十一日目
広くて明るい部屋、ふかふかのベッド、のりの効いた、肌触りの良い寝巻き。
その何もがスラム育ちのリーにとってはあまりにも馴染みがなく、快適であるはずなのにまったく落ち着けそうになかった。布団を被って瞼を閉じる。そうしてもいい匂いと柔らかく軽い感触が、やはりリーを落ち着かせてはくれない。
この屋敷の主はカークライトとかいう金持ちらしい。本来リーとは全く無縁の存在だったが、その一室にこうして寝かされることになったのは、全く奇妙な縁であると言ってよかった。
――いや。縁ですらない。ただ拾われただけで、それは縁というよりは本当にただの偶然でしかない。偶然と、運と、気まぐれと。
「おーきーてーるー?」
こつこつと小さなノックの音、続いて聞こえた大きな声。
その主が誰かなど分かりきったことだった。
返事はしない。それを構わないことも知っていた。遠慮なく開かれた扉、近づく軽い足音、声は変わらず明るい調子で、
「おはよ、リー。ちょうしはどう?」
などと声を掛けてくるから、無視をするのも忍びなくなってきてしまう。
布団の下から顔を出す。にこりともせずに視線を合わすと、いったい何が嬉しいやら彼女は表情を綻ばせた。
腕を折られ、熱を出して運び込まれたリーが起き上がれるようになる前から、メリスはしきりにこの部屋を訪れる。
リーを拾ったのはメリスだった。
商店街の片隅で野垂れ死にそうになっていたのだ。それもただ空腹の為だけではなく、食い逃げに失敗して折檻を受けた後だった。
家に帰っても食べ物などなかった。妹はいなくなったし、継父――自分にも彼にも、そのつもりはなかったろうが――もいつの間にか帰って来なくなった。それを幸いに母は気紛れに男を連れ込んで自分のことなど顧みもしない。それを期待することは、とうの昔にやめていたが。
だからリーがこうして帰らなくとも別に心配もしていないのだろう。気付いているかすら怪しい。
そういう家庭にリーは育った。
そういう家庭で、自分を案じ頼ってくれる妹だけがただ一つの救いだった。
「あ、ちょっとげんきになった? ……きょうはね、クッキーもってきたのよ。チョコのやつ!」
弾むような声で続けたメリスは、菓子の入った袋を見せびらかすとリーの方へ近づいてきた。椅子に座ってから一枚を取り出し、相変わらず喜色満面にリーへと差し出す。
「はい、リーのぶん!」
甘い匂いが鼻をつく。
菓子など久しぶりに見たと思うと拒む気にはならなかった。それでもなんだかがっつくことは気恥ずかしくて、受け取ったクッキーを暫く手持ち無沙汰に眺めてみせてから、ぱくりと一口齧りつく。
嗅覚を裏切らないやさしい味がした。食べ進める。
メリスも自分の分を美味しそうに食べている。その横顔を見ていると、
「……お前、よく俺のとこなんかに来るよな」
無意識に、疑問が漏れていた。
他にすることはないのだろうか。金持ちの娘というのはそういうものか。自分も、何も仕事を押し付けられることなくぼうっとするしかすることがないから、彼女も同じなのだろうか。
メリスは呆けたような顔で、きちゃだめなの、と不思議そうに。
「わたし、リーといっぱいいっぱいおはなししたいのに」
「別に、そうじゃねぇけど。……他にやることねぇのかって聞いてんだよ」
「いまいちばんやりたいことは、リーとおはなしすることだからいーの」
上機嫌に二枚目を差し出されて受け取るが、あまり納得はいかなかった。
変なやつ。呟く。柔らかいクッキーの崩れた滓がベッドに落ちて、それが惜しくて拾い上げた。指と一緒に舐める。
甘い甘い味がする。
「面白いことなんかなんもねぇだろ、別に」
「そんなことないもん、リーはおもしろいわ。ほら」
小さな手が伸びて、リーの口の端を浚っていった。
したり顔にメリスが笑う。
「おべんと、つけてたりする」
無邪気な笑顔。柔らかな声音。
やはりどうにも落ち着かなくて、無造作に口を袖で拭った。余計に崩れて服を汚した。
「……悪かったな、品がなくて」
「ううん。そゆとこ、いいなって」