「おはようございます、ニコラさ……ん」
珍しく世間一般に近い出勤時刻に出勤して事務室の戸を開けたアイカは、中に誰もいないのを見て肩を落とした。デスクに積み上げられた書類を見て、さらにため息を漏らす。
見なかったことにしたかったがそうも行かず、渋々と積み上げられたそれを何枚か取り上げる。本来ニコラがサインをし、印を押さねばならない書類の数々。どうしてここまで溜めこめるのか、アイカにとっては逆に不思議だった。
とりあえず事務室を横切って隣接したキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。よく冷えたそれを片手に、事務室から廊下へ、そして奥のベッドルームの前で足を止めた。
ノックをする。返事はない。
「ニコラさん、入りますよ」
一応断りを入れつつドアノブを捻ってベッドルームの中へ入ると、床に散らばる無数の空き缶が目に入る。不本意ながらもいつもの風景で、アイカは再びため息をつきながら窓の近くに設置されたベッドへと近づいた。
上はキャミソール一枚、下は下着のみで眠りこけるその姿は本来扇情的であるはずなのだが、完全に見慣れてしまってそんな気分にならないことがアイカは空しかった。だからといって殊更に眺めるようなことはしないが。とりあえず寝ている間に蹴っ飛ばされた様子のタオルケットをかけてやってから、汗を掻き始めたミネラルウォーターの瓶をニコラの頬にくっつけた。
「――ひわっ!? マルク、いきなり何を」
「アイカですよー。違いますよー」
急に触れさせられた冷たさに跳ね起きた身体が寝ぼけ眼のままうわ言を紡ぐのを遮る。
まだ半目のニコラの前に開けてやったミネラルウォーターを突き出し、アイカは言った。
「おはようございます、ニコラさん。やらなきゃいけない仕事を相変わらずたんまり溜めていらっしゃるようなのでさっさと起きやがってくださいこの野郎」
「……野郎じゃない……」
「的確な突っ込み求めてねーんですよ!」
アイカは声を荒げて反駁しながらミネラルウォーターを押し付けると、床に散らばっている缶を一つ一つ拾い上げた。それらは皆一つの例外もなく酒の缶だ。どんだけ飲んだんだ、と三度ため息をつく。
その後ろではミネラルウォーターを一気に飲み干したニコラがその瓶を眺めて茫然としていた。酒缶と同じようにそれを放り出すと、起こしていた上体をまたベッドへと沈めた。
その音にアイカが振り返り、呆れに顔をひくつかせた。緩やかに息を吸い込み、
「二度寝すんじゃねえー! さっさと起きて仕事しろ、今何時だと思ってんだ!」
精一杯の罵声が、朝の寝室に響き渡った。
結局ニコラが完全に起きてデスクに着くまで一時間かかった。
「まったく……サーシャと紬は昨晩から仕事なんですよ今も出てるんですよ、それがなんでアンタは酒飲んで寝っ転がってるんですか」
この呆れの表情がよく顔に張り付いて取れなくならないもんだ、と自分でも感心しそうなアイカである。
一方のニコラはデスクでひたすらにサインをして印を押すという本人にとっての苦行を続けていた。
「別に危険な仕事じゃないだろう」
「手を止めない! 危険な仕事じゃないっつったって、どんなトラブル呼び込むかも分からないんですからね」
「む……」
アイカの正論に返す言葉を持たず、ニコラはただペンと印を交互に書面上に走らせていた。一応真面目に仕事をしているニコラに安心して、アイカも自分のデスクについて仕事を始めた。アイカの仕事は今ここに溜まっている、弾薬の補充状況の確認だの、新規武器の購入申請の処理だの依頼の受諾状況の整理だの、あと事務所に来る光熱費やら水道代の請求だのなんだのの書類を最終的にニコラが確認すればいい段階にまで仕上げることだ。
