「まったくよぉ……なんだったんだあいつらは」
「胸糞わりぃな、ったく」
宵闇に沈む街の様相は明るい昼間のそれとは大きく異なる。通りを行き交う人の種類も、その一人一人の表情もまた然りだ。
この地域は比較的治安が良い方であるとはいえ、暗くなってきた今は非武装の人間が安心して歩き回れるような場所では断じてない。昼の間でも周囲に気を配らなければスリやひったくりに遭うくらいなのだ。むしろそれで済めばいい方だと言えるくらいだ。
その夜の街を、昼にハルトらに酒場を追い出された少年たちがうろついていた。あれ以来何処かしらで飲んだのか、皆一様に顔が赤く息は酒臭い。足取りが危ういという風には見受けられなかったが、ある程度酔っぱらっていることは誰の目にも明らかだった。
昼間の出来事に対して口々に文句を零しながら散漫と歩く少年たち。そのうちの一人の肩とすれ違った長身の女の肩が掠った。
「……んぁ? オイ、そこの女! 人様にぶつかっといて無視かよ?」
それは触れただけと表現できるくらいの些細な接触で、ぶつかったなどという表現は的外れも甚だしいのだが、彼にとっては十分難癖をつける理由になったようだ。もしかしたら誰かしらに文句を言いたいだけだったかもしれない。
声をかけられて立ち止まった女の肩を掴み、乱暴に引っ張る。引き寄せられた女は抵抗をせず、怯えているのか声すら出さなかった。そのまま路地裏に押し込まれ、三人に取り囲まれる。
ぴったりと密着度の高い黒衣の下に隠された豊満な胸や引き締まった細い腰だとかを目に留め、少年らのうちの誰かがごくりと喉を鳴らした。
そして、ゆっくりとその手を伸ばす。
脚立の上のアイカは片手で棚にファイルを収めながら、もう片方の手を下に立つサーシャに向けた。手渡されたファイルを先程並べたファイルの隣に並べる。同じ作業を延々と繰り返し、やがて最後の一つが綺麗に棚に収まった。
「……よしっ!」
「やっと終わったの?」
「ああ、終わりだ。お疲れ、サーシャ」
脚立から降りたアイカは、自分を見上げていたサーシャの頭を軽く撫でた。ぐったりと疲れ果てた様子のサーシャと裏腹に、アイカの表情はすっきりと晴れやかだ。生き生きと爽やかさすら感じられる。
そんなアイカを見上げて、サーシャは口を尖らせた。
「……アイカさん、潔癖症って言うか偏執狂よね……」
「何言ってんだ、掃除は大切だろ。ニコラさんがいるとあっという間に散らかるからな、鬼の居ぬ間にってやつだ」
「鬼はアイカさんじゃないの」
勢いよく身体をソファに沈めたサーシャは、つまりは今まで事務室の掃除の手伝いをさせられていたらしい。外はとっぷりと暗く、かなり長い間部屋の掃除にかかりきりであったことを実感させられる。
腕を伸ばして背中を反らし、凝った身体を解す。
「報告書だけだと思ったのにー……紬は楽しんでるかしら」
「あー。そういえば帰ってこないな、もう大分……暗っ!?」
今更に空の暗さに気付いて驚くアイカに、どれだけ夢中になっていたんだ、とサーシャは呆れを隠せなかった。ため息をついて肩を竦める。
「すっごーくすっごーくすっごーく長い間掃除してたんですよー……」
「うっせ。そんな強調するまでかよ」
「あいたっ……なにすっ」
軽く小突かれたサーシャが頭を押さえ、抗議しようと口を開くのと事務所の電話が鳴るのとが同時だった。目を丸くして顔を見合わせた二人、アイカが受話器を取って耳に当てる。
「もしもし? ウェンデル・カルヴァン共同事務所です」
『あー……アイカか? ハルトだよ。リーンハルト』
聞き慣れたざわめきをバックに聞こえてきたのはハルトの声で、やや困惑したような声音に無意識にアイカの眉が寄る。
その様子を目撃したサーシャは、そろりそろりとアイカから距離を取って安全地帯からの観察を決め込んだ。触らぬ神にたたりなし。
「ディックさんのお店からですよね? ニコラさんと紬がいたかと思いますけど、なんか迷惑とかかけましたか」
『いや、迷惑っつーか……』
