エイニ・N・ニールネイルは狩人だった。
ヒトを――同族を狩る者としての役目を幼い頃から言いつけられ、そのように励み、正しく育った狩人だ。
獣の血を濃く引いて鋭敏な感覚も、僅かに顕出したバジリスクの魔眼も、戦う者としては大いに役立ち、エイニを優秀な狩人たらしめた。
だから。故に。
一人の標的にあまり手を拱いているのを、いい加減不審がられても仕方ない頃合いではあった。
「……ディド=パシャだな」
その男はエイニの見慣れぬ衣装を纏っていた。ゆったりとした紫の布を身体に巻きつけるようにして、金色の装飾が時折音を鳴らす。聴覚に優れたエイニにとってはそれが喧しく感じられた。
宿にしているらしい木造建築を背に立つそいつは、海の風に吹かれながら、見るからに不機嫌な様子の、陰気な男だった。話し掛けられるのも嫌だといった風情を漂わせている。
こちらもだと心中で呻く。どうしてこんな馬鹿らしいことを。
クロニカが何を言おうとエイニには関係がなかった。逃亡者が何を言い張ったって認められる筈がない。尊重する理由もない。尊重しろだなどとエイニは教わっていない。
交渉の必要はないはずだった。
「……何故知っている」
そいつは圧し殺すような低い声で喋った。
名前はクロニカ当人から聞いていた。ディドが。雇い主。契約している身分だから、どれだけ必要としてるかは分かんないけど。曖昧な表現が脳裏を過ぎるが、わざわざそれを告げてやる必要はなかった。
「調べたからだ」
「…………。何の用だ」
「……別にお前自身に用があるわけじゃない」
だから安心しろ、と吐き捨てる。
「クロニカの方だ。用があるのは。……単刀直入に話す」
相手が無口で助かった。さっさと話を終わらせられる。
どちらにせよ楽しい話題になどなりようはずもないのだから、すぐに本題に入ってしまったほうがいい。
「……金は出す。アレを俺に寄越せ」
こんな、ヒトをモノとして扱うような話は。
悪い話ではないはずだった。クロニカの話を思い出せば、こいつはあれを労働力として求めているだけのはずだ。特別惜しがる理由もないだろう。
代わりを雇うだけの金を用意してやって、契約とやらを切らせてしまえば、クロニカにはもう未練もないはずだ。クロニカの言動からも、大した情は感じられなかったのだから。
――里に帰ることに、多少の抵抗はあるかもしれないが。それはエイニにはどうしようもないことだった。
初めてそいつはエイニに正面から向き直った。
返答を待つエイニが見守る前で、腰の後ろからナイフを引き出す。
石で作られた黒いナイフだった。益体もないことをぼんやりと観察していたのは、
「なら、選べ」
「? ――!」
向けられた殺意が、あまりにも想定の外にあったものだったからだ。
伸び上がるように突き出されたナイフはエイニの首筋を掠めた。すんでのところで斬撃を躱して、エイニは数歩距離を取る。
嘘だろ。面倒なことになった。なんで。意味が分からない。そのどれもが本音で、或いは正しくなかった。
「口を噤んで帰るか、海に浮かぶかだ」
ただ、やり方を間違えたらしいことだけは、今のエイニにも正しく悟れた。
「……なんだ。思ったよりご執心なのか」
念のため首の傷口に触れる。幸い毒はなさそうだったが、それはそれとして目の前の男の殺意が揺らぐ様子はない。
ますます面倒だ。特別戦いが上手いわけでもないあれにそこまで執着する理由が思い浮かばない。あるとしたら、
一瞬脳裏を過ぎった生々しい映像を振り払う。
「こちらとしては穏当に済ませたいんだがね」
「興味などない。返答は決まったか」
「どっちも断る。残念ながら仕事なんでな」
しかも海とか。まっぴら御免だった。
海は嫌いだった。
吹き付ける湿った風も、含まれる潮の匂いも何もかもが辛気臭くひどく気が滅入る。今となっては癒えた筈の古傷も痛む。
何もかもがエイニの神経を逆撫でし苛つかせるのが海だった。気分が悪い。一刻も早く仕事を終わらせて帰りたい。
ただその一心である筈だったのに、どうしてこんなことに。
「本当のところ、別にお前の許可はいらねえんだぞ。――穏やかなもんだろ。金で埋めてやろうってんだから」
「そうか」
会話が成立していない。
再び踏み込まれ、今度は腰だめにナイフを突き込まれる。その手首を受け止めて、明確な殺意に迷ってから、
「…………」
諦めて、その身体を突き放した。再び距離を取る。
そう。目の前の男から放たれる殺意は本物だ。こいつは、本気でエイニを殺してやろうと思っている。エイニの側に殺されてやる気がないだけだ。
戦いに、慣れてはいると見た。探索者としての要求を受けて身につけたのだろう。ただ、戦う者として育てられた動きではなかった。
動き自体は悪くはない。所作も軽やかだ。だが熟練が足りていない。
そのくせ殺意だけが本物で、だから尚更タチが悪い。
「……別に俺はいいけどよ」
正当防衛という言葉が脳裏を過ぎる。今ならその主張が許されるのではないだろうか。誰か、目撃者のあるタイミングを窺って、何せこちらは徒手であちらには得物がある、不可能ではない。不可能ではないが。