狙撃手としての働きよりもこちらが主立ってしまっている現状が悲しいが、このような些事の処理に向いているのがアイカ一人であることや、そもそもアイカが出る必要があるような依頼があまり舞い込まない現状を考えると仕方ない。後者は正直悲しいとかそういう言葉で済ませられる状況ではなく、苦しいと表現しなければならないが。
様々の悲哀を噛み締めながら仕事を進めるアイカを、ふとニコラが窺い見た。視線に気づいたアイカがニコラを睨み返すが、そもそもそんなことで怯えるような細い神経をニコラが持ち合わせていたならばアイカは苦労していない。
「……なあ、今更ながら思ったんだが」
「なんですか。手を止めないんなら聞いてあげますよ」
「いや、それ以前に。そもそもなんで私がこんなことをしなきゃいけないんだ?」
「――は?」
ニコラの根本的な疑問に、素っ頓狂な声を返すアイカである。
「そもそも会計とか事務処理とかは全部お前がやっているだろう。わざわざ私がサインするまでもないじゃないか」
「一応所長が確認しないと駄目でしょうよ。外部との取引だったらアンタの名前が必要になりますし」
「別に確認していないぞ」
「――は?」
アイカは同じ返答を二回繰り返してしまっていた。今なんつった、と乾いた声で言う。
「確認してないだって?」
「アイカがちゃんとしてくれてるから大丈夫だろうと思っている」
誇らしげに胸を張るニコラだったが、何やら自分が褒められていることは分かるが全く嬉しくないアイカだったが、とりあえずなんだかアイカとしては非常に不本意なことになっているようだった。
「……いや、大丈夫だろうじゃなくて、アンタちゃんと確認しろよ!? それでも所長か!?」
「それに取引先は私の名前だろうとお前の名前だろうと気にしないと思うぞ。ちゃんとした企業取引なら兎も角、この島でこの街なんだ」
取引だって簡単に反故にされてしまうしな、こんな紙切れなんの役にも立たないだろう?
自分の仕事を減らす口実をつらつらとまくし立てるニコラを前に、アイカは反論の言葉が浮かばなかった。
わりと正論だった。言われてみれば、正論だった。
よく考えたらあんなに大量に書類を積み上げる女が、それを処理するときにいちいち内容を確認しているわけがないのだ。それならばわざわざニコラの重い腰をひっ叩くまでもなく、アイカのところで完全に処理してしまっても問題はない。
「……でも、そんな風にしたら完全にアンタの仕事が」
「私は今まで通り前線に出る仕事があるだろう。そもそもそっちが本来だしな、空いた時間は適当に情報収集や島の情勢の把握に努めるさ」
「………」
ニコラは言葉を無くして魚のように口を開閉させるアイカに言い放った。
「ほら、手が止まっているぞ?」
自棄のような勢いで書類を処理しながらアイカは言った。
「テオさん――父親から継いだ事務所でしょう、潰さないようにもうちょっとだけでも自分が頑張ってみる気はないんですか」
ニコラは早速新聞を読んでいたが、アイカに言われて鷹揚に笑ってみせた。
「勿論、最善を尽くしている」
「どこが!?」
咳き込むように訊き返すアイカと対照に、ニコラの方は余裕たっぷりだ。
「事務・会計処理を一番の適任者に任せるという形でな。――頼りにしているぞ?」
思わずアイカはニコラの顔をまじまじと見た。目を丸くするアイカに、どうしてそんなに意外そうなんだ、と自分自身が意外に思っているような口調でニコラが言う。
その余裕の根幹をなすのがアイカに対する信頼なのだということをありありと感じさせる言動なのだが、アイカはどうにも身体から力が抜けていくようなくすぐったいような感覚を感じざるを得なかった。とりあえず机に突っ伏して小さく呟く。
「……アンタ、自分がこういう仕事したくないだけなんじゃ……」
「そうとも言う」
「認めた!?」
耳ざとく聞き付けたニコラが堂々と言い切ったのに突っ込みを入れざるをえないアイカだった。そんなアイカに対して、ニコラは滔々と語って見せた。