言葉を探して言い淀むハルトの口振りはどうにも煮え切らない。
一体何が言いたいんだ、とややイラついてきたアイカだったが、それから思い切ったように続けられた言葉に愕然と凍りついた。
『悪ぃ、アイカ! 紬潰した!』
「はぁ!?」
「はぃ?」
思わぬ展開に頓狂な声を上げるアイカ、その声にサーシャもまた驚いて首を傾けた。
触らぬ神にたたりなし、撤回。どんな展開か興味を持って寄ってくるサーシャを追い払うようなことはアイカはしなかった。というより、そんな余裕はなかった。
『いやー、機嫌悪くしたもんだから酒飲ませればなんとかなるかと思って』
「思ってじゃないですよ! なんてことを! っていうかニコラさんは何やってるんです、紬が止めてないとなると」
『ニコラはまあ、いつも通りだ――って呼んでねぇよ! うわっ』
最初から聞こえ続けていた喧噪とはまた違った騒がしさが受話器の向こう側で展開されて、アイカの表情はまさに苦虫を噛み潰したようだ。本当にその表現がぴったりだと、隣でアイカを見るサーシャは内心舌を巻いた。
一段落ついて、受話器越しに聞こえてきた声は立派にへべれけだった。
『アイカだな? 私は元気だぞ?』
「聞いてねーよ! あーもう今すぐ迎えに行くんで待っててください!」
『いやだ』
不満そうな声が返ってくるが、知ったことか、と小さくアイカは舌打ちした。とにかく、と息巻いて念押しする。
「もうそれ以上飲まない、飲ませないこと! 分かりましたか!?」
『……アイカ』
「何ですか」
最早返答する声もぐったりと力無い。さっきまではあんなに生き生きしてたのになぁ、とサーシャはアイカを可哀想に思った。少しだけ。
『こっちは楽しんでいるから、そんなに急がなくてもいいんだぞ?』
「黙れ」
噛み合わない会話をすっぱりを諦めて、アイカは勢いよく受話器を戻した。高く上がる硬質な音にサーシャが目を丸くする。その前でアイカは、沈痛さを露わにデスクへとへたりこんだ。か細い声で言う。
「……紬まで、潰れたって」
「……あらら」
あの紬がねぇ、と、意外そうなサーシャである。
死んだようになっていたアイカだったがそれも束の間のことだった。身を起こして背筋をしゃんと伸ばすと、自分も行こうかと自らを指差すサーシャに言い放つ。
「俺一人で行くからお前留守番で」
「えー、なんで? ニコラさんと紬で二人じゃないの、二人で行ったほうがよくない?」
サーシャの言うことももっともだが、首を振るアイカの弁では。
「仮にその場の空気に呑まれてお前まで酔っ払うようなことになったら、俺は生きて帰れる気がしない」
「………」
紬までがやられている現状で、サーシャは反論の言葉を持たなかった。
自分の顔が引き攣っているのを、ハルトは確かに自覚していた。
「……よ、よう」
「やあお久しぶりですねハルトさん、お元気ですか?」
「……笑顔怖ぇ……」
酔っ払いで溢れ返る店内を掻き分けてハルトと顔を合わせたアイカは爽やかな笑顔を顔に張り付かせていた。過剰なまでの爽やかさに、思わずハルトの腰が引ける。
「別に怖くなんてありませんよ? 気のせいです気のせい。ええ全く」
「……で、紬はそこだ」
とりあえず流すことに決めたらしいハルトは、カウンターの背中を指し示した。どんな様子かと見に行ってみれば、ぐっすりと眠り込んだ紬がカウンターテーブルに突っ伏して安らかに眠っている。もともとが童顔気味の彼女だが、こうして見ると本当に子供のように見える。
紬を見降ろして、この分なら担いで帰れば普通に大丈夫だな、と一安心したアイカは、本丸の存在を思い出して表情を引き締めた。手強いのは圧倒的にあちらの方だった。前科持ちだし、酒好きだし、手放さないし。しつこいし。
「……ニコラさんは?」
「ニコラさんならあちらの方に」
むっつりと伏せられたアイカの半眼が、背後からかけられた声を受けて形を変える。にこやかに微笑むディックは掌で店の一角を示した。
