「……はい、終わり」
ごちゃごちゃと乱雑な部屋で、ソーニャは処置を終えると医療器具を片付け始めた。ソファにもたれて治療を受けていた男は、頼りなさそうな笑顔でソーニャに頭を下げる。
「はは……すみませんね」
「すみませんねじゃないよ、まったく」
ソーニャは機嫌の悪さを隠さなかった。手を止めずに文句を並べ立てる。
「足の怪我で動けないとはいえ、中心街からはあんまり引っ張り出さないで欲しいね。何に巻き込まれるか分かったもんじゃない、そもそも『軍』の医師を頼れないの?」
「無理を言わないでくださいよ……」
男――デヴィッド・ソルビーは困りきった様子でソーニャを見上げる。
「私みたいな立場の者が、そう易々と『軍』から医者を借りられるわけがないでしょう」
「だからって……」
尚も言い募ろうとしたソーニャだったが、相手の顔を見て諦めた。これは何を言っても無駄な顔だ。せめてと念を押す。
「次からはもっと値を吊り上げるからね」
「恐ろしい……まだ上げるというのですか」
「嫌だったらやめろって言ってんの。オレだって嫌なんだから、こんなと――」
口上を遮る轟音、ほぼ同時に身体を震わす凄まじい振動。
ソーニャをよろめかせ、ソルビーを揺さぶり、積み上げられた酒瓶やグラスを床に転がしたそれらの発信源は――真上だった。
「……おい」
ぱらぱらと埃や屑が天井から落ちてくる。
ソーニャはひきつった顔をソルビーに向けた。足に銃創を負った手負いの男は、決まりが悪そうにソーニャを見返した。
「……は、はは」
「笑ってる場合じゃないよ! あーもうどうするんだこれ……」
「……あ、ちょっと」
階上の荒々しい騒音に上を見上げたソルビーが言う。
「早く出た方がいいかもしれません。今部外者が見つかったら色々面倒みたいで」
「そんな危険な状況で呼び出すなよ馬鹿!」
「いえ、上の様子から推測したまでなんですが……」
「そんな事情知らないよ!」
ソーニャは鞄に荷物をまとめると机上の財布を奪い取った。何事を、と訝しげなソルビーに、抜き取った札を示す。
「これに懲りたらもうこんなとこに呼ばないこと!」
「え、でも、この場合懲りるのはそちらなのでは――」
「うるさい!」
噛みつくような反論を残してソーニャは扉を開ける。建物から飛び出したソーニャの誤算というか、想定外というかは、
「――んなッ!?」
「うぐ!」
常識的に考えて有り得ない、人間が上から落ちて来るという発想である。
上階から降りて来た男の足が見事に直撃し、ソーニャは横倒しにくずおれ倒れる。凄まじい衝撃に身動きひとつ叶わず、起き上がれないままに地面を転がった。身体に雷が落ちたかのようか錯覚さえ覚える。
それは落下してきた人間も同様だったようで、こちらは無様に転がることはしなかったものの、バランスを崩して地に膝をつく。うずくまった黒い影が、ソーニャを見降ろして声を上ずらせた。
「アンタ何やってんですか!?」
「っ――」
早々に立ち直ったマリアットに対して、ソーニャは地面に這い蹲ったままだ。思考もままならず、後を引いて身体を苛む衝撃に苦しむ。ソーニャの様子を見降ろして舌打ちをしたマリアットは、上を見上げ――
「っく!」
身動きが取れないソーニャの腕を掴み、建物の中に転がり込んだ。遅れて銃声が響き地面に無数の穴が穿たれる。マリアットは銃を抜き放つと建物の中の人間――ソルビーに突きつけた。
ソファに凭れたソルビーは、慌てた様子で両手を挙げた。
「わあ、何――何でしょうか!?」
「………」
マリアットは答えない。警戒心を剥き出しに、銃を突きつける腕は微塵も揺れない。ソーニャから手を離して自由になった手で、油断なく背後のドアに向けて銃を構える。
ソルビーが床のソーニャに気付いて呟いた。
「……も、戻ってきてしまったのですか」
「……あんたがこの医者を呼んだんですか」
「は、はい……。とんでもないことに巻き込んでしまったようですが」
あんたが言うな、と。床から起き上がれないままのソーニャの思いは言葉にならなかった。状況を呪う声は外には出ず、鬱屈とソーニャの中を満たしていく。
「チェックメイトだ」
外から聞こえた声にマリアットが振り向く、その頬を小刀が掠めて床に転がり耳障りな音を立てた。頬を伝う血を拭うこともせず、刀を握った赤毛の、顔に傷のある男を睨みつける。
銃はつきつけたまま。引鉄は引かない。
「賢い選択だな」
緩やかに笑う男とは対照に、マリアットは不機嫌そうに顔をしかめた。
階段を下りる騒々しい足音がソーニャの耳を打ったが、身体的にも状況的にも起き上がることなどできはしなかった。まして、逃げることなど。
