行き交う人の中を、紙袋を胸に抱え歩く。
曇天を見上げて伊鶴はため息をついた。この島から見上げる空は、いつも灰色の油絵の具をぶちまけたような薄暗い色をしているような気がする。見る者の心をも塗り潰すような、そんな色。
それともこの空の色は自分の心を映しているだけなのだろうか。この自分の、鈍く濁った心の色を。
空に視線を向けたまま思索の海に沈む伊鶴の肩が彼女を追い抜こうとした通行人とぶつかる。荷物を抱え、上の空になりかけていた彼女の細い身体はあっさりと傾いだ。
倒れこみそうになったその身体を、黒い腕が抱き留める。
「……あ、ありがとうございま――!?」
背中を親切な腕に凭れさせたまま、まずは相手に謝礼を述べようとした伊鶴だったが、それは叶わなかった。伊鶴を抱え込んだ腕が彼女をを引き寄せ、立ち並ぶビルの隙間へと強引に押し込める。紙袋がひび割れたアスファルトに落ちて乾いた音を立てた。
両脇をコンクリートの壁で塞がれ、変わらずに人が行き交う通りを背にしてこちらを向く相手の顔を見て伊鶴は息を呑んだ。
「……マリアットさん……?」
その表情が映し出していたのはこの空の色だったのか、はたまた伊鶴の心の色か。
「驚きましたわ、マリアットさん。何か御用ですか?」
自分をいきなりこんなところに引きずり込んだにも関わらず黙り込むマリアットに代わって伊鶴は口火を切った。
それでも表情を変えない相手に、重ねて問う。
「サラちゃんのことが気になるのでしたら、いつでも来てくださって構いませんのに」
その一言で、瞳が揺れる。この上なく効果覿面だった。
マリアット殺すにゃ刃物はいらぬ、名前のひとつも言えばいい。
そんなことを言ったら怒ってしまうだろうかとどこかぼんやりと考える伊鶴の前で、マリアットは目を伏せた。再びその眼が開かれるときには、しんと静まり返った深海の蒼が取り戻されていた。
取り戻された色が嘲りに歪む。分かり切ったことを、と、馬鹿にしきった口調で吐き捨てる。
「オレが、あの子の前に顔を出せるわけがないでしょう」
その嘲りが、伊鶴の目にはひどく痛々しく映った。
湿り気を含んだ冷たい風が吹き付け伊鶴の髪を揺らした。同じ風を受け、マリアットは変わらずに立ち尽くしている。
まるでそんなものには慣れ切っているとでも言うように。
「何をおっしゃいますか。そんな勝手な――」
「あの子の様子はどうですか?」
口上を遮られて伊鶴はマリアットを見返した。風に流れる髪の間から覗く肌に氷の冷たさを見た。凍えた頬。それと表情。
「……百聞は一見に如かずと言うでしょう」
「一見が叶わぬのなら、百聞で満足するしかありません」
「叶わぬと誰が決めたのです」
「決めたのでなく、決まったのです」
凍りついた顔で、口ばかりは飄々と言い訳を紡ぐ。
伊鶴はマリアットを睨みつけた。見つめるのでも見返すのでもなく、睨みつけた。
それでも彼は動じない。伊鶴の存在で、彼が揺らぐことは有り得ない。
彼を動かすものは――
「……あなたは」
唸るような声に、マリアットはゆっくりと伊鶴を見た。その顔は無感情で、無表情だ。
「あなたは、あの子の命を奪いかけたことで自分を責めているのですか」
彼女の話題で、それが微かに動く。少しは自分を、自分を通した彼女を見ようとする。
いじらしいほどの滑稽さを見せる彼に、伊鶴は切りつけるように言い放った。
「――あの子のお父様から托されたものに牙を剥いたことで、自分を責めているのですか」
無遠慮に放つ言葉で、彼の心を踏み荒らした。
壁に身体を強かに打ちつけられ、伊鶴は小さく悲鳴を漏らした。掴まれた肩が軋んで悲鳴を上げる。押し付けられる背中が擦れて歪む。身体のいたるところがひどく痛む。
それでも視線は外さない。目の前の彼の顔を見る。
色を失くした顔は、さきほど見て取った以上の冷たさに凍えていた。
「……あの、こが」
掠れた声。
「……あの子が、言ったんですか」
無理矢理に絞り出したような、途切れ途切れの微かな声。
「っ……、ええ、あの子が。促されるでも強制されるでもなく、あの子が……自分から」
痛みに息を詰めながらも、伊鶴は毅然と言葉を返した。
自分を壁に追い詰める人間の蒼白な頬に、ゆっくりと手を伸ばす。触れた頬は、想像していたよりもずっと温かかった。
生きている人間の温もりが、そこにはあった。
「……どこまで。あの子は、いったい」
震える唇が、うわ言のように疑問を零す。いったい。どこまで。どこまで、言って。
どこまで、知って。
「……あなたは、彼を恨みませんか?」
伊鶴の肩を掴む掌からは力が抜けて、縋り付くように指先が握られる。伊鶴はその手を取った。一人を守るために戦い続けてきたその手は、決して綺麗な形ではなかった。
そう、一人のために。
彼の行動原理は極めてシンプルで、故に――残酷だ。
「……うらむ」
「ええ。……彼はあなたのためにあなたを選び、あなたを救い上げ、育てたのではなく」
縋る先を探す指先を、伊鶴は両掌で包み込んだ。
「彼自身の贖罪のためにあなたを利用しているだけなのに」