そこには屈強な男たちに混じって何やら盛り上がっているニコラがいた。案の定というか、予定調和というか、その右手にはビールジョッキが握られている。ずっと手放さなかったんだろうなあとどこか冷めた頭で考えるアイカだった。
「……あの人は、まったく……」
「ずっとあのノリだったぞ。逆に凄いな」
頭痛がしてきたのは気のせいだけではないだろう。医療費を経費で落とせるかもな、と大真面目に検討しているアイカは、それが現実逃避に他ならないことをしっかりと自覚していた。自覚した上で、そんなことを考えでもしなければやってられなかった。
「あ、アイカさん」
「なんですか。ディックさん」
「ついでに今のうちにお代払ってくれませんか?」
「………」
アイカは無言でディックを見返した。突き刺さるような視線と相対してもディックは動じず、軽やかに伝票を揺らす。
「ニコラさんから回収するの大変なんですよ。紬さんは眠っちゃっていますし」
「……ハーイ……」
「あー……俺、ニコラ引っ張ってくるな」
口応えする気力もなくして財布を取り出すアイカを哀れに思ったのか、そもそもが紬を潰したことを後ろめたく思ったのか、ハルトは席を立ってニコラの元へ赴いた。
それを見送ってから、アイカはディックに恨めしげな視線を向けた。紙幣を手渡しながら文句を言う。
「……そもそもなんで客が潰れるまで飲んでるのを止めないんですか……」
「商業主義に基づいた結果ですよ」
飄々と答えるディックの横顔は涼やかだ。紙幣を数えた上で釣り銭を取り出した。
「紬が機嫌悪くしたんでしたっけ? なんかあったんですか?」
「詳しいことは分かりませんが、チームの子たちに絡まれていたようですね」
はい、毎度あり。釣り銭をアイカに手渡しながら説明する。
「ハルトが助けに入ったのが気に入らなかったみたいですよ」
「なんだそりゃ」
「複雑なんでしょう」
相手が相手でしたからね。
あまり多くを語る様子のないディックだったが、アイカの方も深くは追求しなかった。そうか、と相槌を打って黙り込む。
「……まったく、ハルトもうるさいぞ。私はまだ飲める」
「飲めるかどうかが問題じゃねぇんだな。これが」
その沈黙も長くは持たず、すぐにアイカは顔を引き攣らせる羽目になったのだが。
ハルトに引きずられてきたニコラは口振りこそ明瞭だが、その表情も足取りも明らかに泥酔した人間のそれだ。よくもまあここまで飲めるものだと思う。頭が痛くなったりしないのだろうか。
「……俺、コレ持って帰るの嫌なんだけど……」
「アイカ、人をこれ呼ばわりするのもモノ扱いするのも感心しないぞ」
「だったらもっと人間らしい行動を心掛けてください。帰りますよ。……紬?」
ニコラの反論も切り捨てて、アイカは眠っている紬を軽く揺さぶった。肩を掴まれ揺すられるままに、紬の全身が軽く振れる。
「……おい? 紬―?」
しかし起きる様子のない紬を、アイカは困ったように見降ろした。元来眠りの薄い紬のことだ、例え潰れていても簡単に目を覚ましてくれるだろうと思ったが甘かったようだった。深い熟睡はちょっとやそっとでは冷めそうにない。
「アイカ、あんまり乱暴にしてやるな。可哀想だろう」
「あんたなぁ……」
「しかしまー、よく寝てるな」
「あんだもだ! 潰した本人が!」
アイカにぎろりと睨まれて、後ろめたさにハルトが苦笑する。悪かったよ、と頭を掻いて。
「……紬と飲むの、初めてだったんだよ」
「あ、そーなんですか? ……っていうか、だからって潰していい言い訳にはなりませんって……」
「潰すつもりじゃなかったしな。……いや、本当に悪かった。反省してる」
「ならいいですけど……」
この真摯さがニコラにもあればいいのに、と心の底から思うアイカだったが、同時にそんなことは有り得ないのだということも分かっていた。
とりあえず、このままでは埒が明かない。アイカは紬を起こすのを諦めて、その身体を肩に担ぎあげた。細い身体は思った以上に簡単に持ち上がる。