「銃を下ろせ。連行する」
ああ、肩が痛い。どうやら脱臼しているようだと朦朧とした意識の中で考えた。遠く聞こえる声が現実味を失って、ぶつりと視界が闇に落ちた。
気がついたときには床に転がされていた。
「……いっ……てぇ」
依然外れたままの肩が痛みを訴えてくる。嵌め直そうと動かした腕が、動かない。
「え?」
そこで状況を思い出し、今の自分の状態を再確認した。見たことのない殺風景な部屋、縛られた手首と足。外れた肩を床側に横向きに転がされていて、自分を運んだ人間を恨まざるを得なかった。それ以前に恨むところが多すぎるが。
首を動かすと窓が見えた。階こそ違うものの、どうやら先ほどまでいたのと同じ建物のようだ。
そう遠くまで連れ去られたわけではないようだと、自分の状況に少し安堵する。
そのソーニャの思考を、
「あら、起きたんですか」
そもそもの発端と同様に、上から降ってきた声が遮った。
身体を無理矢理動かして発信源を見上げると、相変わらず気怠そうな顔をしたマリアットがソーニャを見降ろしていた。拘束もなしに、立ち上がって。
「……なんでオレが縛られてて君が縛られてないのさ」
「解いたからです」
「そこでオレを解いてやろうとかいう考えには至らないの?」
「なんでですか」
至極不思議そうに問い返すマリアットに、ソーニャはよっぽどキレてやろうかと思った。
「どう考えてもお前が巻き込んだんじゃんか!?」
「騒がないでください、誰か様子見に来ますよ。それに、どちらかというとあの男が……いえ、まあどちらでもいいです。足手まといは邪魔になるというだけの話なので」
「自分勝手すぎる……」
ソーニャはぐったりと呟いた。もうどうにでもなれ、と投げやりな考えに支配されかける。サーシャの悲しむ顔が思い浮かんで、ぎりぎりで踏み止まったが。
「……仕方ないですね」
渋々、といった様子を隠さず、マリアットはソーニャの隣に膝をついた。掌のナイフでソーニャを縛る縄を切り、その拘束を解く。
切られた縄が床に落ち、身を起こしたソーニャは一番最初に脱臼した肩を嵌め直した。肩の外れている気持ち悪さと痛みから解放されて一息をつく。痛みは当然残っているが。
「ありがと。……すげー不本意だけど」
「それはどうも」
涼しげに言ったマリアットは立ち上がり、足音を立てずに締め切られた扉へと近づくとそこへ耳をつける。
外の様子を窺う、その様子に僅かな違和感があった。
「……ねえ、マリアット」
「何ですか鬱陶しい」
「足痛めてるよね?」
「……何を出鱈目言ってるんですか」
低く返ってくる答え。ソーニャは確信した。恐らく飛び降りてきたときに痛めたのだろう。さらに言うと、自分とぶつかったときに。
こちらが肩の脱臼だったのに比べたら安いような気がするが、戦う者にとって足の怪我は大きいだろう、ということは素人のソーニャでも分かる。
「医者に隠せると思ってるんだったらお門違いだよ。……大丈夫なの?」
「アンタに心配される筋合いはありません」
切り捨てるような声で言われてソーニャは首を竦めた。取りつくしまもない、といったところか。それでも自分の拘束を解いてくれただけマシだが。
「君の心配っていうか、これから逃げるんでしょ? マリアットはさ。ついてくオレの生死にも関わるからそっちが心配なだけだよ」
「お門違いなのはそっちの方です」
懐を探りながらマリアットが笑う。片手にいつものホルスターとは違うところから取り出した小型銃と、もう一方にソーニャには見慣れない無骨な円筒型を握り、ソーニャを振り返った。
「オレはアンタを助けません。――アンタがするのは、自分が生き残れるかどうかの心配ですよ」
凄味を利かせた言い方に、ソーニャは喉で唾を飲み下した。おこぼれに与りたいのならそれ相応の覚悟をしろ――その顔は、そう言っていた。
「……わ、分かった」
「それでは突破します」
「え――」
マリアットは手元の円筒から何かピンのようなものを引き抜き、いくらか間を置いてから薄く開けたドアから円筒を部屋の外に放り投げてドアを閉めた。ドアが閉まるのと同時に部屋の外からくぐもった悲鳴が複数響く。マリアットは即座に再度ドアを開けると部屋から飛び出し、ソーニャは慌ててそれを追った。
軍服を来た男が数人目を押さえて廊下に転がっており、その光景の異様さに思わず足が止まる。マリアットを向いて尋ねる。
「い、今の一体……って!」
尋ねられるよりも先にマリアットは駆け出していた。足を痛めているとは思えない俊敏な動き、息つく間もなく追いかける。
