リフレインとフラッシュバック

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「う……そ、だろ……」
 立っていられなくなって、ソーニャは両膝をついた。そのまま倒れ込みそうになるが、両手をついてなんとか堪える。
 頭は上がらなかった。映し出されるそれを、これ以上見ることができなかった。
 けれど音は耳を浸食してくる。掠れたこどもの声が、下卑た男の猫撫で声は、時折怒鳴り声や愉悦に満ちたものに変わる。
 それらはすべて、自分が聞いていたものだった。
「あんた、あんたら……こんなの、全部……残してんのかよ……なん、で」
「全部ということはないな」
 なんでこいつはこんなに冷静なんだと思うと何も考えられない何ひとつ。腹立たしさよりも生理的嫌悪で吐き気がする。
 嫌悪の対象は決してこの男だけではないということは分かっていた。
「何故かと言われれば、純粋に金になるのと――何かと役に立つんだよ」
 鈍い音とひゅっと喉を鳴らす悲鳴、ソーニャは思わずそちらに目を向けた。男がマリアットを蹴り転がし、銃を向ける。床に転がったマリアットは、ただ目を見開いて、
「………」
 マリアットの瞳には動揺とか恐怖とか嫌悪とかそういったものは最早窺えなかった。
 その瞳が宿すものはそこに映る過去の彼とそっくり同じものだった。

