十一日目
「メリス。僕は今日もまた病院で、父上も母上も居ないけれど、いい子にしていられる?」
「うん、だいじょうぶよお兄さま!」
「その様子だとまた会いに行くのかな、彼に」
「そう! あのね、さいきんおはなししてくれるようになったの」
嬉しそうに手を合わせて微笑む妹の頭をそっと撫でる。
屋敷ではあまり快く思われていない彼を、けれどこの子だけは好意を寄せていた。
その事実を嬉しく思うと同時に、それでも不安がどうしても胸を過る。
彼女は優しい。でも世界というのは、彼女が思う優しさだけでは出来ていない。
「クッキーをあげる。さっきメイドが持ってきたんだ。彼と分けて食べるといい」
「ほんと? ありがとう、お兄さま!」
けれどその事実を伝えることが出来ないのは、穢れの無い純真な眼が曇ってしまうのが怖いから。
穢れ無きまま生きていくことなどこの世界では出来ないのに、それでも彼女にそうであってほしいと愚かにも願ってしまうからだ。
*
「あ、ちょっとげんきになった?」
「どこが元気に見えるんだよ……」
顔色はまだ悪いけれど、あの日に比べればずっと元気になったリーの姿に嬉しさがこみ上げてくる。
『――ばかじゃないわ! ほうっておいたらしんじゃうわ! そんなのだめよ、ぜったいだめ!』
お父さまに駄々をこねたのはあの日が初めてだった。お父さまがうんって言ってくれるまで私は絶対動かないって決めた。
困らせてしまったとは思う。でも後悔はしていない。
むっすりしながら、でも布団から顔を出して私と話そうとしてくれる彼を見て、後悔なんてどうやったら出来るだろう。
「きょうはね、クッキーもってきたのよ。チョコのやつ!」
じゃーんと先程お兄さまから貰った袋を彼に見せた。それからベッドの傍の椅子によじ登って、一枚を彼に差し出す。
視線を逸らしていた彼は、けれどクッキーを見れば何も言わずに受け取って、じっと眺めてからもそもそと食べてくれた。
断られなかったことに安堵しながら私も一口クッキーを齧る。甘いものは好きだ。口の中に広がるチョコの味に、顔がどうしても綻んでしまう。
「……お前、よく俺のとこなんかに来るよな」
「きちゃだめなの? わたし、リーといっぱいいっぱいおはなししたいのに」
「別に、そうじゃねぇけど。……他にやることねぇのかって聞いてんだよ」
おかしなことを聞くものだ。私は彼に会いたくて此処に居て、彼とお話がしたくて此処に居て、それだけなのに。
それだけなのだから、私の他なんて彼がわざわざ気にしなくてもいいのになあって、それに。
「いまいちばんやりたいことは、リーとおはなしすることだからいーの」
一枚目のクッキーを食べ終わった彼に、そう言って二枚目を差し出した。
「……。変なやつ」
彼はそんなことを言いながらでもちゃんと二枚目を受け取って、一枚目と同じように齧る。すればぼろりと崩れた欠片が布団を汚して、彼はそれも拾い上げて舐めるように食べた。
「面白いことなんかなんもねぇだろ、別に」
「そんなことないもん、リーはおもしろいわ。ほら、」
布団に落ちた欠片には気付きながら、口の端についているそれには気付かない彼の姿。
なんだかどこか可愛らしくも見えて、手を伸ばして摘んでみせた。
「おべんと、つけてたりする」
「…………」
指摘すれば彼はまたむっすりと黙りこんで。それからごしごしと袖で口元を拭った。
「……悪かったな、品がなくて」
「ううん。そゆとこ、いいなって」
布団にクッキーを零すことも、袖でそうやって口元を拭うことも、お母さまやお父さまが居れば怒られることだろうけれど、私はそんなことで怒ったりなんかしない。
彼が彼らしく私と一緒に居て、こうやってクッキーを一緒に食べてくれること。
一人で自由に外に出れない身としては、そんな他人との関わりがただただ嬉しいから。
「クッキー、おいしかった? まだたべれる?」
摘み上げて指についたおべんとを舐めてから、もう片方の手で三枚目のクッキーを彼に差し出した。
「……。食う」
「うん、どーぞ。いっぱいたべてね? わたしのぶんだってあげるから!」
「……メリスはメリスのぶん食えよ。飯、喰わせて貰ってるし、お前のぶんまでは別にいい」
「じゃあわたしがおなかいっぱいになったら、リーのぶんね」
いつか元気になれば、リーは此処を出て行ってしまうだろう。
それは嬉しいことで、でもきっと寂しいことだ。
だからせめてリーが私のこと、忘れないでいてくれるように。
クッキーを一緒に食べた女の子が居たなって何年か先でも思い出してくれるように。
「やっぱりおなか、もういっぱいだわ」
残った最後の一枚を、私は笑って彼に差し出した。