響く咆哮

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 自らの事務所とは好対照に綺麗に片づけられた部屋のソファに腰掛け、ニコラは腕を組んで黙りこくっていた。その表情は沈鬱とまでは行かないが、明るいものとは程遠かった。
 そのニコラに背中を向ける形でソファの背もたれに両手を付き、体重をかける形で立っているのはハルトだ。彼の表情もニコラと同様にやや厳しい。つい数時間前に摂取した大量のアルコールは身体から抜けきっていないのは両者に共通することだが、とてもそうとは思えないような静粛な空気がその場を支配していた。
「……悪かった」
 永遠に続くかとも思われた静けさを破ったのはニコラの方だった。指先ひとつ動かさず、表情ひとつ変えず、口だけを動かして背面のハルトに謝罪を述べる。眇められた隻眼から窺えるのは、深い深い後悔の念。
「何がだ」
 短い謝罪に対して、短い疑問が返される。分かり切ったことを尋ねるその言葉は、問いの形を為してはいたが、その実問いなどでは全くなかった。
 それを裏付けるように、ハルトはさらに言葉を重ねる。
「俺はお前に紬を守れと頼んだわけじゃないんだぞ」
 むしろハルトにとっては、こちらの方が分かり切ったことだった。
「紬を守るのは紬自身だよ。こんなのはあいつが選んだ道の延長線上だろ、お前のせいにするもんじゃない」
「そうは言うがな、所員の身に起きたことの責任は所長が取るものだよ。私に責任がないということはない」
 背を向けたまま、視線を交わさぬままのやり取りは決して険悪なものではない。それでも奇妙な緊張感がその中に満ち満ちていた。
「所長としてのお前には、運び屋としての俺として対処するさ。運び屋の俺に、お前が謝る理由はない」
「………」
「むしろ、毎度のご愛顧ありがとうございます、ってなもんだ」
「……そうか」
 すまないな、と小さく零された声を、ハルトは聞こえなかったふりをした。話を打ち切るつもりで背中を合わせていた相手を振り返る、それと同時に奥に続く二つのドアのうち一つが開かれた。二人の目が同時にそちらを向く。
 開けられたドアから現れたソーニャは相変わらず冷めた表情をしていて、血でまだらに汚れた手術着を着ていた。手袋とマスクを脱ぎ捨て帽子を取り、押さえつけられて癖のついた前髪を整えながら口を開く。
「終わり。アイカさん、後遺症は残らないよ。……医者の言いつけさえ、ちゃんと守れば」
「そうか、よかった。……ありがとう」
 味気ない報告を受け、けれどニコラは心からの安堵に表情を綻ばせた。その表情を見て、も尚、ソーニャの言動は素っ気ない。呆れたような様子で再び口を開いた。
「今は眠ってるから、あいつが大事ならあとでちゃんと言っといてね。オレ的にはどうなっても知ったこっちゃないんだけど、本人のためだよ」
「分かっているよ。ちゃんと言っておく」
「アイカに対しては伊鶴さんから言うのが一番効くんじゃないのか?」
 ハルトの軽口に、ニコラとソーニャは大真面目に頷いた。間違いない、と断言するあたり、アイカの言動は相当分かりやすいところがあるようだった。少なくとも、この場の三人の思考が見事な一致を見せるくらいには。
「……紬はどうなんだ」
 もたらされた吉報に和やかな空気が漂ったものの、それも一時のことだった。もう一方の、未だ閉ざされたままの扉に目を向け、ハルトが静かに問いかける。
「大丈夫でしょ」
 ソーニャは手術着を脱ぎながらあっさりと答えた。
「そう深い傷じゃない。傷自体は大きいから針数は増えちゃうだろうけどね、アイカさんよりも治りは早いんじゃないの?」
「そうなのか?」
「アイカさんと違ってそう嬲られたわけでもないみたいだし、そんなもんだよ」
 ソーニャがそう答えると共に、軋むような音を立てて扉が開いた。待っていた二人にとっては開かずの間のようにも思えていたその向こうから、伊鶴が顔を覗かせる。
