-DAY13-


 傷口から流れ落ちた血が、杯に音もなく流れ落ちる。
 掻きむしりたくなるようなむず痒い痛みに耐えることに、ディドはもう慣れていた。
「塞げ」
 床に座り込むクロニカに、ディドは声をかける。何も言わずに血の流れるさまを眺めていたクロニカは、こちらの声に胡乱な顔で目を瞬かせたが、何も言わずに立ち上がって、傷に手をかざした。
「いただきます」
 傷の塞がったのを確認するのもそこそこに、手を合わせてクロニカは呪文のように唱える。それがディドへの断りではなく、どうも決められた作法らしいということに気づいたのはごく最近だ。
 ディドは何も言わず、傷の塞がった手首に触れた。痛みはなく、痕さえ残っていないが、むず痒さだけは残っている。気のせいなのかも知れない。ディドは軽く、傷のあった場所を親指の腹で擦った。
「明日、ねぐらを移す」
 杯を手に取ったクロニカの目がこちらを向いた。
 こちらの言葉が理解できなかったように口を開けたまま沈黙し、杯を胸元に寄せる。
「ねぐら」
 と、ようやくこちらの言葉を繰り返したようにつぶやいた顔も、まだ理解している風ではない。ディドは眉根を寄せる。
「ここを発つ、と言っている」
「新しいところに行くのか?」
 言いながら、クロニカは思い出したように手の中の杯に視線を落とした。こちらが問いに答える前に、勢いよくそれを呷る。
「ああ、報告書とやらも終わりだ」
 ディドたちが拠点にしているこのミドガルズオルムは、船室を無料で貸し出す代わりに、テリメインでの活動記録を対価として求めていた。字の書けないディドは、それをクロニカに任せきりにしていたが。
 血を飲み下したクロニカは、軽く咳き込んで口元を拭った。いつも通り。糧を食らうというよりは、薬を飲むようだ。実際、似たようなものなのかも知れない。生きるのに必要なもの、としか、クロニカは言ってはいない。
「そうなのか。……破るだけ破って逃げてしまった……」
 空の杯を持ったまま、ぼそりとクロニカがつぶやく。
「何かしたのか」
「えーと、……枕シーツが角に引っかかって……こう、びりっと」
 クロニカは言いながら、何かの破けるような身振りをした。
 クロニカの頭には片側の側頭にだけ大きな角があり、いかにも引っかかりそうではある。
「弁償はしたのか」
「別にこれくらいはいいって言われた……」
 報告書もらってるし、って、と申し訳なさそうに下がっていたクロニカの目線が、ふと上げられる。
「手伝いはした。シーツ運んだ」
 何故、この男がそこで誇らしげな顔をするのか、ディドには理解できない。
 が、聞いても詮無いことだという判断はそろそろつけられるようになっていた。視線を逸らす。
「ならいい」
「――次の場所。アテはあるのか?」
 クロニカは、話を本筋に戻すことにしたらしい。問われて、ディドは頷く。
 冒険者でごった返しているテリメインにおいて、彼ら相手の商売が増えることはあっても減ることはない。代わりの宿はすぐに見つかった。
「ふうん」
 何故か、クロニカは意外そうな顔をする。
「安いところか?」
「まだ、そうだ。だが、対価は金だ」
「………………」
 答えたディドを、クロニカはまじまじと見つめた。怪訝そうな顔だ。
「金を払いたかったのか?」
 言われて、ディドもクロニカの顔を見つめ返した。……確かに、そういった意味にもとれるかも知れない。
「払いたいわけじゃねえ。ただ、施しを受けるのはごめんだ」
 目を逸らし、ディドは言葉を選ぶように言う。
 報告書を提出しているのだから、正当な対価を支払っている、ということにはなるのかも知れない。だが、そうした相手の胸先三寸でどうとでもなる取引を、ディドは気に入ってはいなかった。クロニカにその対価を任せきりにしているということもだ。
 クロニカはこちらを見つめたまま、口をぼんやりと開けている。こういう時、この男は何を考えているのか分からなくなる。表情がない。
「施し」
「そうだ」
「……なんか払ってた方が、安心する?」
「払わずにいるよりはな。確かな契約だ」
「ふーん」
 納得したような、していないような声音で、クロニカは杯を卓に置く。
「じゃあ、これからは遠慮なくもらうことにする」
 何を、と言いかけて、ディドは口を噤んだ。空になった杯に目を向ける。ディドが支払う、クロニカへの対価。
「…………遠慮があったのか?」
「…………少しは…………」
 クロニカは目を逸らした。
「金だけに切り替えてもいいが」
 入ってくる金を増やすために出ていく金が多くなる、というサイクルは変わってはいないが、切り替えられる程度には収入は安定していた。もっとも。
「え、いやだ」
 クロニカが珍しくすぐに首を横に振る。この男が血を飲まないことには生きていかれないということを、ディドはむろん把握している。その血が、代替手段でしかないことも。
「それだとついていかない。というか、いけない」
「分かっている」
 自分にとって死活問題の割には淡々と述べ立てるクロニカに、ディドは頷いて見せる。
「なら、少しはマシに言い訳を言えるようになっておけ」
「言い訳」
「血を求める言い訳を」
「……………………」
 不思議そうに首を傾げていたクロニカは、何とも言えない顔になって押し黙った。
「……いっそ食べ物って言ったほうがいいのか」
「血以外のものを食べていて言い訳が立つならな」
「……………………考える」
 腕を組み、考えかけていたクロニカは、押し出すようにそう吐き出して、扉の方へ眼を向けた。
「そうしろ」
 ディドもまた、クロニカから目を逸らし、壁へ目を向けた。明日には別れを告げる壁だ。
「ほかで雇われる時に面倒にならないように」
「がんばる」
 こちらの言葉の意味を、やはりクロニカは深くは取らなかったらしい。
 どこかしっかりしない、ふわふわとした足取りで扉の方へ向かい、扉に手をかけてから、
「おやすみなさい。だ。ディド」
 いつものように、思い出したようにそう言って、扉を開けた。
 ディドは目を逸らしたまま、手だけ返事をするように動かした。