 そしてその瞳を、ソーニャは過去にも見たことがあったのだ。
 それは自分のものではなく――

「――めて、やめてください……!」
 ソーニャの思考を遮ったのはソルベーの叫びだった。顔を上げ、懇願するように男に言い募る。
「こんなもの! こんなものを、至極大切に残して、利用して――!」
 その叫び声が途中で途切れる。代わりに響いたのは、銃声。
 腕を押さえられた男の胸に、赤い沁みが大きく広がって零れ落ちた。
「――ソルビー!?」
 彼の両脇を固めていた『軍』の男が拘束を解く。ソルビーの身体は力なく倒れ、カーペットにも赤い液体が広がっていく。目は見開かれ、――開き切った瞳は、既に黒く澱んでいた。
 一時的にソルビーに向けた銃を、再びマリアットに突き付けて男が言った。
「……甘いな。速ほどではないが」
 既にソルビーからは興味をなくした様子だった。
「あ――あんた、なんで……!」
「言ったろう? 裏切り者の粛清だと。……この男は、これに怖気づいたんだよ」
 これ、と、映し出される映像を示して、男は事もなげに言い放った。実際男にとっては何でもないことなのだろう。
「それとも今更正義感でも発揮したか。――どちらにせよ、馬鹿げたことだ。なあ? マリアット」
 呼びかけられたマリアットは、しかし欠片も反応を見せない。ソーニャの問いかけにも、ソルビーの叫びにも、それを掻き消した銃声にも、男の声にも。ただ、画面を見ている。
 まるで全てを喪失したかのような全てに拒絶されたような全てを放棄したかのような全てに蹂躙されたかのような顔をして。
「随分と腑抜けになったものだな。――まあいい」
 マリアットに突き付けた銃の引鉄が、少しずつ絞られていく。相変わらず感情を見せないままで、男は言った。
「貴様には何かと邪魔されてきたからな。いい機会だ、始末しておくとしよう」
 爆音。
 銃弾が放たれる直前に響いたそれに、男は手を止めた。この部屋にいる者のみならず、建物全体を震わすような凄まじい轟音。ぱらぱらと無数の映像ディスクが零れ落ち、モニタは横倒しになって映像は掻き消えた。
「……この階か。お前たち、見て来い」
「はっ」
 命じられるままに男たちが姿を消す。ソルベーの遺体はその場に放置されたままで、ソーニャは思わず目を逸らした。
 男が銃を構えなおす。映像が消えても同じ顔をした、同じ瞳をしたマリアットに銃を向ける。
「今のも、貴様の差し金か?」
「………」
「……どちらにせよ、ここで貴様を殺してしまえば同じこと――ッ!?」
 男の口上は再び遮られた。今度は、不意に殴りかかってきたソーニャによって。
「くっ――」
 精々不意をついたつもりの拳は易々と躱されて、あっさりと足を払われて床に転がる。
男は呆れた様子でソーニャの腹を蹴り上げた。
「っぐぅ!」
「今更何の心変わりだ?」
 ソーニャを蹴り上げ、頭を踏みつけて男が言う。あっさりとソーニャを無力化しながら、マリアットの悪あがきを警戒して銃を向け続けた男は――二人以外への注意を怠った。
 ただソーニャにも、それに恐らく正気ならばマリアットにも想像がつかないことであった、
 いきなり窓を突き破って人間が現れるなどということは。
「――何っ!?」
 窓を背にしていた男は咄嗟に振り向き、突き出された槍をすんでのところで回避した。
 槍を手にしたフルフェイスメットにライダースーツの女――その女の次の一閃が男の右腕から肩口までを切り裂き、銃を弾き飛ばす。舌打ちした男の脇腹を振り回した柄で殴り上げる――実に鮮やかな手際だった。
 女はそのまま槍を放り捨てると、粘土のような物体を取り出してピンを抜いた。それを入り口側に投げつけると、グローブに包まれた手を伸ばした。
「……うえっ?」
 片方でソーニャを、もう片方でマリアットを掴み上げる。
 展開にいまいちついていけてないソーニャ、呆然と虚空を見つめたままのマリアット――二人の男を担ぎ上げて、女は侵入経路とは間逆を辿った。つまりは――窓へと。
「ちょっ――マジで!?」
 ソーニャが悲鳴を上げるのと女が窓から飛び降りるのは同時だった。一拍遅れて先ほどと同じ爆音が響き、爆風が三人を煽った。
 煽られたあとは、当然――そのまま猛スピードでの急降下である。
「うああああああっ!?」
 風を切って落下するソーニャの腕を、女はがっちりと離さない。それはマリアットに対しても同様で、そのまま三人は着地した。
 走行中のトラックの荷台の、分厚く積み上げられたクッションの上に。
「あぶっ」
 クッションの上としてもその衝撃はかなりのもので、ソーニャは息を詰めて小さな呻きを漏らした。女は事もなげに立ち上がり、トラックの荷台から飛び出して空いた窓から助手席に入り込む。
「……人間かよ、あの女」
 そのあまりの身軽さに思わずソーニャは顔を引き攣らせていた。さっきから人間離れした行動にばかり遭遇して自分の中の常識を疑いそうになる。自分もそれほど常識が備わっているとは思わないが、それにしても規格外すぎる。
 それにしてもこのまま連れていかれて大丈夫なのだろうか。一応助けてはもらったのだが、あの女が何者かさっぱり分からない。そもそもこのトラックにも見覚えがないというのに。マリアットは重傷だし、自分を助けてくれたのも完全に成り行きに過ぎなかったということもある。
「……そうだ」
 力なく倒れ込んだままのマリアットを思い出して、クッションの中を這うようにして近寄る。紙のように白い顔で瞼を閉じた顔にぎょっとしたが、脈拍を確認して安堵する。
 しかし脈拍があるとはいえ、やや弱々しい。ソーニャは眉根を寄せると白衣を脱いで破り、応急処置に傷口を縛った。幸い銃弾は貫通しているようだった。
「大丈夫か? マリアット」
 車体から男の声が聞こえてソーニャは振り返った。窓から顔を出す琥珀色の瞳と目が合い、ソーニャは驚きに眉を上げた。
「ハルト!?」
「……誰かと思ったらソーニャだったのか。男で白衣って時点でちょっとは見当ついたが」
 リーンハルト・ハイゼンベルク――ハルトは、時折前方に目を向けながらソーニャに言った。猛スピードでトラックを走らせていながらの行動にソーニャは不安を隠せなかったが、相手の正体が分かった安心がそれを上回る。ソーニャは力が抜けたようにクッションに沈み込んだ。
 一安心したところで、ソーニャはハルトに尋ねた。
「……えと、あの女は何なの?」
「うちの用心棒だよ。腕っ節も必要だからな」
 快活に笑ってハルトが続ける。
「このまま医者に直行するけど、中心街に入った時点で下ろした方がいいか?」
「? 医者って伊鶴さんとこじゃないの?」
「そこだけはやめろって言われてるんでな」
 ハルトは呆れを隠さないで呟くと、ソーニャを仰ぎ見る。
「で? どうするんだ?」
「……色々気になることはあるから、とりあえず連れてってよ。あとお願いだから前向いて」
「了解」
 心配性だな、とハルトは笑ったが、心配して当然だった。他にも車が通っている一般道で、しかもトラックで。横転でもされようものなら真っ先に死ぬのは自分だ。
 色々な心配がひとまず解消されて、ソーニャは深く安堵の息をついた。