「そもそも私は父と同じでそういう計算だとか整理だとかの類が大の苦手でな」
「……開き直った……」
「アゼルは得意だったんだが。あいつもレナルドさんによく教わってたろう?」
「ああ、まあ……」
「だから私はいいかなと思って」
締めくくりの言葉に、アイカは何もう何度目か分からない突っ込みを叫ぶ。
「よくねぇー!」
「よくないか?」
どこか、というかもう全てが突っ込みどころすぎて気力を無くしたアイカは、とりあえず目の前のものを片付けることに専念することにした。もう突っ込むのはいい。突っ込みきれないから。
それでも一応念を押しておく。
「つーかいくらオレがこんなとこ頑張ったところでウチの経営はいつでもカツカツですからね。それは肝に命じておいてください」
「……ふむ……」
実際、ウェンデル・カルヴァン共同事務所の経営状態はあまりよくない。
二回ほど大きく評判を落としてしまったこと、故に極めて規模が縮小してしまったこと、それに重ね現在の構成員が若齢・女性に偏ってしまっていること――要因を挙げたらきりがないが、とにかく、常に財政難であるすらと言える。
その結果として、
「サーシャと紬、ただいま戻りました!」
「依頼人の猫を確保し、届けてきました。健康状態は非常に良好、依頼は完遂です」
……不本意ながら、このような仕事を請け負う機会が自然と増えてくるのだ。
そもそもがウェンデル・カルヴァン共同請負事務所は、テオドア・ウェンデルを代表、レナルド・カルヴァンを代表補佐として設立された請負事務所である。腕っぷしに自信のある荒くれ者をまとめあげることで設立されたこの事務所の業務内容は――自然、荒事へと集中する。否、それこそを目的とした事務所なのである。
依頼人は力を持たぬ一般人、おおっぴらに動くことができない、もしくは避けたい人種を主とし、事務所はその全てを平等に扱う。
『事務所にとっての利益』という天秤にかけた上で。
そこがこの事務所の特徴であり、特異点であると言えた。それがどんな組織に関わる仕事だろうと、事務所の利となる仕事なら一つの例外もなく請け負うのだ。
徹底した利益主義。根底にあるものがこの上なく分かりやすいシステムを基盤に、事務所は確かな地位を築き上げていった。最盛期には、現在の『軍』『組』には及ばずとも、それなりの勢力を持ち一目置かれた存在であった。
――病気で早逝したレナルド亡き後もカリスマを発揮し続け、事務所を支え続けてきたテオドアが命を落とすまでは。
紬の頬に絆創膏を貼ってサーシャが笑った。紬は掌で絆創膏を押さえると、小さく頷いて言った。
「ありがとう」
「どういたしまして。女の子が顔に傷作ったら大変だものね」
「……そうかな」
「そうだぞ」
和やかな雰囲気の中に割って入ったのはニコラである。先ほど仕事を強制終了、というか強制消去した彼女は、窮屈なデスクから立ち上がってソファに座りこむ紬の顔を覗き込んだ。それにしても、と腕を組む。
「けったいな猫に引っかかってしまったものだな」
「うん。依頼の猫自体は大人しくて良かったんだけど……」
「人間に捕まっちゃうくらいだものね」
その時のことを思い出したのか、サーシャが口元を押さえておかしげに笑う。しかしその笑いもすぐに収まり、眉をしかめて続けた。
「『チーム』の子たち、相変わらずやんちゃねぇ……」
「チームはあのゆるさが売りだからな。『軍』や『組』と比べて、ライトなノリで加わる者も多いと聞くし」
「……だからこそ、あんな勢いで増えるんだろうしね」
小さな声で呟いた紬の顔はどうしても明るくない。複雑な感情を滲ませたその言葉に、ニコラとサーシャは思わず顔を見合わせた。
沈黙もそこそこに、ニコラが口を開く。
「……チームには、確固とした統制機構も存在しないしな」
「つってもあそこにはそれなりの統率力を持ったリーダーがいるんでしょうが」
事務仕事に目途をつけたのか、デスクから立ち上がってアイカが口を挟んだ。