利用している。
伊鶴は進行形を使った。自分の語る相手は今はもうこの世に亡い。
それでもこの表現に間違いはないのだと確信していた。
「……利用しているだけ?」
マリアットは鸚鵡返しに呟いた。あどけない印象を与える、ゆっくりとした口調で。
「ええ。利用しているだけです。あなたへの情など、どこにもない」
言い聞かせるように伊鶴が語る。
それは伊鶴自身がサラの話を聞いて感じたことであり――語り終えた彼女が、小さな声で零したことでもあった。
少女の口元には疲れたような笑みがあった。
「……当たり前でしょう」
はっきりとした声だった。
伊鶴はマリアットを見上げた。その口元もまた、笑みを形作っている。
戯言を鼻先で笑い飛ばすような、そんな笑みを。
「あの人がオレに情を注ぐ必要などありません。そんなことをするために彼はオレを救ったわけではない」
澱みなく語る彼の声に籠もっているのは、あからさまな敬愛の念。
死して尚彼を繋ぎ止める忠義の鎖。
「……あなたでなくても、良かったのでしょう」
「けれどオレは救われた」
救い上げられた、と重ねて言うその声は頑なで、揺らぐことのない確信があった。
「それが結果です。……他には、何もいりません」
つい先程は激しく取り乱していたことを全く感じさせないような穏やかな声でマリアットが言う。
微笑みすら窺わせる表情、眇めた瞳は静かにたゆたう深海の蒼。
見る者の心を包み込み侵していくような、狂信者の瞳だった。
「……本当に、あなたは彼を恨んではいないのですね?」
「ええ」
マリアットは首を横に振る。伊鶴の手を解き、一寸の迷いも見せずに断言する。
「オレがあの人に濁った感情を抱くことなど、絶対に有り得ません」
その言葉に、声に表情に伊鶴が悟ったことは、彼は狂信者ですらなく、インプリンティングに従って対象を追い続ける無邪気な子供に過ぎないのだということだった。
差し伸べられた手を取ったその瞬間に、本能に限りなく近い部分に刷り込まれた行動原理に忠実なだけなのだ。
本当に愚かで、滑稽な道化。
「……お時間を取らせました。取り乱してしまってすみません」
そういうとマリアットは伊鶴から離れた。薄い笑みを貼りつかせるその顔を見て、さっきの動揺した顔の方がずっと彼らしくていいと伊鶴はぼんやりと考えた。
追い詰められてぎりぎりで、行く先を見失って崩れ落ちそうなあの表情の方が、ずっといい。
「……サラちゃんは元気ですよ」
「本当ですか?」
「こんなことで嘘を言っても仕方ありませんわ」
伊鶴が落とした紙袋を拾い上げたマリアットは突然もたらされた朗報に頬を緩めた。
紙袋を渡そうとする掌を伊鶴が押しとどめると怪訝な表情をする。
「それはあなたが持っていてください。あなたにこそ、必要でしょうから」
「え?」
「……ああ、でも、外では開かない方がいいかもしれませんね。お帰りになってからがよろしいかと」
「………?」
怪訝な顔はそのままに、マリアットは何も言わず引き下がった。伊鶴に軽く会釈して踵を返し、行き交う人混みの中へ紛れる。
彼が今までここにいた痕跡など、何一つ残さずに。
「………」
彼が死ぬときも、同じように何も残さずに消えるのかもしれないと思った。
伊鶴が愛する人と同じように。
何かが落ちる音がして、伊鶴は視線を足元に向けた。落ちた滴が一つ、地面を濡らしていた。
頬は濡れていない。涙ではないと空を見上げる、その頬にもう一つ滴が落ちて頬を伝った。
その一滴を皮切りに――大粒の雨が、激しく降り注ぎ伊鶴の全身を打つ。
髪を服を肌を浸し、流れ落ちてゆく雨粒を全身で感じながら、伊鶴は先程ここを去った青年に思いを馳せた。
「……恨まないと、仰っていましたね」
呟く独り言は激しく地を打つ雨音に掻き消され、伊鶴の耳にすら届かない。誰にも届かず霧散する意味の数々。
「……私は、恨んでおります」
急に降り出した雨に全身を濡らしながら、マリアットは手渡された紙袋を眺めた。雨に急かされて走る人、傘を差し悠々と歩く人、雨を楽しむように立ち止まって空を見上げる人、座り込んだまま動かない人。様々な人が行き交い通り過ぎる中で、水浸しになってしまったそれを開く。
その足が、唐突に止まった。急な停止に避けられなかったのか、背後から強くどつかれてバランスを崩す。その身体を支えるものはなく、彼を受け止める人はいない。
マリアットは濡れた地面に膝と両腕をつき、手から落ちた紙袋は再び地面に落ちた。ばさりと、開かれた口からその中身が、何枚もの写真がぶちまけられて広がる。
くずおれたマリアットを避けるように人は進み、彼など気にも留めない人もいればじろじろと無遠慮に眺めながら通り過ぎてゆく人もいる。そんな周囲に気付く余裕すらなく、マリアットはピルケースを取り出すと錠剤を口に含んだ。
指の隙間から零れた赤い錠剤が、様々な表情を見せる少女の上に落ちた。
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