-DAY4-


 鈍く輝くスキルストーンを机の上に置き、ディド=パシャはまだ乾ききっていない髪から水気を取るべく、頭から布を被った。
 柔らかで手触りの良いそれは、テリメインに来てから初めて見たものだ。水をよく吸い取り、空気を通さないように細かく織られている。さぞかし上質なものであろうと思えば、日常的に濡れた髪や肌、ものによっては床の汚れを拭き取る時に使うのもこの類の織布らしく、ありふれたものだという。ディドの郷里では使う必要のないものであるからなかっただけなのだろう。

 ――識らないことがまだたくさんある。識らなければいけないことも。

 自分があの世界において、世間知らずであったと思ったことはない。だが、全く異なる成り立ちでできた、全く異なる人々の暮らす場所において、自分の持っている知識はあまりに役に立たなかった。

(『契約』のことについても、そうだ)

 織布を濡れた服と一緒に籠に放り込み、ディドは寝台に腰かける。

 クロニカ・Y・ニールネイルは、ディドよりも髪と肌の色が黒く、目がなお赤く、角の生えていて、魔法を扱う男だ。今のところ、ディドとは雇用関係にある。ディドが雇う側、クロニカが雇われる側。
 ここに来るにあたって成り行きで雇うことになったとはいえ、テリメインで仕事をするにあたって必要な人手という意味では、クロニカは今のところディドの要求に叶っていた。
 つまり、戦う力を持ち、雇う金が安く、その金を貰うだけ貰って逃げることはないだろうということ。理想的だ。働きの対価に、金に加えてディドの血を要求することを除けば。……しかも、与えてみれば余程不味そうに飲むのを除けば。

 郷里から持ち出して来た小刀の刀身を、裏表と回して見ながら、ディドは眉根を寄せる。黒く硬い石でできたこの小刀は、遺跡を探索する際に遭遇する魔物を倒すために持って来たものだが、ディドの手首を切るためにも使われていた。

 ――そういうこともあるか。

 相場よりは相当に安い報酬に加えて、「生きてゆくために必要だから」と血を求められた時は、その程度にしか思わなかった。
 角の生えた人間も、魔法を扱う人間も見るのは初めてだったから(もっともこのテリメインの中で行使される魔法は、あのスキルストーンという石によって齎されるものではあるらしいのだが)
 その血が、なくてもよい、と知ったのはつい先日だ。正確には、血でなくてもよい、だったか。もう少し詰めておけばよかったという気持ちがないではないが。

(今は一番血がいい、か)

 そう言ったのはクロニカである。
 血でなくてもよい、血は飲み慣れていない、今は血が一番良い。体質が変わって、血が必要となった。

(体のつくりが、そう簡単に変わるものか?)

 クロニカのことば全てを信用して推論を組み立てるわけにはいかないのは、先だってのことでディドは理解していた。
 けれども、クロニカがディドと似ていても、違う生き物であることは事実だ。どの程度違うのかは未だ分からないが、普段食べている食物とは別に、少量でも血を必要としているのもまた本当なのだろう。そうでなければ、あれほど渋い顔をしてまで血を飲むこともあるまい。

(知る必要が――)

 あるだろうか。あの図々しい雇い人について。
 契約に関わることについて、暈されている部分があるのは問題がある。けれど、暈されている部分があるままに受け入れたのは、他ならぬディドだ。あの男に興味をそそられていること自体が癪な気もしている……理由は分からない……しかし、『契約』のために、このまま自分の血を渡し続けていいものか。

「……」

 舌打ちし、ディドは立ち上がって小刀を机の上に無造作に置こうと――したところで、部屋全体が持ち上がるように揺れ、大きく傾いた。波にでも乗り上げたのだろう。嘆息して、革の鞘に小刀を収め、紐を机に固定された棒に括り付ける。

「……面倒だな」

 押し殺した呟きは、部屋の揺れに軋む音に呑み込まれてディド自身にも聞き取れないほどだった。