女三人の視線がアイカを向く。アイカは凝った身体を解しながら続けた。
「そもそもがリーダーのカリスマがなきゃ存続してない組織でしょう。組織ですらねぇな、ただの集団だ。問題ごと起こさないくらいには躾けてあるもんじゃないんですか」
「本来はそうだろうな。……だが」
「すごい勢いで増えてる」
紬の声は小さいけれどよく通る声だ。
「末端までは抑え切れてないんだ。……大事に至る前に、あの人がなんとかすればいいんだけ――」
訥々と語るその声が物理的に押しつぶされた。急に引き寄せられて柔らかな双丘に顔を埋めた紬は目を白黒させている。
抱え込む力を強めて、サーシャが言った。
「そんな顔は良くないわ」
「サーシャ」
「ね?」
「……うん」
ぎこちなさを残しつつも笑みを浮かべる紬を見て、サーシャも嬉しげに目を細めた。
紬の中性的な外見もあいまって恋人同士のようにも見える二人の光景だったが、事務所ではわりと良く見られることだった。いつものように強く抱き締めてから紬を放したサーシャは、腰に手を当てて高らかに宣言した。
「気分転換よ。紬、いつものとこ行きましょ!」
「気分転換はいいんだけどな」
紬が答えを返す前にアイカの渋い声が割って入る。声音そのままの表情のアイカは、紬とサーシャを無遠慮にペンで指して言った。
「お前らどっちか一人でいいから報告書書いとけ。溜め込むとロクなことになんねーから今すぐにだ」
「……それがあったわね」
アイカの渋い顔を真似るサーシャ。
「私が書くよ、サーシャ。だから行ってていいんだよ」
「だめよ、それじゃ紬の気分転換にならないでしょう?」
「いや、別に気分転換とかしなくていいし」
「でも……」
「ディックのところに行くんなら私も行くぞ」
そう言い出したのはニコラだった。困ったように押し黙るサーシャを見かねたのか、はたまた自分が行きたかっただけなのか。その真意は分からないが、広げかけていた雑誌をデスクに戻して親指で自らを示す。
「一緒に行くのが紬でもサーシャでも私は構わんがな」
「俺が構うから紬行ってくれ」
「え」
間髪入れずに言ったアイカに、紬とサーシャは目を丸くした。デスクに座りなおしたアイカの顔にはどこか疲れたような様子が窺えた。
「サーシャが行くとアクセルにしかなんねェ。紬、ニコラさんの監督頼む」
ぐったりとした、縋るようなその声に、二人は何も言わずに頷かざるを得なかった。
不快にならないくらいの適度な喧騒。日の光に照らされた明るい店内を行き交う人の種類は、強面の大男から軽装の少女まで様々だ。昼間ということもあって、酒を頼む人よりも食事を摂る人の方が多く見られる。
紬はカウンターに座って、ジンジャーエールを飲みながら人の行き交う店内を眺めていた。隣にニコラはいない。彼女はビールのジョッキを片手に、情報収集と称してテーブルの男たちの談笑に加わっていた。真昼間から酒を飲むその根性は流石である。
どれくらいでストップをかけるべきだろうか、そもそもストップをかけたところで止まるのだろうか、と一抹の不安を覚える紬の傍らに、グラスに盛られたトライフルが置かれた。
振り向いた紬の目に、店主――ディックの笑顔が映り込む。
「壁の花ならぬ、カウンターの花ですか?」
「……頼んでないよ?」
「サービスですよ。うちの粋なシェフからのね」
そう言って厨房を示す。浅黒い肌の男と目が合い、紬は小さく会釈した。男は何も言わずに奥に引っ込んでしまう。
ディックは困ったように肩を竦めた。
「もうちょっと愛想があればいいんですけど」
「十分あると思うけど。……これとか」
目の前に置かれたトライフルを示して紬は表情を緩めた。穏やかな口調でディックに告げる。
「ありがとう、って言っておいて」
「かしこまりました」
ディックは胸に手を当てて頭を下げその身を引いた。忙しなく動くディックを見送って、紬はスプーンを手に取った。
