2.行く先を

 その横顔はまだいとけなく、その体躯は折れそうに細く、伸べられた指先は頼りなく繊細な作りをしていた。
 成熟前の子どもの造形は、見るものの庇護欲を誘うよう形成されている――そんな風に聞いたこともあったか。だがこれではあまりにも逆効果だ。
 こんなにも弱々しい生き物であれば庇護を誘うよりも外敵の目に留まる方が早い。容易く狩られ得る獲物であるとその弱味を、惜しげもなく世界に晒してしまっているのだから、とんだ欠陥構造と評さざるを得なかった。

 そう、ひどく幼い少年だった。
 何年ばかりも生きていないように見える。子どもというものはこんなにも小さいものだったか。久しく間近に眺めることもなかったからとんと忘れてしまっていた。
 身体には襤褸に近い衣を身に纏っており、見るからにみすぼらしい。その貧相な様子もまた子どもの脆弱性を否応無しに強調していた。

 その子どもは、ひ弱い子どもは、薬草を手に傷痕に触れていた。
 泥に汚れた顔。痩せた頬。がさがさに荒れた指。
 容易く捻り潰せてしまいそうな儚い命の持ち主が、こちらを見上げて言ったのだ。

「あなたは、山神さまでしょう?」







************ * * *  *   *        *







 平原に一人立ち空を見上げる。
 こんなに澄み渡った空を、花冠は長らく見ていなかったような気がしていた。自分の知っている空は、少しずつ、しかし確実に、蝕まれるようにその色を汚していったから。
 だからだろうか。妙に、懐かしい感覚を覚えるのは。

 花冠の目算の通り、城に近づくにつれ人間の姿が多く見られるようになっていった。
 不幸中の幸いというべきか、また奇妙なことであったが――行き交う人々の話す言葉と意味は、花冠の耳にすんなりと馴染んでいた。彼らの多くは見慣れぬ服装をしていたし、人種も花冠とは違う者が大半、時には見たことも聞いたこともないおかしな生き物すら見受けられたにも関わらず、だ。

 いつかとは大違いだ。ぼんやりと、そんな風に考えていた。

 彼らの中で最も積極的に花冠に話しかけてきた女性と大男はしかし、この地についての説明は殆どしてくれなかった。
 花冠が”それ”――エンブリオだのネクターだの、一揆だの魔王だの――への知識をある程度持っているという前提で話を進められてしまったのだ。
 できることならそのあたりの基本的な情報についても詳しく聞いておきたいところだったが、残念ながら二人は多忙らしい。説明もそこそこに何やら託されて送り出されてしまった。

 このご時世に一揆とは随分と前時代的な。
 花冠が最初に抱いた感想はそれだったが、そもそもこの地の時世を花冠は全く知らない。もしかしたら当たり前に一揆が頻発している地帯なのかもしれない。
 と、そこまでは納得できるにせよ、魔王とは。
 そんな名前の曲が異邦より伝えられていたかもしれない。……間違いなくそれとは別物だろうが。ご時世以前に浮世離れしたその響きについても、やはり一つも説明がない。

 ただ自分はその”一揆”の参加者として扱われていて、協力者は”魔王”とやらを倒すために”魔王城”に向かうよう指示を受ける。
 加えて、先程からちらほら散見される人々の大半は一揆に参加するためにその道程を進んでいる。
 花冠が把握できたのは、概ねがそんなところだった。



 これらの情報を元に、さてどうするか、と考える。
 先程腕試しにと軽く身体を動かすことになったが、やはり身体能力の著しい低下を再び実感させられる羽目になった。
 それに反し、自分に寄り添う不思議な風――花冠はこれがエンブリオと呼ばれる代物ではないかと思っている――はやはり腕に獲物によく馴染んだ。
 だが一方でまだその力を上手く引き出せていない感覚もある。自分はこれから、この風についてもっと理解を深めるべきだった。

 視線を空から平野へと下ろす。
 示された先、その果てに魔王城とやらはあるらしい。
 多くの人間が一揆に参加するのだと言う。もしかしたら花冠と同じような状況にある者もいるかもしれない。
 元の地へと帰るための術を持っている人間も、あるいは。
 だから。

(――一揆とやらに参加することで、いつか)