 彼女が浮かべていた笑顔は、見る者に絶対の安堵を感じさせるような暖かなものだった。
「お待たせしました、ニコラ、ハルトさん。……紬さんは、大丈夫です。手術成功ですわ」
 ソーニャとはひどく対照的なこの語り口を聞くたび、ハルトは本当にソーニャは伊鶴の弟子であるのか疑いそうになる。確かに医療技術はしかと受け継いでいるようだが、それ以外が違いすぎるのだ。性格の問題かもしれないが。
 手術着を脱ぐ様子にすら母性を感じさせるのだから、アイカが参ってしまうのも無理がないような気もした。
「まだ眠っていますけれど――ちゃんと安静にさせてあげてくださいね。あなたに限ってそんなこと強要しないと思いますが……ちょっと無理をしちゃうところのある子ですから」
「ああ。……大切な所員だ、意地でも縛りつけておく」
 念を押され、ニコラは素直に首肯した。頼もしいですわ、と伊鶴が掌を合わせる。ハルトも同じ気持ちだった。ニコラとも、伊鶴とも。
 サーシャに連絡してくる、と通信端末を片手に部屋を出て行ったニコラを見送り、ハルトは伊鶴に問いかけた。
「……紬は暫く目覚めそうにないのか?」
「そうですね、眠らせていてあげてください。ただでさえ消耗していたのです、手術が重なれば尚更ですわ」
「大丈夫、分かってる。……顔見るの、駄目か?」
 ハルトの申し出に殊更に反応したのはソーニャだった。今まで以上にあからさまな呆れ顔を彼へと向け、やれやれと身振りまでつけて嘆息してみせた。意地悪い笑みを顔に貼り付け嘲るようにしてハルトに言う。
「心配性だねえ。そんなんだから過保護扱いされて嫌がられるんだよ」
「そう過保護でもないと思うんだがなあ」
 それに心配性でもない、とソーニャに否定してからハルトは続けた。
「顔見たいだけだよ。それだけで、大分気が楽になるだろ?」
 当たり前のことを当たり前のように言ってのけたハルトはそれ以上ソーニャには構わず、再び伊鶴に確認をとってから紬の眠る部屋へと入って行った。
 彼を見送ったソーニャと伊鶴の視線が交錯し、一方は呆れ一方は笑う。奇妙な和やかさがそこには満ちていた。
「ソーニャ」
 不意に声をかけられ、ソーニャが振り向く。先程出て行ったニコラが通信端末をちらつかせてソーニャを見ていた。もう一方の手でソーニャを手招きする。
 怪訝な顔をしてニコラに寄って行ったソーニャの鼻先に通信端末が突き出される。
「え、何」
「サーシャが用があるそうだ」
「あ――」
 双子の妹の名前を出された瞬間、ソーニャの表情ははっきりと変化した。差し出された端末を受け取り、ニコラと入れ違いに部屋を出ていく。
 その背中を見送り、伊鶴は声を立てずに柔らかく笑った。笑顔の理由が掴めずニコラが首を捻った。
「どうかしたのか?」
「いいえ。……ハルトさんもソーニャさんも、結局は大好きなだけですよねって」
「何の話だ」
 容量を得ない回答にニコラの首がさらに捻られる。そんな彼女の困惑を軽く流した伊鶴は、ふと顔を引き締めるとニコラを見返した。彼女の様子の変化に、ニコラの目つきもやや鋭さを増す。
「何が起きたのか、聞かせてもらえますでしょうか」
「ああ、そうだな」
 ハルトの運転で担ぎ込まれてから今に至るまで、ニコラは事情を話してはいなかった。怪我を負った二人を見るや否や医者は何も聞かずに手術の用意をしていた。
 今ここで質問をしているのは、医者としての伊鶴ではなく、ニコラの友人としての伊鶴である。
「――簡単に言えば、通り魔だな」



「へえ……うちで飲んだあとにそんなことが」
「アイカさんと紬ちゃん、大丈夫なの?」
 事件から三日後。
 給仕の傍らハルトから経緯を聞いたディックとレティーシャは一様に表情を曇らせ、彼らの身を案じた。そして同時に、同様に視線を移す。
 ウォッカを片手にカウンターに突っ伏し、黙りこんだままのサーシャの方へと。
「……とりあえず、あの二人は大丈夫だ。今は事務所でニコラが看病してる」