生クリームの上に載せられたベリーやキウイ等のフルーツの彩りが目に鮮やかだ。それを崩してしまうのがもったいなくて、暫くスプーンの先でトライフルをつついて感触を楽しんだ。崩れ落ちそうになったブルーベリーを掬い上げて口に含む。控えめな甘さが舌に心地よい。
のんびりとその味を堪能していた紬の横に、空のジョッキが勢いよく置かれた。思わず顔を上げるとニコラがカウンターの奥に叫ぶところだった。
「ディック! もう一杯! ……どうしたんだ紬、それ頼んだのか?」
「んー。いや、サービスってジャイルズさんから」
「そうか。……おいディック、私にもサービスでビー」
鼻先にジョッキを突き出され、ニコラの言葉は途中で止まった。はい、と笑顔を崩さずにディックが言う。
「ニコラさんにビールをサービスしてしまったら、全部飲み尽くされちゃうのでだめです」
「……それは残念だな」
ジョッキを受け取ったニコラは小さく肩を落とし、すぐに身を翻して男たちの会話に混ざりに行った。何か有益な情報でも得られそうなのだろうか、紬の席からはその内容は窺い知れなかった。
まあいいか、と片付けるとカウンターに向き直ってスプーンを握り直す。トライフルを食べながら、こういう甘い物はサーシャも好きだったなと思い出す。今頃はデスクに向かってアイカに叱られているのだろうか。今度は彼女も一緒に来られたら良い。
でも最近のサーシャは甘い物を目の前にすると頭を抱えて悩み込むから、こちらも誘うかどうかは考えものなような気がしてきた。紬個人としてはそんなに気にする必要はないと思うのだが、本人はどうしても気になるらしい。あの柔らかさが失われてしまうのは勿体ないし、我慢しすぎるのは身体によくないから、適度に控えればいいんじゃないかとも思う。
わりとオヤジな発想かもしれない、と少し疚しい気持ちになってきた紬の細い身体が、唐突に大きく傾いだ。
紬が腰かけていたカウンターチェアもろとも。
「……!?」
流石にそのまま床に衝突するような無様を晒すことはなく膝をついて着地した紬だったが、カウンターチェアの方はそうも行かず床に倒れて大きな音を響かせた。店内の喧騒が静まり、視線が集中する。
立ち上がった紬と、彼女を睨みつける三人の少年たちへと。
「……君たち、さっきの」
紬を囲む少年らは、足に手首に首元へと、その部位は様々だったが、皆一様に虎のエンブレムの入った黄色いバンダナを身に着けていた。そのうちの一人、この中ではリーダー格らしい一番背の高い少年が紬を見降ろして侮るような声を発した。
「そう、さっきの」
「ボクちゃん、彼女はどこ行ったの? フラれちゃった?」
「………」
何やら勘違いされているようだ。
「あの娘は彼女じゃないからフラれてもいないけど……そんなにあの猫をいじめたかったの? 感心しないね」
「猫なんてどーでもいいんだよ。てめぇがムカつくってだけ」
先ほど一瞬だけ鎮まった喧騒も今は元に戻っており、店内でこちらの様子を気にする者は最早圧倒的少数だった。その中でふとニコラと目が合う。ジョッキを離すことすらしないニコラは、何も言わずに拳を握って親指を下に向けた。
やっちまえ。
無言の鼓吹に紬は小さく肩を竦めた。言われずともそのつもりだったが、こう煽られてしまっては仕方がない。軽く手首を回しながら『チーム』の少年たちへと言葉を紡ぐ。
「なんか、もう……君たちも、君たちのリーダーもあんまり好きじゃないんだけど……可哀想になってくるよ」
「あァ?」
いきり立つ少年たちを前に、紬は首を鳴らした。気だるげに一言、とどめの挑発を放つ。
「なんていうか、頭とかそこら辺が」
少年たちが一瞬で沸騰する様子が見て取れた。一番前にいた背の高い少年が握った拳を振り上げる。あまりにも読みやすい大振りな動作。紬はその手を取るつもりで殴打に備え、軽く身構えた。
