十四日目

 怖がってなどいられないと気づいたのはすぐだった。
 扉を開ける。視界に飛び込んできたのは床に伏せられた彼の姿。瞬間昂ぶりそうになった感情を抑えつけて、お父さまを呼ぶ。

「……おとう、さま」
「おや、メリス。帰ってきていたのか」

 言葉に頷きだけを返した。
 本来ならば喜んであの胸に飛び込んでいたのだろうけれど、そんな余裕は今この場に存在しない。

「その、お父さま。……この人をどうするつもりなの」
「さて、彼がどうしていかは私には分からないが、……まあ、そうだな。少なくとも、もう用はないな」

 肩を竦めてお父さまは笑みを漏らした。その姿に違和感を感じつつも、ほっと安堵の息が漏れる。
 彼をこれ以上此処に居させてはならない。頭の悪い私でも、それぐらいは理解出来ていた。
 
「なら、彼を放して大人しく帰させてあげてほしい、のだけど」
「……ああ。メリス、君はこの男に世話になっていたんだったか」

 早く、早くこの人との会話を切り上げて、彼を。

「そして、この男が何をしにこの家に訪れたのかも知らないのだね」

 そんな私の焦燥を見抜いているかのように投げかけられてきた言葉。
 反射的に肩が揺れる。視線も逸れる。頭を垂れ動かないままの彼を見下ろした。

「……彼は、何をしにこの屋敷に訪れたの?」
「彼は私たちを脅しに来たのだよ。この家が人身売買に手を染めていた、と。それが露呈したらどうなるか――とね」 
「……そう。でも、先ほどもう彼に用はないと、お父さまは言ったわよね。……ならその話はもう、解決したのでしょう?」
「そうだね。これから解決する」
「これからって、……どうやって」

 感情的になってはいけない。お父さまを納得させて彼を離さなければならない。子供のように駄々を捏ねるのではだめだ。
 どうにかして抑圧しようとしていた心が、その一言に酷く揺さぶられた。

「箱入りが過ぎるぜ、カークライトさんよ」

 分からない。分かりたくない。けれどこんな時ばかり彼は口を開いて。

「死人に口無し、って知ってるか?」
「――ッだめ、」

 突き付けるのだ、現実を。

「――お願い、お願いお父さま! 何もしないで彼を放してあげて! お願いだから、何も……っ!!」

 気付けばお父さまに縋ってその服をきつく握り絞めていた。抑えつけていた全てが意味を為さない。
 何も変わらない。あの日、彼を助けようと泣いて喚いた子供の私のまま。

「……メリス。お前は自分が言っていることを分かっているのかね?」
「分かってるわ! 彼を見逃せばこの家がどうなるかわからないことぐらい! でもっ、でも、此処で彼を殺してしまうなんてあんまりよ!? だって彼はただ――!」

 ただ、自分の妹を助けたかっただけなのに。
 必死に喉から絞り出した声は、けれど無情な言葉にあっさりと斬り捨てられた。
 
「この家に乗り込んできたのはまた別の話だよ。死んだ人間を助けることなんてできるはずがないじゃないか」
「それにメリス」
「彼の妹はお前の代わりに死んだのだよ」

「……ぁ」

 つまりお前に何かを言う資格はないのだと、そう告げるように。
 力を無くした掌は縋りつくことも出来ないで、重力に従って下へと落ちる。

「メリス。もういい。あんまみっともねぇ真似すんな」

 自然俯かせていた顔を、投げかけられた言葉に彼の方へと向けた。

「……でも、リー」
「お前が止めることじゃねえんだよ。……大好きなお兄さまのトコにでも行って来い」

 嫌だ、そんな未来は嫌だ。首を必死で横に振る。
 それでも、それでも彼は瞼を伏せて。

「――もう、疲れた」

 たった一言、そう口にした。




 ばかだ、私。
 気付かなかった。

 彼はきっと、妹を見つけるためだけに今日までを生きてきた。
 必死でお金を溜めて、戦場で足を失って、それでも尚傭兵として働いた。
 簡単に生き抜いていけはしない世界を、一人の少女の背中を追い求めて歩いたのだ。
 口にすれば淡々とした事実の中にどれだけの苦しみがあったのだろう。

