-DAY6-


 何を言っているのか分からない、という顔は、織り込み済みではあった。

「そういう契約に、なっていたはずだと思うけど」

 戸惑うように押し出された言葉も、そうだ。相場より安い金で雇われる、その代わりに提示した条件を呑んだのはこちらだ。今更になって蒸し返すことではあるまい、と考えているのだろう。

「……契約は契約だ。よほどのことがない限りは覆す気はない」

 だからこそ、ディドは腰に手を当てて、そう前置きした。
 クロニカは、なら、とは口にはしない。だが、いかにもそう言いたげな顔であった。こちらを窺う赤い瞳には、見慣れた色が浮かんでいる。――何日も食べていない餓えた子供が、ほとんど水のような粥を前にした時の目だ。
 成る程確かに、この男にとって血液はなくてはならぬものらしい。ゆえに、こちらが契約を呑んだ、その一点を、寄る辺ない顔でいながらも、譲らずに盾にするのだろう。

「だが、俺が、貴様が血を欲しがる理由を知ってはならないという契約ではない」

 こちらの言葉の後に、何か言うことを考えてでもいたのだろうか。
 クロニカの口元がもごもごと動き、体が傾げられる。唇が引き結ばれたり、開きかけたりと、はっきりしない調子で動いた後に、

「…………生きるのに必要だから」
「足らない」

 いかにも煮え切らない口調で言って、再びこちらを窺うように目線を向けてくるクロニカに、ディドはきっぱりとそう告げる。

「そういう体質だから……」

 勢い余ったようにクロニカはなおそう告げたが、それもまたこちらの納得するに足りない答えであることは理解していたらしい。ぼそぼそと自信なさげに言った後に、悩むように腕を組んだ。

「その理由では足らない」

 ディドも、相手が理解していることを分かりながら言い募り、じっとねめつける。

「……貴様は言ったな。《生きるのに必要だ》《だが血ではなくてもいい》《体質が変わった》」

 これらは確かに、クロニカが言ったことである。

 ディドにとってはすべて、改めて吟味してみれば、信じがたい言葉の羅列であった。血が必要であること、体質が変わること、血を必要としていると嘯きながら、血ではなくともよいということ。

 ディドの知るひとという生き物と、クロニカがまったく違うものであるというのは、その頭に生えた片角や血を啜ることから理解はしていたつもりであったものの、精々その程度だと考えていた。

「……血じゃなかったのは、血じゃなくてよかったからだけど」

 縮こまるクロニカの言葉は、相変わらず核心を避け、その周囲をなぞっている。

「今は、血で補うのが、一番自然で、負担が少ない。……お互いに……お互いに?」
「俺は貴様のような生き物を郷里では見たことがない」

 どうして自分で言っていて曖昧になるのか問い詰めたいところだったが、そろそろきりがないことは理解していた。ディドはあえて無視して言葉を続ける。

「血を与えるということは、俺の命を与えるということ。
 ……血を与え続けることが、巡り巡って俺の首を絞めないとは……限らねえ」

 言葉尻を選び、相手を見据える。クロニカは、相変わらずぼんやりとした表情をしていたが、

「……い、言いたくないとか、言うと、怒るか」

 こちらの言葉を一応は真剣にとらえているようだ。表情はそれほど変わらずとも、しどろもどろな声音で言って、こちらを見上げる。

「言いたくないのは知っている。だが、それは関係ない」
「…………。俺も別に、いじわるで言いたくないとかじゃなくて」

 わけのわからない前置きをしながら、クロニカは手をもぞもぞ動かした。言っていることが要領を得ない。この男がこちらに悪意を持っているなどと、想定したことなどなかった。そんな余力のない存在だ。常に、取り繕うのに精いっぱいの。

「言うのが、よくないと言われた。から、あまり」

 言いつけられたことすら言い張れない。これは、己の空腹や命に、直接かかわりのないことであるからだろうか。

 恍惚としているというほど呆けてはいなかったが、クロニカはどうにも己の意志が薄いように見えた。ぼんやりとしているようでいて頭は悪くないはずだが、己の言うことに自信はなく、言葉を発するのにいちいちおどおどしている。その割に、怯えながらも吐き出した言葉を押し通せるような気でいる。