しかしその拳が振り下ろされることはなかった。
「何やってんだ、お前ら」
後ろから伸びた手が少年の手首を捕え、捻り上げた。同時に少年の両脇を固めていた二人が床に転がされた。
驚きに目を瞠った少年らと紬が見上げた先で笑うのは、ツナギ姿の長身の男――リーンハルト・ハイゼンベルク。
「なんだよてめぇ、邪魔すんじゃねぇ……いっ、て!」
腕を掴まれた少年が男を睨みつけて低く唸る。瞬時に仲間二人を転がされた戸惑いだろうか、しかしその態度には虚勢が見られた。
ハルトは笑みを深めた。少年の腕をさらに強く捻りながら言う。
「店の営業邪魔してんのはお前らだろ? まだ続けるってんなら外で相手になるぜ」
「……この野郎!」
「ふざけんな――がっ!?」
床から立ち上がった二人の少年がハルトに殴りかかろうとし、再び床に沈められた。
「……外でやるって言ってんじゃん」
「………」
紬の肘鉄と、コック服を着た男の蹴りによって。
「くっ……」
腕を掴まれた少年が腕を振り解こうとすると、ハルトは容易にその拘束を解いた。煽るように指で手招きしてみせる。
「んで、やるのか? どうするよ?」
その傍らには紬と男が少年らを見据えている。背の高い少年は忌々しげに舌打ちすると、床から起き上がったばかりの少年らに目配せをして踵を返した。後を追う少年二人も、何やら悪態やら捨て台詞を残して店を出て行った。
その様子を見届けてから、ハルトはうんざりしたようにため息をついた。
「……何やってんだ、ヴィンセントは」
「君こそ何してるのさ」
下からの抗議にハルトが顔を下げる。仏頂面でハルトを見上げる紬がそこにいた。
じろりと睨み上げて、気まずそうにハルトが目を逸らす。
「あんなのわざわざ助けに入るまでもないのに」
「いや、何か……あ、悪かったな、ジャイルズ」
「……別にいい」
褐色の肌をした青年は言葉少なにそう返すと、倒れたカウンターチェアを戻してから厨房へと姿を消してしまった。
相変わらずだな、と呟いて表情を緩めたハルトは、腕を引っ張られて体勢を崩す。
「聞いてる?」
「あー悪ィ悪ィ、聞いてるって。別にいいだろ? ここで喧嘩したら迷惑になることに変わりはねェんだからよ。だからジャイルズが出てきたわけだし」
「……でもさ」
なおも口を尖らせる紬の頭を、背後から伸びた手がぽんぽんと叩いた。肩を引き寄せられ、驚きに目を瞠る。
「そうだな、もっとスマートに外に誘導してもよかった」
「……煽ったのはニコラじゃないか」
「……つーか、いたのかよニコラ」
ニコラの姿を見てがっくりと肩を落としたハルトである。八つ当たり混じりに呟く。
「いたんだったら助けに入れよ……」
「あんなのは紬一人で十分だ。こっちも盛り上がってたしな」
「………」
押し黙ったハルトは、ニコラを相手にするのは無駄だと判断したのか紬に向き直った。相変わらず機嫌がよろしくない紬の表情に困ったように眉を下げる。
「悪かったよ。……お前があいつらに絡まれてると、未だに肝が冷えんだ」
「過保護」
言葉少なにハルトをたたっ切ると、紬は会話を打ち切ってカウンターチェアに腰かけた。食べかけのトライフルに手を伸ばす。
先程までは丁寧に味を楽しんでいたそれを、詰め込むようにして口に頬張った。
その様子を見て肩を竦めたハルトの背中に、小柄な身体が抱き付いた。
「ハルトっ! 久しぶりじゃない、元気してた?」
「……レティーシャか」
鮮やかな金髪を低い位置で二つに括り、ビキニにGパンという挑発的な格好をした女性がそこにいた。振り解かれて口を尖らせる彼女の表情はなかなかに蠱惑的だ。
「相変わらずつれないのねー……私ったらしょんぼりしちゃうわ」
「本命がいるんでな」
そもそもお前にもいるだろうが、とは口に出さない。
適当にレティーシャをあしらっていると、新しくビールを注いで貰ったらしいニコラが近寄ってきた。ジョッキを呷りながら話題を変える。