じきに階段が目に入った。降りるのかとと思いきや全くの正反対、マリアットは階上へと駆け上がる。その予想外にソーニャは一瞬硬直したが、置いていかれそうになって再度走り出す。
「逃げるん、じゃ、ないの!? なんで上っ――」
「ここまで来て何もなしに逃げられるわけないでしょう」
日頃の運動不足が祟っているソーニャとは逆に、息ひとつ上がらないマリアットである。ソーニャとの距離はどんどん広がっていく一方だがそれには頓着せず、一気に階段を駆け上がる。
踊り場で身を返したマリアットの姿がソーニャの視界がら消える、次の瞬間甲高い金属音が響き、ソーニャの足が止まった。
男の声が階上から響く。
「まだ隠し持ってやがったのか、この野郎……」
「ボディチェックが甘いですよ。――ま、甘いのはボディチェックだけじゃありませんね」
軽い銃声がソーニャの耳を打つ。足が縫い止められたように動かず、階段を見降ろした。
今ここで降りたら。だが、恐らく下にも『軍』の人間がいるのだ。
そしてソーニャは、一人ではそれを突破できない。
「――っ!?」
「ほら、甘い」
重い金属の転がる音が聞こえ、ソーニャは階段を駆け上がった。ナイフを握るマリアットと床に転がった男が目に入り、思わずマリアットの顔を見る。握ったナイフをロングコートにしまったマリアットは、階段を上り切ったソーニャに、どこかつまらなそうに言葉を漏らした。
「下に逃げたものと思ったんですが」
「どう考えてもオレ一人じゃ逃げられないからね……」
双方不本意な様子だった。
男がどこかぎこちない動きで頭をもたげ、マリアットを睨みつけた。意趣返しだろうか、マリアットと同じ個所、頬を切られて血が伝っていた。手が震えている。握った日本刀がその手から転がり落ちた。
「て、め……薬、とか……ッ」
「恨み事聞いてる時間ももったいないんですよね」
マリアットはそれだけ言って、男に興味をなくしたように廊下を駆け出す。廊下に並ぶ扉も突っ切って、相変わらずソーニャのことなど気にもかけていない行動、ソーニャは必死にマリアットを追った。
本当に、足を痛めているはずなのにどういうことなのだ。化け物じみている。
「ねえ、マリアッ――っ!?」
「っぐ!」
何か問いかけようとしたソーニャの声を遮る形で銃声が響いた。第六感と反射、その両方を最大限に駆使し、咄嗟に跳び上がって銃弾を避けたマリアットだったが、ここで痛めていた足が仇となった。痛めた足で無理に跳び上がったために、ろくに受け身も取れず床を転がる。
「マリアット!」
「銃を離せ。――全く、随分と暴れてくれたものだ」
扉のひとつが薄く開いていた。それを押し開けて、中から銃を構えた中年の男が姿を現した。銃の照準は倒れ込んだマリアットに合わせられている。ソーニャのことは最初から歯牙にもかけていない。
突きつけられた銃口に、マリアットは銃を手放した。男がそれを遠く蹴り飛ばす。絶体絶命、という言葉がソーニャの脳裏を過ぎった。
「なあ? ユーグ・マリアット」
「………」
「何か答えたらどうだね」
「……答える必要性を見出せません」
「答える必要ならある」
男が嗜虐的に笑う。穏やかな声で続けた。
「この状況では、私の機嫌を損ねないことが最重要だろう?」
男の銃口が火を噴いた。瞬間的に身体を跳ね上げたマリアットの脇腹を貫き、マリアットの身体が再度床へくずおれるのと同時に赤が広がる。黒い服を染め上げていく。
「っ……」
「ほら、世渡りが下手だとこういう目に遭う」
哀れむような色さえ含んで、男はマリアットの横に立つ。マリアットは唇を強く噛んだ。ぎらついた目で男を睨み上げるが、その頭には脂汗が浮かんでいる。
男が足を上げる。
「私個人としては嬉しいところだがな」
「はッ――あ、ぁあ!?」
上げた足が勢いよく振り下ろされ、革靴がマリアットの傷を踏み躙った。つま先を捻るようにして傷口をいたぶり、踏みしだく。痛みをこらえて丸まる身体に、その肩に足が振り下ろされて仰向けに蹴り転がす。
押し殺すような悲鳴がソーニャの耳に入り、ソーニャは思わず目を逸らした。何もできない。何も。
なにか自分が声をあげるにしてもあの男を刺激するのではないかと、そのような考えがソーニャを縛りつけていた。
「さて――そろそろ聞かせてもらおうか」
「いぁっ……かは、つぅ……」
男が膝を折ってマリアットの髪を掴み上げ、無理矢理に頭を上げさせた。切られた頬から、噛み切った唇から流れる血がその顔を彩る。凄惨な色だった。
「――どこから、嗅ぎつけた?」
嗅ぎつけた?
