に思う筋合などありはしないのに。
自分以上に彼女に残酷な仕打ちをした者はいないのだから。
「……そうかな」
「うん。ひどい声だ」
紬は突っ立ったまま、ぎこちなく強張った顔で笑った。余所余所しいのとはまた違う、違和感を感じさせる顔。
その顔を見たくなくて、ソーニャは目を離さなかった。目を逸らしてはならないと思った。自分のしたことを、自分が一番痛い形で確認しなければならないと思った。
「……聞いても……いいかな」
「何を?」
無様に声が、身体が震える。醜悪な自分を嘲笑ってくれればいい。せめてそう願うけれど、彼女はそんなことはしないのだろうと、どこかで分かってしまっていた。
「なんで、あいつを止めたの?」
叩きつけるような声音で言葉が漏れた。爆発しそうな何かを押しとどめて、けれど冷静ではいられなかった。
ねえ、と震える声で繰り返す。
「なんで、助けたんだよ……あんな、君は……オレがあそこで死んで、それで解決するじゃんか……」
駄々っ子のようだと自分でも思った。
がくがくと身体が震えて、紬から顔を背けていた。紬の顔が見たくないからではなく、自分の顔を見て欲しくなくて、こんな顔を紬には見せてはならなかった。
もっと毅然としていなければならないはずなのだ。紬が心おきなく自分を憎んで、遠ざけて、嫌って、責めて、罵倒できるように。優しい人でもそれができるくらいに、冷血に。
それを全部ぶち壊しにした男はいまここにはいなかった。
「それで何が解決するんだか、本気で分からないよ」
紬の声が耳を打つ。この心地よい声を聞く資格など、自分にはない筈だ。それらすべてを捨てた筈だ。
捨てたつもりだったものがそこにあったからといって、手を伸ばすのは許されないことなのだ。
「……するだろ」
「しない。私の心は晴れないし、みんなが悲しむ」
「馬鹿……言うな」
「馬鹿はそっちだ」
そうだった。
「そんなふうに死なれたら、……私も悲しむ」
紬はそういう人間だった。
それすらも失念して、自分は紬の何を見て、あの時手を伸ばしたのだろう。
乱れた部屋も掌で触れた滑らかな感触も、必死の懇願も悲痛の表情も、何もかもがありありと脳裏に刻まれているのに、自分の思考だけが思い出せない。
だけどそれは、恐らくただの逃げに過ぎないのだ。
「……はは、は」
乾いた笑いが漏れた。自分は馬鹿だった。分かりきったことだったけれど、認識が甘かった。自分は、本当に馬鹿だった。
この女の身体だけ手に入れてもどうにもならないというのに。
「……私は、君からの仕打ちを忘れないよ」
その言葉にはショックは受けなかった。それくらいの器は自分に備わっていたようで、これ以上不甲斐なさを晒さずに済んで安心した。静かに頷く。
「……うん」
「君からされたことは本当に嫌だった。はっきり言って不快だった。正直思い出したくもない」
ショックは受けなかったが、胸には刺さった言葉だった。
同時に自分の愚かさと覚悟の足りなさに嫌気がさす。何が安心だ。どれだけ思い上がれば気が済むんだ。
「けど、忘れない」
紬が繰り返す。言い聞かせるようにして、噛みしめるようにして。
それはもしかしたら紬自身にも言い聞かせていたのかもしれなかった。付けられたばかりの傷跡を、傷つけた人間の目の前で直視するほどの強さが彼女にはあって、それがひどく眩しくて、
ひどく、魅力的だった。
「許すわけじゃない。許さないわけじゃない。許すとか許さないとかは、まだ私には決められない。――だから、忘れない」
忘れない。
忘れない。
忘れない。
それは自分こそが繰り返さなければならないことだった。忘れない。絶対に忘れない。過ちを繰り返さぬために、自分の所業から目を逸らさぬために。自分を戒めるために。
目の前のひとの強さに、少しでも近づくために。
それはおこがましい考えだけど、決して捨ててはならない考えでもあった。
事務所に戻ると、朝焼けに輝く金色が目を刺した。色素の薄い金糸がきらきら光って、ああ綺麗だなと純粋に思う。自分の髪は真っ黒だから、そんなふうにはならないのが少し残念だった。
「ただいま」
ソファに寄りかかって眠るサーシャに声をかける。いなくなって心配をかけてしまったのだろうか、昨日出たままの服のサーシャは、自分を待つうちに眠ってしまったようだった。少し申し訳なく思う。
タオルケットを取ってきて、寝息を立てるサーシャの上に広げる。少し暑いかもしれないけれど、眠ってる間に身体を冷やすのはよくないとこれはアイカの弁だった。自分としては反駁したいところだらけの主張だったが、なるほど確かに、実際に何もなしに眠っているのを見ると心配になる。
「……さて」
マリアットから渡された錠剤を片手に流し台に向かう。コップに組んだ水で錠剤を飲み下す。
これで大丈夫なはずだ。多分。もともと時期的には危険じゃないし。
「よしっ」
大丈夫。大丈夫だと頷いて、コップに残った水を飲み下した。まだ喉の渇きが癒えず、もう一度水を汲む。コップの淵に口付けようとして、
後ろから抱きすくめられて、手から落ちたコップが流し台に転がった。
「……ごめんなさい」
一瞬だけ凍りついた身体を、か細い声が溶かし動かした。
「サーシャ……?」
「……ごめんなさい。……抱きしめても、よかったのかしら」
「……サーシャ」
背中越しに柔らかな感触、暖かく包み込まれるような感覚。夏の暑い時期だったけれど、この暖かさは全く不快ではなかった。
抱きしめられることは怖くなくて、むしろ怖いのは抱きしめられないことだった。
温もりも鼓動も感じられない、無機質な距離がこそ恐ろしかった。
「ごめんなさい。……め、なさッ……」
繰り返される声は震えていた。紬は自分の手をサーシャの手と重ねて、瞳を閉じた。
あたたかい。
「大丈夫。……大丈夫だよ、サーシャ」
小さく震える身体が、か細く揺れる声が、まるで子供のように思えて、紬はただひたすらに言葉を繰り返した。
「サーシャが謝ることなんて、なんにもないから。……私は、大丈夫。大丈夫なんだ」
繰り返し紡ぐ言葉に、言い聞かせる言葉に、自然と紬はそう思えた。大丈夫だと。このあたたかさがあれば。こうやって、生きていければ。
「……つむ、ぎ……」
「大丈夫だから、ほら」
紬は首を回してサーシャを振り返った。流れる涙を拭って笑った。
「ね――泣かないで?」
彼女を泣かせた原因となった二人の男に、心のうちで文句を零しながら。
(10/06/29)
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