「それはそれで心配だけど……」
「レティーシャちゃん、ちょっと来とくれ! 注文注文!」
「あ、はーい!」
 地味に失礼な懸念を零していたレティーシャはオーダーを取りにその場を離れた。離れていく彼女の背中を見送って、ディックはうつ伏せたサーシャの方を再び向く。相変わらず微動だにしない彼女を見降ろして軽く肩を竦めた。
「……また、やたらめったら落ち込んでしまっていますねえ」
「だよなぁ。そんな気に病むことはないだろうによ」
「気に病む? 何をです?」
「それはお前、このタイミングなんだから紬とアイカの怪我だろ」
「はあ。……でも、どうしてそれでサーシャさんが……って」
 自分の頭上で交わされてゆく会話に対して何か思うところあったのか、サーシャは唐突に顔を上げた。その表情は重く、暗い。思わず二人の会話が途切れるくらいに。
「……どうしても何もないわよ」
 サーシャは表情と寸分違わぬ声音で言った。
「私が余計なこと言わなければ紬は飲みに行かなかったのよ」
 サーシャの言葉を受けて、ディックが目を丸くしてハルトを見た。ハルトは何も言わずに肩を竦め、それだけで明確な答えを返しはしなかった。
 止むを得ずディックが後を引き取る。
「……つまり、二人が通り魔に遭ったのは、自分のせいだと?」
「………」
 無言で頷くサーシャを見てハルトはやれやれと苦笑していた。ディックもまた気の抜けた声を漏らして暫し黙り込む。
 常に止むことのない喧騒に満たされた店内の中で、彼らの間にだけは確かな沈黙が訪れていた。ディックがグラスを磨く音のみがやけに空しく響く。
「……わかってるのよ」
「ん?」
「馬鹿なこと気にしてるってことぐらい、分かってるの」
 サーシャは再び腕に顔を埋めてしまうとくぐもった声で小さく漏らした。拗ねた子供が駄々をこねるような彼女の様子に、男二人が顔を見合わせる。
 彼女の声は、今にも消え入りそうだった。
「……でも、考えちゃうのよ……もし、私が余計なこと言わなかったらって」
「……そっか」
 依然としてうつ伏せたままの彼女の頭を、優しい掌が撫でた。彼女の想う人のものではない、それでも十分に優しい、大きな掌。
 いくら優しくても大きくても、彼女の想う人のものには成り得ない、大きな掌。
「……そうなの」
 それでもその優しさは、彼女にとっては有り難いものだった。
「その程度で落ち込んでたら大変だと思いますけどねえ」
「……わ、分かってるけど」
「ディック、お前なあ」
「あはは」
 サーシャが落ちついたかと思われたところに吐かれたディックの予想外の辛口に、ハルトは呆れたような声を漏らした。この男、紳士的かと思いきや思わぬところで毒を吐くから油断できない。今の発言は毒と言うにはやや生ぬるいが。
 だってそうでしょう、とディックは口を止めない。
「本当に、その程度でいちいち気にしてたら身が持ちませんよ。少々優しすぎませんか?」
「紬は友達なの。仕方ないじゃない」
「友達」
 重い言葉ですね、とディックが笑う。
「……まあ、そういうスタンスを貫きたいのならそれはそれで素敵なことですよね。……ウォッカはいかがです?」
「んー……いただくわ」
「かしこまりました」
「……いや、それでいいのか?」
 したり顔でにこやかに答えるディックと僅かに顔を上げて頷くサーシャとを見返して、ハルトは一連のやり取りの間に一度も名前が出なかった一人の男に対して思いを馳せずにはいられなかった。確かに彼は友達だとかそういう関係とは違う気がするが、それにしてもこの流れで全く触れられないのもどうなんだ。
 彼女の事務所での彼の立ち位置をそれなりに心の底から心配しながらも、ハルトは長い間手をつけていなかったビールジョッキを握った。温くなる前にさっさと飲んでしまおうと一気に呷ったその矢先、一つ間を開けて隣の席に誰かが座ったのに気付いた。
「マスター、ジントニックを」
 来客かと何の気なしに視線を移したハルトの、アンバーの瞳が見開かれる。