予想外の質問に、ソーニャは思わず男に目を向けた。一体何を嗅ぎつけたのだというのか。マリアットは何もなしに逃げられない、と言ったが――明確な目的があったのか。
そもそもここにいる時点で何らかの目的があったと考えて然るべきなのだが。
「っ、それ、知って――どうなるんですか」
息も絶え絶えにマリアットが答える。先ほどは息ひとつ乱していなかったのに。傷口を踏み躙られるダイレクトな痛みには流石に堪えたようで、けれど目は光を失わず。
男は顎に手を添えた。
「ふむ……一応言質を取っておいた方がいい、というところか。心置きなく粛清できる」
事もなげに言った男は、それからソーニャへと顔を向けた。急に自分に注目され、ソーニャはたじろいで数歩下がった。
怖い。『軍』が、この男が、その行動が。中心街から出るのではなかったと痛切に思う。緩衝地帯を出るからこのようなことになる。
「貴様もあの男から何か聞いているのか? ソーニャ・ローゼンブラット」
「っは……?」
その男から放たれた言葉は、二つの意味でソーニャを混乱させた。
あの男とは誰なのか。マリアットを示すなら、あの、とは言わないだろう。目の前のこの男は、あの男、と言った。誰のことだ。思い浮かぶ相手はない。
そして、何故自分の名を知っている。
「……その様子では、本当に巻き込まれただけのようだな。同情するよ」
そう言った男の、目だけがこの上なく冷たくソーニャを射抜いた。
男はマリアットに視線を戻すと、その懐を探った。ロングコートやベルト、パンツなどに仕込まれた無数の仕込み武器を取り上げ、マリアットの遠く、床へとぶちまける。
男は呆れの色を顔に滲ませた。
「全く、あいつも甘い男だが――そう責められたものではないな。お前、どれだけ隠し持ってるんだ」
「……っも、お手上げ、の……全部ですよ……」
「怪しいもんだ。……まあいいだろう」
マリアットの胸倉をつかみ、引きずるようにして部屋へと連れ込んでいく。ソーニャには軽く視線を送り、扉は開いたままに部屋へと消えた。
ここで逃げるという選択肢もあった。しかし――逃げられるはずがなかった。
「ようこそ」
部屋に入って目に入ったものはモニタと再生機器、そして、
「何……これ……?」
部屋いっぱいを埋め尽くすほどの、大量の映像ディスクだった。
「離しっ――離せ! んの、ヤロ……ッ、く、うぁ! やっい――あ、あぁ!」
「大人しくしておけ」
男は再び暴れ出したマリアットの脇腹を爪先で蹴り上げ、床に転がして手錠をかけた。傷口に足を乗せて抵抗を封じる。
ソーニャはその光景に眉根を寄せながら、男へと問いかけた。
「何……何、ですか、これは」
「ん? 見覚えがないか?」
「見覚え……?」
先ほどからこの男が何を言っているのか分からなかった。マリアットの名前だけならまだしろ、自分の名前まで知っていることといい、この男は掴みどころがなさすぎる。
自分はただあの男の治療に来ただけだというのに。
「まあ、貴様は撮られる側か。見たことはなかっただろうな」
「何……言って……」
撮られる側。
その言葉の不吉さがじわじわと身体を這い上がってくる。頭のどこかが警鐘を鳴らす。今すぐ逃げろと。これ以上関わっていけないと。
でも、どこに?