「よし、今度こそ帰ります。……いいですね? ニコラさん」
「よくない」
「うるせえ! 帰るぞ! もうアンタ酒場禁止すっぞ!」
「それは困るな。……宅飲みしかできなくなる」
それでも飲むのをやめる気がないのがニコラのニコラたる所以で、同時にアイカの苦労する所以である。
「それじゃ失礼します。まーご迷惑おかけしました、一応」
何はともあれ、がっちりと腕を掴まれては抵抗できないのか、紬を肩に担いだアイカにニコラも引きずられていく。引きずられながらも妙な余裕があるというのか、ディックとハルトに対してにやにやと笑いながら手を振るニコラであった。
「おー、またなお前ら」
「次のご来店をお待ちしております」
涼しい顔でそれを見送る二人が、根本的には彼女らを酔わせた戦犯だったりするのだが。
「離せ、アイカ。一人でも歩ける」
「一人で歩けるかどうかよりも、まっすぐ帰ってくれるかどうかの方が心配なんですけど……」
店の外、事務所へと続く通りへと人混みをすり抜けてまっすぐ歩いていたアイカは、不信感を隠さない顔でニコラの腕を離した。
まったく、と掴まれっぱなしだった腕を軽く振ってニコラは苦笑する。
「子供じゃないんだぞ」
「子供じゃないからタチが悪いんです。……あ、どこ行くんですか!」
足取りを速めてアイカを追い抜いたところで、アイカに咎められたニコラは軽く眉を上げて彼を振り向いた。やれやれとでも言いたげな顔である。
「安心しろ、ちゃんと帰るよ。道は間違っていないだろう? 信用しろよ」
「そりゃ、合ってますけど……あんまり離れない方がいいですって、最近は物騒で」
「はいはい」
つかつかと進むニコラの歩調は、紬を起こさぬよう気遣うアイカのそれよりも余程早い。理由もなく上機嫌で、鼻歌なんか歌ったりしている。その背中が離れていって、人波に飲まれて見失いそうになるものだから、アイカの方も慌てて足を速めた。
その途中。ふと通り過ぎた路地裏の闇の奥に、きらりと光るものが目を掠めた。
「……? なんだ?」
その光に気を取られて、アイカが足を止めた時間はそう長くはない。ニコラに追い付こうと、すぐに意識を切り替えて歩き出そうとする。
その瞬間、『それ』は来た。
「――ッ!?」
アイカ・カルヴァンという人間の特徴として、計画立てて物事に当たることが非常に得意であることが挙げられる。先の見通しを十分に持って、その際に考え得る障害、起こり得る事態への解決法も予め予測し、冷静に対処することが出来る。
だが往々にしてというか、この種の人種に有りがちなことだが、自分の予想を振り切るような突発的な出来事に直面すると必要以上に狼狽してしまうという弱点がある。
例えば、不意に剛力で路地裏に引きずり込まれるとか。
「いッ、てえっ!?」
勢いのままに石畳の上を転がされたアイカは、紬を通りの側に放り出すと即座に背中のホルスターから銃を抜いた。引き寄せられた方向、相手のいるはずの方向にその腕を向けるも、アイカの瞳には闇しか映らない。
しかしアイカの嗅覚は同時に、本能的に危険を感じさせる臭い――噎せ返るような生臭さを捉えていた。
(……いない……?)
急な展開に動転し、緊張に身体を強張らせていたアイカは、敵がいるはずと見定めた先、真正面ばかりに気を向けていた。その結果として、他の方向への警戒意識が薄れた。
例えば、そう――真上とか。
「……どこ、見てんだァ?」
「―――!」
拳銃が地面に落ちる。
声とともに降ってきた足が拳銃を弾き落として着地した。もう一方の足が振り上げられ、貫かんばかりの勢いでアイカの鳩尾にめり込み、彼の身体をコンクリートの壁に叩きつける。
「っか、は……ッ! あ、ぐッ」
アイカの腹部を踵で踏み躙る力は、人間のモノとは思えない凄まじい膂力だった。内臓が破裂する――すでに破裂しているのではないかと疑わされるほどの。
飛ばされそうになる意識をぎりぎりで保ちながら、目の前の黒衣の人物を見降ろしたアイカは目を疑う。
(――お、女!?)