「そういえば、賞金首の話は聞いたか?」
「あ?」
「通り魔の話でしょ?」
昼間はこの店でウェイトレスをしているだけあって、それなりに情報通のレティーシャだった。そう、とニコラが頷く。
「ここ最近話題になっている解体殺人のアレだ。被害者は分かってるだけでもう十九、遺体からはところどころパーツが欠けてるっていうのが話題になってる」
「適当なドブに落ちて見つかってないだけとかじゃないのか? まあ解体ぶりだけで異常らしいけど。……で、賞金首だって? どこの出資なんだ? 『軍』か、『組』か?」
「そのどちらでもないの」
レティーシャの否定に、ハルトは意外そうな顔をした。この島でその二つ以外に懸賞金を出資するような組織があるとは。
「この前一気に六人犠牲になったでしょう? それが島の外の金持ちの坊ちゃんだったらしくて」
「護衛もつけずにうろついてたってか? ……待てよ、六人?」
察しがいいな、とニコラが頬を歪めて笑う。
「護衛ごとだ。金にものを言わせて腕利きの護衛を五人ほどつけていたそうだが、一人残らず殺されたらしいぞ」
「……そりゃまた壮絶なこって。脳内お花畑の子供が殺されたからって、わざわざ懸賞金かける父親も御苦労なもんだな」
「この島での事業展開を考えていたって話だけど」
「……お花畑度が上がったぞ、オイ」
ハルトは思わず呟いた。いきなり外部の企業が参入するなど危険すぎる。しかもこの島に不慣れな人間をいきなり視察によこすような企業が、ここで成功できるはずがないのだ。
「レティーシャ、いつまで話してるんですか!」
「あー、はいはいー。じゃあ私ちょっとお仕事に戻るわよ、ご注文は?」
「決まったら呼ぶよ」
了解、とウィンクをして、ディックに呼ばれたレティーシャが給仕に戻る。
レティーシャの働く様子を眺めながら、ハルトとニコラは会話を再開した。
「……ところで、懸賞額は?」
「9000万クローネ」
「ッ……なんか、こう、生々しい金額だな」
ちょっとした家が一軒建つか、とハルト。必要以上にぶっ飛んでもいない、本気で金を出すのだろうと思える金額設定だ。
「まあそれなりに美味い話だ。ちょっと片手間に探してみるかね」
「おいおい」
あまりにも気軽な様子で言ってのけたニコラに、ハルトは苦笑した。おどけた調子で忠告する。
「あんまり無茶すんなよ? 評判を聞くに、あの通り魔はかなり危険だ。だからこそのの高値なんだろうけどよ」
「危険を恐れて回る商売をしているわけじゃないからな」
「勇敢と無謀は違うだろうがよ」
全く、とため息をつく。
「……紬ももう大人だし、お前に預けてあるんだからどうこう言う気はないけどな……心配と忠告くらいはさせろよ」
「ふむ。善処しよう」
真面目ぶって頷いたニコラは、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干してから破顔した。
「相手は通り魔だから、善処したところで遭遇してしまったらどうにもならないがな!」
「無理に立ち向かわないとか逃げるとかあるだろ?」
「戦略的撤退か? それもいいが、まずは立ち向かってみたほうがよかろう」
酒のせいなのかどうか知らんが、必要以上にテンション高く笑い飛ばすニコラである。こいつに紬を預けてよかったんだろうかと考え直してしまいそうになったハルトだったが、ぎりぎりで踏み止まる。
こんなちゃらんぽらんなことを言っていても、いざというときはちゃんとシメる女なのだ。そのはずなのだ。
「ニコラさん、もう一杯いる?」
「ああ、頼んだぞレティーシャ」
ストッパー不在でまだまだ飲む気満々のニコラを前に、その認識から改めた方がいいのかもしれないと密かに思ったりなんかは、多分していない。
(2010/09/07)
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