どこにもないもの

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「モラトリアム」


 沈む夕日を背に自らの家を目指して歩みを進めていたソーニャは、耳を打つ柔らかな音色に気付いて顔を上げた。
 緩やかに、包み込むような穏やかな音色。その音を奏でる者の性状は、それよりは少し、いやかなりそそっかしいところがあるけれど。
 家へ近づくとともに流れる旋律も大きく鼓膜を震わせるようになっていく。鍵のかかっていない玄関扉を引き開けて自宅に上がり、リビングへ続くドアから顔をのぞかせる。
 ただいまを言わなかったのは、静かにヴァイオリンを奏でる彼女の邪魔をしたくなかったからだ。
 サーシャは瞳を伏せ、演奏に没頭している。ラジオや音楽媒体で聴くことができるような演奏には程遠いけれど、ソーニャはサーシャが紡ぐ音が好きだった。あたたかくて、やさしい音。心の奥まで沁みとおる音色。
 そしてその音を奏でられるサーシャのことも、昔からソーニャは大好きなのだ。
「………」
 サーシャが弾く曲はいつも遠い故郷の民謡だ。昔、ずっと前に先生から習った懐かしい曲。長い間ヴァイオリンに触れることが出来なかった時期もあったけれど、久しぶりに楽器を手にしたとき、その調べは驚くほど滑らかに流れ出たのだと彼女はソーニャに笑顔で語った。それはソーニャも同じだったから、不思議だね、なんか嬉しいね、と二人で笑い合うこともできた。
 ソーニャには彼女のようなあたたかな音色を奏でることはできないけれど。
 ヴァイオリンの音色が静かに収まった。つがえた弦を離して瞼を上げたサーシャは、ソーニャを認めてぱっと笑った。
 ついさっきまで奏でていた音にふさわしい笑顔だった。
「おかえり、ソーニャ!」
「ただいま。……っていうかこっちがおかえりって言いたいぐらいだけどね、うちに帰ってくんの久しぶりじゃんサーシャ」
 この家はソーニャとサーシャ二人の家ではあるが、サーシャはなかなか帰らない。何かと理由をつけて事務所に泊まり込んでしまったり紬と一緒にいたりとすることが多いのがその理由だ。
 ちなみにソーニャの方は毎日帰宅している。流石に伊鶴の家に泊まり込むわけにはいかないからだ。そんなことをしようものなら命の危険を感じざるを得なくなる気がするというか、約二名からつけ狙われかねないというか。
「そうね。……じゃ、ただいま!」
「うん、おかえり」
 顔を綻ばせて笑うサーシャは、何かいいことがあったのだろう、隠しようもなく上機嫌だ。そもそもその時の気分をそのまま顔に出す素直な性格をしているのだ。流石に仕事のときはこんなに無防備じゃないが。
 子どものように笑うことができる彼女がソーニャは好きで、その笑顔を守るためなら手間も負担も惜しまない。そう心に誓ったのは、彼女の笑顔が失われたその日だった。
 過ごすはずだった青春も愛する家族の存在も何もかもを奪われて、自分たちの手に残った最後のものはお互いの温もりだけだった。それも今にも消えそうな儚いものに思えて、縋るようにしてお互いの存在を確かめ合うことしかできなかった。
 信じていたものに裏切られて自分が愛されていたという実感すら揺らぐ中で、待ち受ける全てが恐ろしく冷たく、厭らしく汚かった。確かなものが欲しくてもがいたけれど、そんなものは片っ端から零れ落ちる涙に沈み溶け出して流れていった。
 深い深い暗闇の中で射した光は目が眩むほどに眩しくて、サーシャは今でもそれを追いかけている。
「ねえ、ソーニャもヴィオラ弾かないの?」
「んー」
「弾きましょうよ!」
 そう言ってヴァイオリンを抱く彼女の姿は、幼い日のそれときれいに重なる。
 彼女のヴァイオリンは、自分のヴィオラは、自分たちの子供時代にそのまま直結する唯一のものだった。幸せだった日々を思い起こさせる唯一のもの。父も、母も、使用人も。過ごしていた屋敷も部屋にあった玩具も本も、この目に映すことはもうできない。
 ただ、その楽器が。
 その楽器だけが、前触れもなく子どもとして過ごす権利を奪われた自分たちが、仮初の青春を手に入れるための道具となるのだ。
「……そうだね。二重奏も楽しいし」
「決まりね! じゃあほら、早く出してきて! 待ってるから!」
「はいはい」

 そんなことをしても、モラトリアムは帰ってこないけれど。


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