 顔を掴んで引き寄せられ、目が綺麗だ、と覗き込まれた。珍しい、黒い髪に映える深い青だと。値踏みするような目だった。いや、実際、値踏みしていたのだと思う。いかほどの価値を持つものかと。どれほどの好事家に気に入られるだろうかと。
 振り払おうとする腕はか細く筋張った栄養不足の腕だった。掴んでくる腕がやたらに肥えていて、自分の何倍もの太さだったことを妙にはっきりと覚えている。

 暗いハコの中の日々は思い出そうとするとぼやけてしまうけれど、忘れた中で唐突にぶり返してくる記憶だった。
 ぐちゃり、と濡れた音が耳にこびり付いて離れない。舌を這わせた不快な粘着質も、欲望のままに蹂躙してくる恐ろしく大きな掌も、強引に開かれた痛みも、その全てが鮮明さを伴って蘇り、そして強く思い知らされるのだ。
 振り払うことのできないものが、確かにそこにあるのだと。

 例えばあの手に捕まらなかったら。捕まった後に、逃れることができたなら。その後の自分のゆく道は大きく変わっていただろう。
 けれどその道ではあの人に会えない。自分に全てを残してくれたあの人がいない。
 だからあの腕に捕まったことに、逃れることができなかったことに、自分は深く感謝するのだ。

 たとえその腕そのものは忌むべきものであったとしても。



「……リ……ット……」
 細い声だった。とおくとおい、ほそいこえ。それでいて深奥を揺さぶる微かな声。光を孕んだ、凛とした声。
 似ているのだと、思った。
「――マリアット!」
 声に呼ばれて覚醒する。瞳を開けて最初に見えたのは、こちらを覗き込む赤い色。
 オフィーリア・イーリイという名の、ひどく美しい女の目。
「……イーリイ」
 その顔が目の前で口元を緩めて、しなやかな腕が抱きついてくる。頭を抱えられて頬に押しつけられる柔らかな感覚が心地よいが、同時に脇腹が強く痛んだ。
「――いっ!」
 痛みに息を詰めて顔を歪めると、すっと身を離したイーリイに再び覗き込まれた。無表情なようでいて、とこか案ずるような様子が窺える。
 マリアットは小さく笑った。軽く掌を振る。
「大丈夫です。……ところで、ここは……?」
 見覚えがあるような、ないような。首を傾けたところ、それに合わせてオフィーリアも首を傾げた。加えて目をしばたたかせて、マリアットをじっと見つめてくる。
 そのオフィーリアの背後で扉が開く。中から顔を覗かせたグラシアがマリアットを認め、喜色満面で口を開いた。
「わーい、ユーグさん起きたー! おはようございます!」
「……オ、オルティス? なんで?」
「なんでもなにも、私のおうちですよー。キャッ! 女の人のベッドで寝ておいてユーグさんったらつれない!」
「女の人のベッドというか、思いっきり患者用じゃないですか」
 律儀に突っ込みを入れながら、未だにマリアットは訝しげな様子だった。グラシアのテンションについていけない、そもそもついていく気のないオフィーリアは、グラシアを見つめていた視線を彼女の背後に移した。
 即ち、グラシアに続いて現れたソーニャに。