筋肉質でありながらも締まるところは細く引き締まった、しなやかな獣のような身体。
これ以上ないほどに愉しげに口端を吊り上げ、振り乱した黒髪の下に覗くのは禍々しい輝きを放つ金色の瞳だ。
その輝きは、先ほどアイカが路地裏の暗闇に認めたものと同じものだった。
「っと、危ねェな」
「がっ……ぐ、あ!?」
腰から銃を抜こうとさり気なく下ろした掌も、抜け目なくナイフで貫かれる。保険保険、などと緊張感なく呟いた女は、もう片方の掌にもナイフを突き刺した。貫いたばかりの右手首を掴み、アイカの右肩の横、コンクリートに縫いつける。
そして、もう片方の手を、アイカの右掌を貫くナイフへと添えた。
「――ッづ、あああぁぁ!」
猛烈な腕力だった。
女は自身の力だけで。ナイフをコンクリートに食い込ませたのだ。
それも刃先だけではない、アイカの掌を磔にするほどにまで深く。
「っ、は、あっ、あ、あ、ぎ、い――ッ!」
「これで良し、と」
左の掌も同じように磔にし、女はアイカに顔を寄せた。鼻先が触れ合うほどの距離で、大きく見開かれた瞳、寄せられた眉根、強く食いしばられた口元を、――苦痛にゆがむ表情を堪能する。
そして、恍惚と笑った。
「いい顔すんじゃねェか。悲鳴抑えなかったら、もっといいぜ?」
狂気を孕んだ――否、狂気そのものの権化とすら言えるようなその笑顔に、アイカの背中が凍りつく。磔になっているのは両掌だけでまだ自由になる部分は残されているはずなのに、全身が竦んで動かない。
震えることすらままならないアイカの頬に、女は取り出したナイフを突き付けた。頬を薄く切り、暗い中でも鈍い輝きを放つ刃物をゆっくりと下ろし、肩口に触れたそれを食い込ませていく。
急がず、捕らえた獲物を殊更に嬲るようなやり方。
それをこの女は、間違いなく楽しんで――。
アイカを蹂躙せんとしていたナイフが空高く弾き上げられた。
女の顔面目掛けて放たれたその一撃――鉄パイプの一振りを、咄嗟に身体を引いた女に避けられる。二撃目は女自身を狙ったものでなく女をアイカから引き離すことを意図したものだった。
その意図通りに数歩下がった女とアイカの間に、凹凸の少ない薄い身体が割り込む。その人影は鉄パイプを握った手をだらりと下げて女の前に立ちはだかった。
先程まで泥酔して眠っていたとは思えないほどに凛とした表情の紬が、そこにいた。
「ごめん。寝てた」
「……ッ、知って……る、つーの」
「うん」
言葉少なに頷いた紬は女を見据えて瞬き一つしない。紬が鉄パイプを逆手に握り、身体を守るように振り上げるのと女のナイフが彼女に襲いかかるのとは同時だった。強い衝撃を受けて、紬の身体が僅かに傾ぐ。
金属同士が擦れ合う耳障りな音を高く響く。鉄パイプとナイフの競り合いは一見拮抗しているように見えたが、紬の表情は厳しかった。
「お前、何の真似だよ?」
「………ッ」
「イーイところを邪魔してくれやがって、よォ!」
顔を近づけられ、爛々と輝く金色を目の前に見せつけられる。人を呑みこみかねないほどの強い輝きを目の前に、紬は顔をしかめて女を突き放して足を引いた。
物凄い膂力と競り合った腕は気怠い重みを帯びていた。この短時間でコレだ。どれほどの馬鹿力なのかと舌打ちをして、女と向き合おうと鉄パイプを構え直す。
その時には既に、懐を白刃が駆け抜けていた。
(――速ッ……!?)