「……ユ」
「あー! あなた!」
 咄嗟にジョッキを口から話したハルトよりも店主として彼に応答しようとしたディックよりも、サーシャが大声を上げるほうが早かった。
 彼を指差し、きつい口調でさらに言い募る。
「マリアットじゃない! どうしてここにいるの!?」
「……どうして、と言われましても」
 ディックから差し出されたグラスを見つめながら冷めた口調でそう返したのは、ロングコートを羽織ったマリアットその人である。サーシャの詰問にも動じず涼しい顔でジントニックを煽る。
「酒を飲みに酒場に来ている。ただそれだけのことがいけませんか?」
「……いけなく、ないけど。でもー……」
「……知り合いなのか?」
 不満げに口を尖らせたサーシャにハルトが尋ねる。ちょっと仕事でね、と答えたサーシャの表情が芳しくないのを見るにつけ、良好な関係でないことが窺えた。
「それより、ハルトは? 知り合いなの?」
「……いや、」
「初対面ですよ」
 躊躇いがちのハルトの否定に被せるようにしてマリアットは言った。カウンターの向こう側を見つめながら、ハルトには目もくれないまま。
 念を押すように再び口を開く。
「そうですよね? リーンハルト・ハイゼンベルク」
「……そっちからは知ってるってワケかよ。光栄だな」
「ええ」
 口元だけで笑みを作って、相変わらず視線はハルトを向かない。
 友好的な態度など欠片も見せず、向けられる言葉には敵意すら感じられた。
「有名でしょう? そちらでは」
「人違いだろ」
 煽るような口調でのマリアットの問いを軽く受け流したハルトは、笑みを浮かべながら否定を口にした。残っていたビールを飲み干し、カウンターに勢いよく音を立ててジョッキを置く。
「変なネタ掴まされたんだろ? 情報元はしっかり確認しろよ、いつか赤っ恥かいちまうぞ」
「有り難くも余計なご忠告、心から感謝します。精々が肝に銘じておきましょう」
 表面的な言葉が交わされる様子を、サーシャはウォッカを嗜みながら、ディックはカクテルを作りながら見守っていた。
「グラスホッパーをお願いします。とっておきで」
「かしこまりましたー」
 いつまでも止め処なく続くかと思われた冷戦じみたやりとりを打ち切り、マリアットはコートの懐から通信端末を取り出した。掌に収まるサイズに目を落とし弄ぶ姿からは、会話を拒否し、干渉を拒絶する姿勢が如実に感じられた。
 横顔からその様子を見て取ったハルトは、もうそれ以上彼には関わろうとはしなかった。
 軽く肩を竦めて、喧騒に紛れるほどの小さな声で呟く。
「とっておき、なあ……」
「……知らないうちに結構慣れちゃってるのね、お店に」
 紛れさせたはずの声を拾われ、ハルトは目を丸くして応答の先に視線を向けた。見落とした先、鼻先に触れるくらいの近くに、酔いで僅かに上気したサーシャの頬が見える。やや無防備な柔肌から顔を背けて頬杖をつく。
 欲を誘われたわけではないが、自分の雇い主のことを思うとどうにも決まりが悪い。
「ま、お前もそんな頻繁に来るわけでもないだろ?」
「そうだけどー。新参者かと思ってた相手が全然新参者じゃなかったって、なんとなく先越されたみたいでショックなのよね」
 瑣末なことだと分かりつつも拗ねてみせたサーシャは、注文されたとっておきを男に出したばかりのディックを捕まえて口を尖らせた。
「ねえディックさん、トライフルちょーだい? ジャイルズさんが紬にサービスしてくれたっていうのと同じの!」
 見上げるようにして拳を握るサーシャの注文に、ディックは戸惑ったように首を傾けた。微かな困惑に眉が寄っている。
「え、ああ、あの日のですか? でも」
「サービスしてとは言わないわ! ちゃんとお金払うもの、オーダーよオーダー」
「あんま無茶言うなよ、サーシャ」
「なんでよ」
 妙な歯切れの悪さを見せるディックに内心首を傾けながらもごり押ししようとしたサーシャは、隣の男からの制止に思わず鼻白んだ。反射的に噛みつくような問いを返してしまう。