 普通に起き上がっているのを見て少し安心した。一応は恩人である、と言っていいのだろうし。そもそもの元凶でもあるが。
「あーソーニャさん安静にー! ですよー?」
「頭擦っただけだから大丈夫だって」
 頭に包帯を巻いたソーニャはグラシアを軽くいなし、部屋の中へと入った。マリアットが横たわるベッドのそば、オフィーリアの隣に立って、マリアットを見降ろす。
 ソーニャを見上げて、マリアットはぎくりと身体を固めた。
「……い、医者……? なんで、怪我、して」
「分かんない? 思い出せない?」
 ソーニャはなじるようにまくし立てながら、身を屈めてマリアットに顔を近づけた。明るい青と深い青がかち合って揺れる。
 揺れた目を大きく見開き、マリアットはソーニャを突き飛ばしていた。勢いのままに背中から倒れ込んだソーニャに、グラシアが目を丸くした。ソーニャとマリアットを交互に見る。
 倒れ込んだままのソーニャは冷たい目をしていて、突き飛ばした張本人であるはずのマリアットは全身を震わせていた。伸ばした指先までもががたがたと小刻みに揺れて、力なく落ちる。震えは止まらない。
「えっとー……」
「大丈夫」
 ソーニャが身体を起こしながら言う。グラシアとオフィーリアを見て、淡々と続けた。
「大丈夫。……ちょっと、二人で話させてくれないかな」
「え?」
「――?」
 グラシアとオフィーリア、それぞれが怪訝そうにソーニャを見返す。ソーニャは無表情のまま願いを重ねた。
「こいつと話したいことがあるの。……あんま聞かれたくないし」
「いやですー」
 グラシアはあっけらかんと返し、腰に手を当てて胸を張った。
「女の子のお部屋ですよ! 男の人ふたりっきりにできるわけないじゃないですか! っていうのはどうでもいいんですけど、ただの好奇心――きゃっ何するんですか!」
 グラシアは不満を隠さずにソーニャを指差し、頬を膨らませて何事か続けようとした。その身体をオフィーリアが羽交い絞めにする。
 驚いて振り向いたグラシアを、オフィーリアの目が貫いた。
「……だめ」
「え?」
 一言だけ呟いて、あとは取り合わずにグラシアを引きずるオフィーリア。扉の前で一度止まると、ソーニャに視線を向ける。ちらりとマリアットを見てから、訴えかけるような視線を向ける。
「………」
 ソーニャは何も返せなかった。返答を期待していなかったのか、オフィーリア自身も何も言わずに外に出ていく。もの言いたげな視線がソーニャの心に引っかかった。
 まあいいと、それを振り払ってマリアットを振り向く。
「聞いてる? マリアット」
 呼ばれたマリアットは、びくりと身体を跳ねさせてソーニャを見上げた。凍りついた瞳、怯えたようなその視線。それが癇に障った。
「聞いてるかって言ってんの」
 思わず詰問口調になる。こちらを向く目は、自分ではなく遠く違うところを見ているのだ。
 どこを見ているのかは、分かり切っている。
「……なんか、言えよ」
 投げ出された手首を掴んで引っ張る。されるがままに腕を引かれたマリアットは、しかしそこで初めてソーニャを見た。驚きに目を瞠って、自分を掴む腕を見る。
 がたがたと酷く震える、自分を掴む腕を。
「……医者」
 ソーニャは顔を歪めた。伝染病のように伝わってくる震えが、全身を駆け巡って止まらない。忌々しい追憶の、おぞましい映像の、狂おしい感情の、その全てを共有して、その全てを捨てられなかった。
 唾棄すべきものでしかないそれは、振り切ることのできないものだったから。
「……話、したいって……言ったけどさ」
 言葉一つ一つが喉に詰まる。押し出すようにして出した声は、この全身に負けないほどに震えていた。
 みっともなさを恥じる余裕さえなくて、ソーニャはその場で膝を折った。倒れそうになってベッドにしがみつく。
「何、言えばいいかとか……全然、分かんないや」
 何か言いたいことはあったはずなのだ。けれどこうして、何でも言えるような状況になって、そしたら全てがこの手をすり抜けてゆく。身体が震えて、声が震えて、頭が思考を停止する。感情だけが迸って、抑えることなどできずにただ這い蹲る。
「――ねえ、マリアット」
 それでも、何も言わずに済ませることなどできなかった。見つからなくとも、言いたいことは山ほどあるのだ。それを見つけられないまま、的外れた言葉ばかりが溢れて、