反射的に身を引いたものの、脇腹から肩口までを斜めに切り上げられて紬は息を詰めた。血糊に濡れたナイフが即座に下ろされる、その二振り目を鉄パイプで受け止めたが、紬の劣勢は明らかだった。不利な体勢で斬撃を受け、耐えきれずに膝をつく。
真上からの押し潰されるような圧迫感に、紬は自分の腕が軋む感覚を味わった。
このままじゃ折られる。それは誇張でもなんでもない、確かな危機感だった。
「――う、おッ!?」
鉄パイプを傾け、強く圧してくる女のナイフを縦に受け流す。勢いよく前につんのめった女の腹に鉄パイプを突き入れ蹴り飛ばすと、紬は地を蹴って体勢を立て直した。しっかりと地面を踏みしめて立ち上がり、受け身を取った低い体勢から自分を睨み上げる女を見降ろす。
やばいな、と紬は心の中で呟いた。先ほど斬り付けられた傷から溢れる血潮が服を染め上げ、肌を伝う。
深い傷ではないし、致命傷にはなり得ないものの――切迫したこの状況では、充分に致命的だ。
正直これ以上この女の相手をしたくないのだが、立ちはだかる紬の後ろにはアイカがいる。彼をその場に磔にするナイフを引き抜ければいいが、その猶予をこの女が与えてくれるとも思えない。
一瞬でも目を離したら切り刻まれる。
そう思わせるだけのものが、目の前の女にはあった。
「んァ? オイオイオイ兄ちゃん、無茶すんなよ?」
「……?」
女の視線はいつしか紬を通り越し、その背後に向けられていた。訝しげに眉を寄せた紬の耳が、荒い吐息と低く押し殺された呻き、そして――ばたばたと落ちる、不吉な水音を捉える。
まさか。紬は思い当たる可能性に目を見開いた。その目を女から逸らすことはできない、後ろを向くことなどできない、けれど、この状況から考えられることは。
答えは、紬の視線を縫い止めているその女の口から聞かされた。
「そのナイフ、結構深いぜェ? 自力で抜こうったって、大切なお手々がさらに使いものにならなくなるってだけの話――っとォ!」
勢いよく突き出された鉄パイプを、女は身を逸らして避けた。そのまま横に振り抜かれたそれを、大きく振りかぶった刃で受け止める。
否――断ち切った。
「……ッ!」
切り飛ばされた鉄パイプが紬の目の前を飛び抜けた。一転して必死さを強く滲ませていた紬の表情を見降ろし、女は喜悦に顔を歪ませる。
三本目のナイフがコンクリートの壁に食い込む。それは紬の左肩をも貫き壁に縫い止め、衝撃のあまり関節を脱臼させていた。力無く下がった腕、その掌から切断された鉄パイプが滑り落ちた。
金属と石が触れ合う空しい音が路地裏に響く。
「つ……くぅ、あ……ッ!」
「安心しろよ、あの兄ちゃんと同じように可愛がってやっからよォ?」
深く食い込む刃に、脱臼の痛みに紬が喘ぐ。女は顔を間近に寄せ、言葉通り、アイカにしたのと同じようにその様を愉しげに見つめる。
「紬! ……くっそォッ、っつう……!」
「まったく涙ぐましいなァ、無茶すんなって言ってんじゃねェか」
嘲笑を顔に張り付かせてアイカを振り仰いだ女は、次の瞬間その身体を大きく飛び退かせていた。
一瞬遅れて、銃声が響く。
「ッ……てめェっ」
「……ちょっと、油断しすぎ、でしょ」
壁に磔にされたまま、息も苦しげな紬の左手には、小型の拳銃が握られていた。咄嗟にかわしたものの完全には避け切れなかったと見えて女の脇腹から鮮血が滴り落ちる。
掲げられた銃口は小刻みに震えて安定しなかったが、紬は女を見据えてはっきりと断言した。
「この距離なら、外さない」
「へェ。やってみろよ?」
その宣言も鼻で笑い飛ばして、女は余裕を崩さなかった。紬の掌の中で揺れる銃を厭らしく笑いながら見つめている。
ただ単に嘲笑うためではなく、発射される銃弾を避けるためだ。
(……くそ)
抜かった。この女を仕留める最大のチャンスは既に逸してしまっている。紬が銃を持っていることが割れる前、女が警戒を解いて慢心に溺れていた瞬間に確実にその息の根を止めねばならなかった。先からの超人的な動きを鑑みると、傷を負わせられただけでも僥倖と考えるべきなのかもしれないが――それでは自分たちが生き残れるビジョンが見えない。