 再び故郷の土を踏めたなら。



 方針は決まった。
 もう迷うことはない。
 先を行かんと足を踏み出す、その寸前で――視線を感じた。
 振り返る。

 目に入ったのは鮮やかな赤色。
 見慣れた姿がそこにあり、こちらへと向かって来る。



 揺れる。



「……花冠、見付けたぞ」

 心身ともにひどく疲弊した様子だった。これらしくもない。
 ――とはいえ、”らしくない”のは当たり前か、と一人納得してから口を開く。

「衰えているのは、お前も同じか」
「フン、これ程の不自由を感じることがあるとはな」

 一目見てはっきりと分かる。フィンヴェナハも同様の身体能力の低下を受けていた。
 花冠を上から下まで眺め見るその様子すら、どこか鬱陶しげだった。

「花冠、お前の衰えは如何ほどだ?」
「さてはて。……少なくとも、あれを捕らえることは叶わんだろうな」

 空を見る。
 鳥の影が花冠とフィンヴェナハの間を横切り、そして遠ざかった。

「そうか……。まったく、何がどうしてしまったというのだろうな」

 声音からはあからさまな戸惑いが感じられた。
 これにしては珍しい。いかなる時も不遜さを失わぬ豪傑であるというのが、フィンヴェナハについての花冠の認識だった。
 腰の刀に手をかけて続ける。

「我に至っては、こいつの重さすら感じるほどだ。今の今まで、棒切れとも変わらぬ様に振るっていたというのに」
「俺には分からん。貴様であれば、何か分かることでもないかと思っていたが」

 たかが百年二百年程度生きた花冠とは違い真に悠久の時を重ねてきた龍族である。
 花冠には理解の及ばぬ不合理不可思議であろうとも、フィンヴェナハであれば識っているのではないか、と期待しないでもなかったが、この様子では望みはないだろう。
 どうしようもないことだった。



「……変化を解くことが、出来ぬのだ」

 そう述懐したフィンヴェナハの声は――錯覚だったとも知れぬ、けれど花冠の耳には間違いなく、震えていた。



「……お前はこれからどうするんだ」
「どうもこうもない。まずは貴様を見付けて、それから考えようとしていた」
「では、考えたのか?」
「……いや」

 そもそも花冠が同じ地に降り立っているかすら分からなかったろうに、無謀というかなんというか。
 もしフィンヴェナハだけがここに来ていたらどうするつもりだったのだろうか。永遠に自分を探し続けていたのか。

「……そういう貴様は、どこへ向かおうとしていたんだ? 我を探しているようには、見えなかったがな」
「お前がここにいるかどうか分からなかったからな。探しようがなかった」
「力が衰えても何も変わらぬな、貴様は」

 もしフィンヴェナハもこちらに来ていたなら、人の多いところにいた方が見つけやすいだろうと考えて城まで来ていた面もあったのだが――当たりだった。
 まさかこんなにも早く見つかるとは思わなかったが。幸いと言うべきなのだろうか。
 それから先程の女性に示された先、多くの人が向かった先へと視線をやる。

「……魔王城、と言ったか? そちらに向かえと言われた」
「魔王城か、絵空事を引き摺りだしたかのような響きだな」
「俺も、話に聞いた程度だ。何の恨みのある相手でもない。……だが」

 少なくとも今は、そうするのが正しい気がした。
 多くを知るために。自分の故郷へと帰るために。
 遠回りでも、それが一番正しい道だと思ったのだ。



 花冠の見据えた先を、フィンヴェナハもまた同じように視線でなぞった。

「お前が言うのなら、そうなのだろうな。果ての無い旅の続きと行くか」
「……ついてくるのか」

 意外だった。
 幾ら故郷へ帰る手段を探すためと言え、一揆とやらも魔王とやらも、直接的には全く関係のない事柄である。
 些か悠長にも程があるこの道をフィンヴェナハは厭うものだと、彼女は彼女なりに、変化の術を解くための――元の力を取り戻すための手段を探すものだと、そう考えていたのだが。

「元より、そのつもりだと言ったが」

 随分と酔狂なものだった。
 ――思えば最初からそうだったか。陽光に語らった穏やかな時間。
 『我がものとなれ』と、そう語りかけてきたその時から既に、この龍は随分と奇矯だった。

「……お前がそうしたいのなら構わん。好きにするといい」

 フィンヴェナハがそうすると言うのなら、花冠には止める術も理由もない。
 ただその望みを受け容れて、されど自分は自分として、進むと定めた道を征くだけだった。







************ * * *  *   *        *







 愚かな子どもだった。
 哀れな子どもだった。
 愛しい子どもだった。

 一度なりとも、震える身体を引き寄せていたなら、何か変わっていただろうか。
 一度なりとも、その頭を撫でてやることができたなら、何か変わっていただろうか。

 彼の望んでいたものなど、最初から全て解っていたというのに。



 全てが後手だ。
 もう叶わない。



 血に沈んだ白い掌に寄せて、ついに見ることの叶わなかった未来を幻視た。
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