 そんな彼女を取り巻く二人の男は目を合わせ、お互いに気遣うような笑みを漏らした。
「なに? なんなの?」
「ジャイルズは今日休みだ。こればっかりは仕方ない」
「……そうなの?」
「実は」
 シェフ不在なんですよ今、と、ディックは声を潜めて囁くようにした。困ったように眉を下げ、立てた人差し指を唇につける気障な仕草が妙に様になっている。
 そういえば先程からひっきりなしに人の間を縫い歩くカルラの手に、料理の類があったためしがない。主に酒類、もしくは本当に軽いつまみのような代物ばかりで店を回している様子だった。
 注文を受けてカクテルを作るディックは、やや弱った表情そのままに、けれどそれほど深刻には思えない愚痴を漏らした。
「ジャイルズがいない間、カルラが入ってくれればいいんですけどね。今日はあの子も忙しいみたいで」
「へえー……」
「忙しい、なあ」
 怪訝な顔をしてハルトが呟く。
「最近は通り魔だのチームだの物騒だし、忙しさにかまけて気を緩めてなきゃいいんだけどな」
「まあ彼女も自警団の一員です。それなりに身を守る術も心得ていますし」
「紬とアイカであのざまだぞ。それなりでどうにかなるもんじゃない」
「やけに心配しますねえ。……まあ彼女も一人の成人です、そう縛っておけるものでもありませんよ。それに、彼女には彼女のやりたいことがあるんです」
 瓶からタンブラーにラム酒を注ぐ目つきは真剣だが、口調は妙におどけている。
「やりたいこと、ねえ……」
 そのどちらを真に取っていいのか分からずに、ハルトは渋面を作った。その横でサーシャは酔いに任せてカウンターに頬を突っ伏す。肌に伝わる冷たい感覚が気持ちよく、やみつきになりそうだった。
 けれどぐるぐると、回り続ける思考は冷えない。
「……つむぎー、アイカさんー……」
「あ、スイッチ入った」
 子供をあやすような手つきでサーシャをの頭を撫でてやるハルト。
 どこか和やかな光景を見降ろして、ディックが小さく息をついた。
「……まあ、カルラも最近の情勢は耳に入れているでしょう。無闇矢鱈に自分の身を危険に晒すようなことはしませんよ」
「そーかぁ? あいつら二人とも、割と危ない橋ほいほい渡りたがるタイプに見えんだけど」
「仕方ないでしょう。なにせあの二人は――」
 続くはずだった言葉は、激しく椅子が引かれる大きな音に遮られた。
 音の発信源に視線を向けると、通信端末を耳に当てたマリアットが急に立ち上がったところだった。常はひどく冷めきった青灰色の瞳が、僅かに高揚の色を見せている。
「………?」
 口元に当てられた手と店内のざわめきに遮られて、彼の会話は三人には届かない。興味津々にマリアットを見ていたサーシャは、それでもこれ以上身を乗り出すことも近付くことも出来ずに歯痒く思った。
 注視されていることに気付いているのかいないのか、不意にマリアットは端末を耳から離すと、財布から紙幣を数枚取り出してカウンターへと置いた。
 先程から自分を気にしていたディックに言う。
「お代です、釣りはいりません。ごちそうさまです」
「あ、はい! ありがとうございました」
 急ぎ足で店を出ていくマリアットを見送ってから、三人は顔を見合わせた。
「……仕事かしら?」
「かねえ。マリアットっつーと最近はまあ……」
 頬杖をついて虚空に視線を彷徨わせたハルトは、開きかけた口を一旦閉じて考え込んだ。その顔をサーシャが覗きこむ。
「最近は?」
「いや、たまに名前を聞く。割とお前らと仕事被ってんじゃないか? 会ったことあるんだろ?」
「……うぐ」
「ハルトさんは?」
「ん?」
 急に振られてハルトが眉を上げる。口に笑みを湛えたディックが彼を見つめていた。
「いえ、彼を知っていた素振りだったので」
「いやだから初対面だって言ってただろ。知ってたのは名前と評判だけだよ。……思ったより若かったな、驚いた」
「……本当ですか?」