 そうでもしないと耐えられそうにない。
 ずっとだんまりを決め込んでいるマリアットは、そうではないのだろうか。身体を駆け巡る全てを、全て抑え込んでいるのだろうか。ソーニャには分からなかった。何も。
 だから、問いかける。聞きたくもないことを、感情の奔流に押し流されながら。
「なんで、あんなものが残ってるんだよ」
 吐き気がした。あの時映っていたは確かにこの男で、同時に自分の姿でもあって、彼女の姿でもあった。何もかもが寸分なく重なって、多重にソーニャを蝕んだ。
 その苦しみから逃れたくて、ソーニャは言葉を重ねる。
「なんで、あんなことがあったんだよ」
 言葉を重ねたところで、何ひとつ変わりはしないけれど。
「――なんで、あんなことが許されたんだよ!」
 叫ぶように吐き出した声は、自分でも耳障りに感じた。嫌悪感に心が埋め尽くされる。
 もはや何に嫌悪しているかすらも分からずに、ただ心は自分を責めた。全てを呪って、自分を呪った。
「……許されとか、許されないとか、オレは知らない」
 反駁が耳に入って、ソーニャは目だけでマリアットを向いた。彼の顔は真っ白で、血の気は失せていて――自分も同じ顔をしているのだろうかと思った。
「ただそれが起きたってだけだ。……どうでもいい」
「……どうでもいい……?」
 マリアットの言葉が腑に落ちず、ソーニャは低く抑えた声でマリアットに問うた。
「どうでも、いいんだよ。あんな――」
 マリアットの口ぶりに、ソーニャの中で何かが切れた。
 身体を起こしてマリアットに掴みかかる。勢いよく揺さぶると、怪我が痛むのかマリアットの顔が歪んだが、頓着する気はなかった。だって、この男は。
「何がどうでもいいって言うんだよ!」
 声は自然と荒くなった。胸を埋め尽くすのは純粋な怒りで、それをストレートにぶつけられるのは楽だった。
 どうでもいいのなら、何故自分は、彼女は、あんなにも苦しまなければならなかったのか。いや――苦しまなければならないのか。
「――本当にどうでもいいんなら、泣き顔なんて見る必要ないだろッ……!?」
 怒鳴り声は、最後は縋り付くようなものに変わった。
 震える身体を抑えながら、自らの失言に気付いたがマリアットはそれには触れなかった。ただ、疲れたように目を閉じた。
「……オレは、オレにとって、あのことは」
 瞳の色を隠しながら、小さな声で言葉を紡ぐマリアットは、どこか狂信者めいた感情を覗かせていた。
 そして言った。
「ただひとつの幸せを拾ったというだけで――それ以外の価値なんて、何ひとつない」
 ――幸せ。
 幸せ、と言った。
 幸せを拾った、と。
 ソーニャはそれが信じられなくて、けれどマリアットが開けた瞳の中には、間違いなくその愉悦が感じられたのだ。なにか大切なものを慈しむような感情が、確かにその中に存在していた。
「……ワケ、わかんないよ」
 それでもソーニャは疑問を呈した。存在が認められたということと、それに納得するということは全く違うことだから。
「あんなとこに幸せがあったってのも、全然理解できないけど……でも、もっとおかしいことあるだろ」
 おかしいこと、という言葉に、マリアットはいぶかるような視線をソーニャに向けた。そんな視線を向けられていること自体がおかしいとソーニャは思った。
「そんな、幸せがあったからそれでいいって……どうでもいいんだったら、お前、もっと平然としてろよ」
 本当にどうでもいいことならば。
「――見せつけられて、動揺なんてしてんじゃねえよ」
 あのときのマリアットは、確実に動揺していた。それは間違いないことで、そうでもなかったら取り乱すことも、あんな目をすることもないはずなのだ。
 本当にどうでもいいこととして処理できているのならば、――さっきみたいに震えることだって、有り得ない。
「あー……」
 ソーニャの問いにばつが悪そうに頬をかいたマリアットは、小さく笑った。自らを嘲るような笑いだった。
「……あれは、オレがただ振り切れてないってだけですよ」
「……は?」
 何を言っているんだ。振り切れてないのなら、どうでもいいことになど有り得ないだろうに。意味が分からない。今もなお、あの過去に苛まれていると、この男は認めたのだ。どうでもいいと言った舌の根も乾かぬうちに。どういうことだ。
 ソーニャの中を留まることなく溢れる疑問は、次のマリアットの言葉で全て氷解した。