「医者――お前、まさか」
見上げるマリアットの顔が紙のように白い。当たり前だ、あんなにも出血して嬲られて。当たり前だ。別になにもおかしいことはない。血の気が引かない方がおかしい。
なのに、どうしてこんなにも心がざわつく。
がたりと荒々しく扉が開かれて、ソーニャは身を竦ませて振り返った。
「ほら、裏切り者の登場だ」
『軍』の男に両側を固められて連れてこられた人物に、その意外さに目を見開く。その男は、
「ソルビー!?」
相変わらずの気弱な表情を貼りつかせていた男は、今は苦悶に満ちた表情で頭を抱え――床へとくずおれた。嘆きに声を漏らす。
「ああ――ああ、こんな……こんな、ものが……」
「おい……どういうことだよ!? 何で、オレはハメられたのか!?」
詰問するソーニャに冷や水を浴びせかけたのは、背後の男だった。マリアットの傷口を爪先で弄びながらソーニャに言う。
「それは違うな。貴様は本当に巻き込まれただけで――運が悪かっただけだ」
「なんだよ、どういう――」
「そいつは裏切り者だ」
ソルビーを指して男が言った。宣告するように言葉を続け、笑った。
「我々がこの部屋に秘密裏に保有しているものの情報を外部に流した――裏切り者のコウモリ野郎だ。……この期に及んでまだあそこにいたお花畑ぶりには呆れたが」
ソーニャはソルビーを見降ろした。床に這い蹲り、現実を否定するように首を振る男を。
「ああ、私は……ただ、こんなおぞましいものを……耐えられずに……」
悲嘆にくれる声が何を指しているのか、何一つ理解できない。
理解、したくない。
「さて、役者の揃ったところで、上演会と洒落こもうか」
「やめ――おい、何言ってんだよ! こ、の――ッ!」
男の下でマリアットが頭をもたげた。息を振りしぼって叫ぶ声は途中で声なき悲鳴へと変えられた。その悲鳴も最早弱々しい。
男が映像ディスクをひとつ、懐から取り出してくるりと回す。
「流石にイレギュラーの分は今から探し出すには骨が折れるがね。……貴様が来るのは十二分に予測できたことだったよ。だから用意ができた」
その男の粘ついた声は、その意味を考えるまでもなく忌々しいものだった。マリアットが目を見開き、男を睨み上げる。ますます白く、生者であるかどうかすら不安になるような顔色だった。
「……やめろ」
戦慄に支配されたような声だった。震えもしない、ただ突き動かされるような。けれど身動ぎひとつ許されず。
「いやです、いやです、いやです……」
ソルベーが呻くように声を漏らす。両脇を固める男たちによって身体を起こされ、顔を逸らすこともできず固定される。恐怖に顔が歪む。
その中で、ソーニャは、
「………」
言葉ひとつ漏らせず、ただ木偶のように突っ立っているだけだった。
男が軍服のポケットから映像ディスクを取り出し、ソルベーを拘束する男の一人に投げ渡した。それを見て瞠目し、起き上がろうとしたマリアットの身体を踏み躙って抑え込む。
繰り返される激痛に顔を歪めながら、それでもマリアットは掠れ掠れに吠えた。
「やめろって、言ってんだよこの……っ、下衆野郎!」
引き攣れたような叫びを上げながら、身体を逸らして強引に身を起こそうとする。それは同時に男の足が脇腹に深く食い込むという結果を招くのだが――その痛みも何もかも忘れ、マリアットは突き動かされるように抵抗を止めない。
愚かとしかいえないその行動は、しかしソーニャにはひとつの強さに映った。
「うるさいぞ」
男がにべもなく吐き捨て、やや浮かされた足をマリアットの脇腹からどかした。勢いに任せて跳ね上がったマリアットの上体を、今度は下から蹴りあげる。仰向けに蹴り転がされたマリアットが咳き込む、その口に銃口が突っ込まれる。
「………ッ」
瞳に憎悪を激情を込めて見上げてくるマリアットに、男は冷たく言い放った。
「これなら静かでいいだろう?」
「ん……ぅぐっ」
言葉を封じられたマリアットの前で、映像ディスクが再生機器に吸い込まれていく。
――そして、それを目撃した。
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