1.寄せ風

 脈動が拍打つ。
 深く深く奥底から、根源を握り締めるそれが主張して血を巡らせる。滾る血潮に全身を侵される。
 喰らわれる。

 掲げられた凶刃の、促し乞うた狂刃の、聳え立つ存在が見える。
 その表情が見えない。
 視界が霞む。鮮やかに煌めく光と対照に、靄が掛かったように、顔は遠くぼやけてしまう。
 その不可解を、不可解とは思わない。

 見たくなかったのだ。
 それを理解し瞼を伏せた。
 世界が赤く染まる。囁きがざわめきが膚の裏表を引っ掻き回しけたたましく嗤い叫ぶ。
 恐ろしく耳障りな声も侵食も、相反して心地よく寄り添う好ましき隣人のように思えて、
 ――もう、保たないのだと、悟る。

 薄目を開ける。
 歪む世界の眩しい姿。呼び起こされる懐郷、懐古、そういった全てを置き去りに。
 そうしてただ一つだけが残る。

 きっと、焦がれ続けていた。







************ * * *  *   *        *







 目を醒ます。
 枝葉を大きく茂らせた大樹の陰に座っていた。
 背中を預かる幹は太く逞しく、差し込む木漏れ日の眩しさが目を刺して踊る。

 鳥が頻りに囀っている。

 広がる空は澄み渡り青く、なだらかな広陵は生命に満ちた濃色をしていた。その果てに聳え立つ厳つい城は、されど不思議に緑に馴染み見る者に違和を抱かせない。
 通り過ぐる柔らかな風が頬を撫ぜて去り行く。若々しい深緑の薫りが鼻腔を擽り駆け抜ける。懐かしい匂いだった。
 何処か遠く、果てに置き去りにしてしまったものに再び巡り会えたような感覚を胸に、花冠は視線を上向け天を仰いだ。

 枝で囀っていた鳥が二羽、羽ばたき悠々と飛び立っていく。
 その様を認めて、それを見遣り見送る自分自身の様を認めた後に。
 花冠ははっきりと、自らの身体能力の低下を自覚した。

 それから遅れて今更のように気付く。
 視界に映るあらゆる全てに、何ひとつ見覚えのないことに。

 どうやら自分はいつの間にやら、ひどく面妖な異郷に迷い込んでしまったようであった。



 足元に転がっていた小さな旅荷を拾い上げて立つ。
 今の花冠の周囲にあるものは自然物の他にはこれくらいだった。自分自身と、自分の持ち物。それだけが全てで完結していて、人の姿が見当たらなければ小屋や橋などの人工的な建造物はありそうにない。
 崖を越えた先に聳える巨大な城の他には、何も。

「フィンヴェナハ」

 一応と呼び掛けた名は、少し前まで行動を共にしていた同行人のそれである。
 返答はない。沈黙を覆い隠す優しさが如く、木の葉擦ればかりが虚しくささめいた。

 当たり前だった。気配はない。影もない。何か大きな生き物の動く様子も感じ取れない。
 であればこの周辺にあれはいない。幾ら花冠の感覚器がその機能を著しく衰えさせていようとも、あれほどの苛烈な気配を姿を挙動を感じ取れぬ筈がなかった。
 例えあれが自分と同様に枷を掛けられていようとも、あれがあれである限り。
 あの気質が性状が、自らを誇示することもなく潜む事を、許す筈がないのである。
 だから声など呼び掛けても、それはただの無為に過ぎなかった。

 だが花冠に分かるのはそれだけである。
 フィンヴェナハが今、花冠がその気配を感じ得る範疇に存在しないという事実だけで、あれがどうなったかもどうしているかも知る由も術もない。行方も安否も生死も、何もかもが。

 フィンヴェナハの姿がなく、行方も杳として知れず辿る手段もないというのは少し奇妙な気分だった。
 とはいえそれだけに留まる。花冠が心配する相手ではないし、花冠の助けを必要とする相手でもない。
 むしろそのような差し出がましさを、あれは蛇蝎の如く嫌うのだろう。
 誇り高き龍族として。このような、一介の人間の。



 風は相変わらず柔らかく穏やかだった。寄り添うように纏わりつくように花冠の肌を触れる。
 奇妙な感覚だったが、不思議と不快ではなかった。
 傍に在るべきものが、共に在るべきものが、当たり前に在るだけ。そう思わされて、それを自然と受け入れていた。
 数年来の友が如く。あるいは共に暮らしてきた家族が如く。
 枝を包みそよめかす無形の絹布を、花冠は確かに見て取ったのだった。

 今の自分の身体能力では、刀の一本で野生の熊を狩ることなど叶わないだろう。
 木を頂上まで駆け上がることも、雨を連れ歩くこともできない。
 龍の片翼を落としたなど笑い話にしかならない。
 否、それは元から笑い話か――まぐれ当たりを随分買われてしまったものだと思う。
 たとい常軌を逸した身体能力を備えていようとも、自分はどこまでも、人間でしかなかったのに。
 だからあの刃を。



 崖を降りる。突き出た岩先に手をかけ、
 雨は降らずとも風は吹く。緩かに傍に共に在る。
 その力を借りる術を、いつからか当然に知っていた。

 嘗ては遠く果てにあったあの城はもう、随分と近い。
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