「関係がない。言え、と言っている」
「……言わなかったら、ええと、あれか。雇用関係。……解消?」

 問われて、ディドは笑った。

「そう思うか?」
「……そうじゃないといいとは……」
「貴様が選べ」

 クロニカがこちらの意図を掴みかねた様子で目を瞬かせるのに、ディドはますます笑みを深める。

「言わずに去るか。言って楽になるか。言わずに血を求めるか。言って去るか。
 どれかが通ると思うなら、どれかを選べばいい」
「…………、たぶん、もう一個ある」

 沈黙の後、クロニカは小さく、独り言のように囁いた。相も変わらずぼそぼそと、しかし今までとは違ってなにか、確信のある口調で。
 ディドは顎をしゃくって見せる。

「言ってみろ」
「言って、去られる方」

 クロニカの顔から怯えの色は消えていた。

「世の中では、おかしいから、黙っていろと言われていた。……から。
 だから、言えばそうなるかも知れない」

 代わりにその顔にあるのは諦念だった。
 ディドは眉を寄せる。

「……それは、俺が決めることだ」
「……何か、嫌なこと、言ったか?」

 こちらの顔を見上げて、問いかけてくるクロニカを睨み返し、ディドは舌打ちをした。

「去るのか、去らないのか決めるのは俺だ。貴様じゃない。だから言えと言っている」
「…………お、俺が選ぶって話は」
「言うか言わないか、去るか去らないかは貴様が決めろ。俺のことは俺が決める」

 やっと、といった調子で問いを重ねるクロニカに、ディドは即答する。クロニカの表情はまた混乱していて、なにがしかに対する諦めは霧散していた。

「……ディドは、なんで、知りたがる?」
「理由は言った。足らないからだ」
「………………」

 クロニカの目が泳ぐ。先程まで話していたことを、ほとんど忘れているのか、それとも大して聞いていなかったのか。
 いずれにせよ、同じ話を二度するつもりはディドにはなかった。黙り込んで、クロニカを見つめる。

 クロニカはしばらく黙ったまま、こちらに視線を向けたり、思い出そうとしてか上を見上げたり、首を傾げたりしていたが、やがてやや納得のいかない顔になってこちらを見た。恐る恐るに口を開く。

「……必要なのは、……ええと、人間とか、とりあえず、人間に近い方がいいんだけど、……とにかく、そういう生き物の、精気、みたいなものなんだけど」
「精気」

 それはつまり、血のことだ。
 ディドは眉根を寄せて、また誤魔化すつもりか、と問いかけようとした。が、途中で止める。

「そうなんだと言われた。……意識して摂ったことが、今までなかったけど。
 誰かに頼んでもらうのなら、血が、一番早いから、……だから、血がいい」

 こちらの表情の変化に、クロニカは気が付かなかったようだ。首を傾げたままそこまで言って、再びこちらの顔の辺りに視線を彷徨わせた。

「……ひとの命を啜る生き物か」
「そういう血が強い、らしい」

 クロニカの口ぶりは、まるで他人事のようだった。自分のことについて何もわかっていない。
 誰かから言われた言いつけを守り、その理由も覚えているが、きちんと理解はしていないようにも見える。

 頭が悪いと言うよりは、そう育てられてきたということだろうか。
 従順で、大人しいこどもだ。ディドの郷里でも、何よりよろこばれるもの。

「でも、血はまずいな。血で食べると疲れる。仕方ないけど」

 思い出したように言って、クロニカは腹の辺りをさする。『仕方ない』と妥協で血を要求される身にもなれと、罵りたいところではあったが。

「……チッ」

 聞こえよがしに舌打ちし、ディドはナイフを取り出した。机の上に置かれた器を引き寄せると、一息にナイフで手首を傷つける。

「……でも、多分、摂らないとまた動けなくなるから」

 一拍遅れて呟いたクロニカは、こちらが器に血を注ぎ始めたのを見て、気の抜けたような顔をした。思いもよらなかった、という表情で、棒立ちのまま血が器へ落ちるのを眺めている。

「さっさと塞げ」

 ディドの言葉に、思い出したように頷いて、クロニカはスキルストーンを拾い上げる。
 ぱっくりと開いた傷口に掌が翳され、薄暗い部屋に淡い光が広がった。

「……うん。やっぱり覚えてよかった」

 見る見るうちに癒えた傷をちらっとだけ見て、クロニカは満足げに頷くと器に手をかけた。が、やはり一呼吸遅れて、何かに気が付いたように手を放し、器に向けて掌を合わせる。
 食事の前の作法か、何かか、なんにせよ、その前にあるのはディドの血液だ。暗い部屋の中で、黒く凝っている。

「いただきます?」

 ディドは再び舌打ちして、相手を追いやるように手を振った。

「ありがとう、ディド」

 応えても感謝してもいないような口調だ。従順で大人しいこどもは、丁重には扱われてきたのだろう。だから、こんなに図々しい。

 ディドはもう、クロニカに背を向けている。