銃口は絶えず震えて、射程は安定しない。そもそも紬は銃撃が不得手だった。大見得を切ったは良いが、こちらを注視する女を確実に撃ち抜けるかと言ったら。
そして、外したらその刃に切り刻まれる。
「どうした? ン? さっさと撃てよ、なァ? あんまり待たせると――」
女が紬を煽る。異様な輝きを纏う目をまっすぐに向けて、自らの命を奪いかねない武器を握る紬を煽り立てる。
手に握ったナイフを汚す血を赤い舌で拭い、紬の動揺を誘うように嗤い飛ばす。
「こっちから、食っちまうぜ?」
「――それは困るな」
どこか緊張感のない声だった。
けれどその声は、この場の空気を一瞬で塗り替えた。
「この子らをあまりいじめないでやってくれ。大切な所員なんだ」
ぎりぎりに張り詰めた空気の中を、悠然とニコラが横切る。隻眼の女剣士は、黒衣の女を目指して真っ直ぐに歩いていた。小細工も遠回りもない、最短ルートを真っ直ぐに。ふらつくこともなく、確かな足取りで。
「てめェ……赤毛ッ……!?」
女が呆然と呟くのを聞き、その表情を見上げた紬は思わず息を呑んだ。
今までずっと、それこそ紬に脇腹を撃ち抜かれた瞬間でさえその余裕を崩さなかった女が――明らかに危機感を滲ませている。焦燥に、駆られている。
「いかにも。私は赤毛だが……それがどうかしたか?」
答える間にも、ニコラと女との距離は詰められていく。そのペースは性急ではないが、着実だ。
あくまでも自分の歩調を崩さずに進むニコラは、後一歩で女を切り捨てられるくらいの距離を置いて足を止めた。腰の剣に手をかけて、静かに言い放つ。
「それ以上うちの所員に手を出すと言うのなら、私が受けて立とう」
堂々たる宣言だった。
必要以上なまでの敵意を剥き出しにしてニコラを睨み返していた女は、苛立ちを露わに表情を歪め――高く、跳躍した。窓の桟に足をかけ、建物の間を上へ上へと驚くべき身軽さでもって駆け上がってゆく。
その姿が遠く、闇に溶けたのを確認してから、ニコラは剣からその手を離した。
「……大丈夫か、紬、アイカ?」
「大丈夫……っでも、アイカ、が」
「無理をするな」
「……っ」
紬の肩のナイフを引き抜き、しゃがみ込んだ彼女を労わるように頭を撫でる。抱き締めてやりたいと思ったが、彼女の言う通りその場合ではない。
ニコラはアイカの前で立ち止まり、力無く項垂れた彼を見遣った。気遣う言葉にも返答を返さなかった彼、その右掌を貫くナイフを両手で掴む。傷口は意図的に抉られ嬲られたように凄惨だった。
痛むぞ、と警告してナイフを抜く。解放された腕がぐったりと落ちて、アイカの身体は右に傾いだ。それを肩で受け止めて、同じように左掌の拘束を外した。拘束と呼ぶにはあまりにも痛々しいが。
「………」
「おっと」
完全に磔の体勢を解かれアイカの身体は前のめりに崩れた。ずっしりと重いその身体を、ニコラは両腕で受け止めた。よしよし、と紬と同じように頭を撫でてやる。
「……みません」
「ん?」
ニコラの腕の中で、アイカの声はひどく弱々しい。顔をうつむけたまま自分の足で立とうとするアイカに、ニコラは肩を貸してやった。紬の方へと歩きながら、次の言葉を待つ。
「……すみません、俺が……不甲斐ない、ばかりに……ッ」
なんだ、とニコラはそれを軽やかに笑い飛ばす。
「そんなことはどうでもいい。……今は自分の心配をしろ」
自らが磔にされていたコンクリートの壁に身体を預けていた紬は、ニコラの助けを借りながらとはいえアイカが立っていることにいくらか安堵したようだった。こびり付いた血が乾きつつある顔で、僅かに表情を緩める。
「……大丈夫? アイカ」
「ああ、大丈夫だ。紬、お前も自分の心配をするべきだぞ」
ニコラはアイカを紬の隣に座らせると、上着のポケットを探った。取り出した通信端末のボタンを押して、座り込む二人に声をかける。
「紬は気に入らないかもしれないが。……一つ、信頼できる運び屋の力を借りる」
酩酊してようが関係ない、奴の運転は信用できるからな、と呟いて。
(2010/09/20)
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