 軽く答えたハルトに対して、釈然としない表情のディック。食い下がる様子を見せるディックとハルトのやり取りを、サーシャは不思議そうに眺める。
 ハルトは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「本当だよ。なんでそんなに聞くんだ?」
「妙に驚いていらっしゃったので。見覚えがあるのかと思いまして」
「変なナンパの常套句みたいにするのやめろよ」
「そちらこそ、変に否定するのをやめた方が――失礼」
 男二人の攻防戦を断ち切ったのは無機質な電子音で、ディックは軽く会釈してポケットから通信端末を取り出すと二人に背を向けた。店の奥に下がる背中を見送り、ハルトとサーシャは意味深な視線を交わした。
「……今日はよく連絡が入るな」
「みんな忙しいんじゃないの」
「私も忙しいわよー……」
 後ろから恨めしげな声をかけられて二人が振り向くと、そこには空のジョッキを大量に抱えたレティーシャが立っていた。
「姉ちゃん、キール頼むよ!」
「あ、はい!」
 慌てて注文に応えたレティーシャは、ジョッキに勢いよくビールを注ぎ足しながらディックの不在を確認して肩を落とし、空いた手でカクテルグラスとカシスの瓶を取った。恨めしげに愚痴を漏らす。
「ディックは何してんのよ? そもそもジャイルズだってカルラが入れるように休んで欲しいわよね、仕方ないっちゃ仕方ないんだけど!」
「手伝おうか?」
「いいわよめんどくさい。つーか酔っ払いにやらせられっか店のことを、調子乗んじゃないわよ」
 申し出を軽やかに切り捨てられハルトが苦笑する。目を三角に吊り上げたレティーシャはハルトの顔を見て複雑な表情をした。怒ったような弱ったような、もどかしげな表情。
 サーシャはそれに、思わず目を奪われてしまっていた。
「悪かったな。……っていうかお前はカルラのこと心配じゃないのか、妹だろ」
「妹だけど私には感知できないところにいるの! ……嘘よ、心配だけどどうにもできないでしょ。あの子やジャイルズのしたがってることは分かってるし、気持ちも分かるもの」
 グラスにカシスを注いでから白ワインを取ったレティーシャは、キールを作りながら僅かに肩を落とした。それも一瞬のことで、追われるような忙しさで一杯に満たされたビールジョッキとキールを両手に持つ。
 それじゃ、とレティーシャがカウンターを離れたのと、ディックが店の奥から出てきたのとが同時だった。ディックは離れる背中に向けて口を開いて、諦めたように肩を落とす。
 その姿をハルトが見咎めた。
「どうしたんだ? なんの電話?」
「あー、いや……いえ、なんでもありません。彼女に伝えておこうかとも思ったんですが、忙しいようなので」
 カクテルの注文を受けながらカシスを手に取ったディックは、ハルトに対してそう答えた。常に澱みなく話す彼には珍しく、やや煮え切らない口調にハルトは訝しげな顔をする。
 そしてサーシャはと言えば、彼とは正反対にどこか得心のいったような顔をしていた。
「……んー……?」
「……で、お前もどうしたんだ、なんだそのカオ」
「え? うーんと、あのね」
 そのままハルトに問いかけられ、サーシャは笑顔で手を合わせた。
「今度ちょっとお話したいなって、そう思ったの」
「……誰と?」
「えへへ」
 ひっみつー、と上機嫌に笑って誤魔化すサーシャと、さっさと他の客のところに逃げていってしまったディックと、掴みどころのない二人に挟まれたハルトは釈然としない表情で首をひねるしかなかった。

 ディックは注文を受けたカシスオレンジを客に渡しながらも、空のジョッキやグラスを持って戻ってきたレティーシャに何事か耳打ちした。
 レティーシャは耳打ちされて軽く目を瞠ると浮かない顔で小さく頷き、二人ともそのまま業務に戻った。

(2010/12/16)


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