風が吹いていた。海の上では潮風が止まない。それがどうしようもなくエイニを苛立たせた。
「お前の目を盗んであれを連れ帰るのはいつでもできんだから、そのことは勘定に入れてほしいね」
温情のつもりで掛けた言葉は完全に無視された。聞く耳持たないとはこのことか。低い姿勢で構えたナイフが今度は斬り払う形で振り払われる。執念めいた動作の繰り返しに、重ね重ね面倒になった。はっきりと舌打ちが口から漏れる。
とりあえず、腕の一本でも折れば変わるか。
ものは試し。雑な気分で魔眼を開き、殺意に満ちた瞳を見据える。一瞬だけ動きを止めたその腕を取って――
――聞き違えようもない、足音を捉えたのはその間際だった。
身のこなしの通りに軽い身体は、突き飛ばされて無様に海に落ちる。
――違う、無様なのはこちらの方か。それを見届けることすらできなかった、どうしてこんな――”尻尾を巻いて”逃げ出しているのか。
だいぶ遅れて、声が逃げる背中に耳に届く。気遣っている? にしては安穏とした声。状況がわかっていないのか。そうだろう。何せクロニカだ。クロニカ・Y・ニールネイルだ。
エイニとの、たった二日前の邂逅すら、どこまで覚えているか怪しい男だ。
『エイニはどうするんだ?』
『俺は家主と話をつけなきゃなんねえんだよ。だから一緒には行けない』
『……それは俺がいたらまずいのか? そんなに時間はかからないだろう』
『…………。面倒なんだよ』
『いや、ていうか一緒に行けない理由になってないし……』
納得の行かぬ表情は嘘を見破られていたからか。心の動きを悟られていると、そう感じることはあったが、明確に口に出すことをあいつはしなかった。
ただエイニを見上げて不満げだった。
『……分かった。後で追いかけるから、先に行け。だからそれ、絶対失くすなよ』
そう言ってやっと追い出したクロニカをエイニは追わなかった。
だから仕方のないことだった。
何もかも、全てが最早、仕方のないことだった。
『――それ、なんの本だ?』
――海は嫌いだ。海は嫌いだ。海は嫌いだ。
今よりもっと、どこまでも、海が嫌いになりそうだった。
☆ ★ ☆
ディドが海から顔を出してるのを見て、珍しい、と最初に思った。風に当たりに外に出ることはあっても、一人で潜ることはそんなにない。それがクロニカの認識だった。
何かいいものでも見つけたのだろうか。ウニとか。そう思って訊いたら睨まれたので首を傾げた。
今去っていった人影と何か関係があるのか。関係があってもなくても、ディドは基本的に常に不機嫌だが。
「なんだあれは」
「あれ」
「獣の耳の生えた男だ。見られたら体が動かなくなった。スキルストーンではないな」
「え? えーと」
関係あったらしい。
そういえば身に覚えがあるような。ディドに話をしていなかった。面倒がられたら嫌だったというのがその理由だった気がするが、クロニカが問題を先送りにしている間にあちらが動いたのか。というかそもそも、根本的になんの話だったか。
ちょっと待って、と前置いて、朧げな数日前の記憶を辿る。
「……確か、エイニ……?」
「……」
ディドは無言だった。濡れた布の水を絞っている。強い圧迫感にもう少し思い出そうと頑張った。エイニ。ニールネイルの。
「……狩人で」
「狩人」
「同族狩りの。……そういえば追われてるんだっけ……」
「そうか」
そうだった。そのことを伝えて厄介払いされたら面倒だなと思ったんだったか。
エイニ。恐らくエイニ・N・ニールネイル。彼のことはうまく覚えられない。
ということは、つまり、もしかしたら、というか。
「……あ、今のエイニか」
なるほどと思い当たって、彼が逃げ去った先を見るも影も形もなかった。
当然のことだし、追いかけても意味はないが。
「仕留め損ねた。次は殺す」
「……?」
前言撤回。意味がないわけではなかったらしい。
――いや、それより。今なんと。
「なんで?」
「腐臭がする」
「…………」
一体何を言われたんだ。
そこでやっと気付いたが、常の不機嫌にも増して苛立っているというか、通り越して殺気に満ちているというか、随分と腹を立てている様子だった。本当に何を言われたんだ。腐臭ってなんだ。
「……わかんないけど、狩人だからたぶん、相当強いと思うんだけど……」
どこから問い質せばいいのやら分からず、とりあえず、とクロニカは自分が知る事実をだけ口にするのだが、
「なら協力しろ」
「え、えー……」
この雇い主あまりにも決意がぶれない。むしろ殺意が。
金と血を貰う代わりに彼の探索に付き従う、という契約のつもりだったが、その中に殺しも含まれるのか。そもそもあれ一応自分の多分身内のはずなんだが、殺せというのか。連れ戻されたいわけでは決してないがしかしそれにしたってあまりにも。
ディドはもうクロニカに取り合うつもりはないようだった。何も言わず、濡れた足跡をだけ残して宿へと戻る彼を、クロニカは渋々追いかけた。