「サラやあの人とは関係がないから――全部、どうでもいい」

 当たり前のようにそう言い切ったときの表情を、ソーニャは覚えていない。
 ただ、理解できないと。そういうものだと、あの時ソーニャは納得してしまったのだ。
 だから、そんなものは覚える必要がなかった。

「……どうでも、いいんだ」
「どうでもいいんです」
 幸せそうに笑む男の身体は、それでもまだ震えていた。ソーニャ自身もそれは同様で、自分たちの滑稽さに嫌気がさして、――同時に笑えてきた。
「……はは、は」
 ソーニャは震える身体を無理矢理動かして立ち上がると、マリアットに背を向けた。このままずっとこの男といると、いつまでも震えが止まらないと分かっていた。むしろ共振し合ってしまうのだと、そう確信できた。
 だからマリアットから離れる。扉に手をかけてそれを開く。もうこれ以上言いたいことはなかった。言いたかったはずの全ては、気付かぬうちに消化され、気付かぬうちに霧散していた。それが何かも分からぬままに。
「……でもさ、マリアット」
 最後にひとつ、言いたいことがあってマリアットを振り向いた。これは本当に言いたいと感じていることで、明確な意識を以て言えるのが気持ちよかった。
「あんまり強がんない方がいいよ。――そういうの、いつか崩れるから」
 反駁の声を聞く前に、ソーニャは扉を閉めた。別に伝わらなくともいい。ただ、言いたかっただけだった。マリアットのためでなく、自分のために。
 扉を閉めると同時に物凄い疲れが襲ってきて、ソーニャは壁に手をついた。身体が重い。よく考えてみたら今日は色々なことがあったと、ぐらつく意識で思う。
「――あ、」
 やばい、倒れる。視界がぐにゃりと歪んで、何も見えなくなる。平衡感覚が失われ、身体が傾いでくずおれる。
 床に倒れ込む、その寸前を大きな腕に支えられた。
「大丈夫か?」
 ぐったりと頭を上げると、ハルトが心配そうにこちらを見ていて、嘘をついても仕方がないのでソーニャは首を振った。だろうな、とハルトが目を眇める。
「お前もベッドで寝とけ。医者だしな、ここ」
「つっても……あの女、なんか怖い……し……」
「あいつどちらかというと筋肉ある方が好きだから大丈夫じゃないか? ……いいから休め。伊鶴のとこには連絡しとくから安心してろ」
 それはむしろ心配をかけてしまうのではないだろうか、いやでも連絡もなしに帰ってこない方が心配に決まってる、だけどやっぱり何かと面倒だから、こんなことには巻き込まれない方が良かった。
 ぐるぐる回る思考回路は、少しずつ深く沈んでいった。色んな意味で夢見が悪そうで、眠りたくないとそう考えて、それを最後にソーニャの意識はぶつり途切れた。

(10/07/11)


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