 そして、漸く辿り着いた先に転がっていたのは残酷な真実。

 考えてみればすぐに理解出来た筈だ。
 その絶望がどれほどのものなのか。




「……リーの気持ち、わかったわ」

 呟いて、数歩だけ後ろに下がる。
 ベルトに提げたホルスターに右手をかけ、拳銃を引き抜いた。

 脳裏に過る様々な思い出を断ち切り、意を決して銃口を向ける。




「――でも、その願いは聞けない」

 自身の父へと。

「おや。悪いことを覚えたね。それも教わったのかな」
「撃ち方は教わったけれど、向けたのは私の意志よ、お父さま」 

 情けないことに手は震えていたが、この距離ならば照準を誤ることはない。
 せめて声だけは震えないようにと努めながら、相手をじっと睨み付けた。

「……彼を逃して。じゃなきゃ撃つわ」
「やれやれ、困った娘だ」

 肩を竦めたお父さまの目配せにより、彼を拘束していた警備員がその手を離す。
 向けた銃口は降ろさないで、項垂れたまま動かない彼を見下ろした。
 
「我儘、口にするのはこれで最後にするわ。だから、ねえリー」

 寂しいから一緒に寝てほしいだとか、汚い部屋を掃除させろだとか、もう言わない。
 この言葉で、全部最後にするから。

「――生きて」

 貴方だけは、どうか。

 酷い我儘だ。押し付けがましいにも程がある。
 今の彼にとって死ぬことが一番の救いなんだと分かっていて、でも私は。
 
「…………」
「……リー?」

 返事はない。ただ彼はふらりと立ち上がり、覚束ない足取りでこちらへとやってきて。

「……おまえ」

 手を、伸ばす。

「馬鹿だなあ――」

 もぎ取られ奪われた拳銃。銃口が向かう先はこの家の当主。

 その光景を眼にした刹那、身体は無意識に動いて前へと飛び出た。
 馬鹿だと思いながら終わりを覚悟して、けれど衝撃はいつまで経ってもこの身を貫くことはなく。

 ただ、代わりに。

「……ほら、馬鹿だって言った」

 くしゃり、自身の頭を撫でる掌の感触。
 眼に映る緩んだ表情は、じわりと視界が滲んですぐに見えなくなった。

「……わた、し」

 堰を切って溢れる感情の正体は分からない。ただただ今日までの彼との思い出が脳裏を駆け巡っていく。
 伝えたい言葉はいっぱいある。話したいこともまだ沢山。

「っ、ばか、だから」

 それでも今は、言わなければならない一言を。

「ご、めん、……、ごめんね、リー、ごめん、なさい……!」

 何も知らないでのうのうと日々を生きてきた。
 何も知らないであなたに沢山の我儘を押し付けてきた。
 あなたを今日まで苦しめた原因は私で、あなたを今苦しめている原因も私で。


 けれど私はあなたが好きだから、生きていてほしいのだと。


 足が力を失いその場にへたりこむ。遠ざかる足音を聞きながらその背を見送れなかった。
 ただ頭を撫でてくれたその掌の感触を、忘れぬようにと胸に刻み込んだ。


*


「おとう、さま」

 暫くの間泣き続けていた少女は、嗚咽が収まった頃に漸く口を開いた。

「お叱りは、いくらでも受けるわ。許してなんて言わない、ただ」

 自身の父親に銃口を向けるなど普通であれば罪に問われてもおかしくはない。
 そしてその罰を受ける覚悟ぐらいは、歳も考えも幼い少女にも出来ていた。

「……リーを逃してくれて、ありがとう」
「……メリス」

 だから伝えられる内に彼にも感謝の言葉を伝えなければならないと思ったのだ。
 脅した末の結果で、父自体非道な人間ではある。それでも拘束を解き、見逃してくれたのは紛れも無い事実。

「私はお前が許しを得た瞬間、気を緩めて銃を下ろすと思っていたよ。そうなったらお前から銃を奪って、あれを撃ち抜いてやろうと」

 その言葉に少女の肩が少し揺れたが、もう全ては終わったことである。

「強くなったものだな。……まあ、どちらにせよ詰めは甘いが」

 息子の我儘で救った娘を外に出さなかったのは、駒として躍らせるのにそれが丁度いいと思ったから。
 何の期待もかけていなかった。扱いやすく夢見がちに育ってくれただけで十分。家を飛び出し戦場に向かったことには驚いたが、どうせ諦めてすぐに帰って来るだろうと考えていた。
 それが気付けば、一人の人間を救う為に自身の父に銃口を向ける覚悟を備え付けて帰って来たのだ。

「お前を残像領域にやったことは、存外悪くなかったようだ」

 少しぐらいは期待をかけてやってもいいのかもしれない。

 笑みを漏らし部屋を去っていった父を見送った少女は、収まったばかりの涙が溢れそうになるのを堪えながら、誰も居ない部屋で一人呟いた。

「……あり、がとう」