55.為すべきこと
赤く朱く、あかい世界に浸り続ける。
眠っている。声を聴く。
あなたと共に在る。
その地も一面見渡すかぎりが紅く、いっそ、懐かしさにさえ囚われてしまいそうだった。
ネクター。メルンテーゼにのみ存在する、エンブリオ契約との媒体になる花。
新王が独占したもの。
”一揆”の原因となったもの。
世界を埋め尽くされんばかりに積み上げられたあかいろが零れ咲く。
濃密な花の香が鼻腔を擽って、眩暈すら覚えそうだった。
自分の知る、根源に在る原初の朱とは違う色だ。
違っている。
分かっている。
それでも。
この道を進んだ先に、新王が居るのだという。
「……できることをするんだ。ボクにできることを――足を引っ張らないように……」
耳を打ったのは呟き声だった。
ジェイド=サザンクロス。この一揆の旅路で、何度か道を共にした少年。
翡翠の瞳が紅を映して、不可思議な色に染まっていた。
「……ジェイド」
「! あ……す、すみません。花冠さん。どうかしましたか?」
「いや。なんでもないが……」
言い倦ねて逡巡する。
「……妙に、気負っているように映ったから」
その言葉に、少年の翠の瞳がきょとりと瞬かれた。
不思議なことを言われた。
そう感じさせられる反応だった。
「それは、そうです。……皆さん、とても強い方々ですから。ボク一人じゃ、とてもこんなところには来られなかった。だから、せめて、足だけは引っ張らないようにと」
たどたどしい口振りながら、決意の強さを感じさせる声音だった。
これから花冠らはこの先に居るという新王パラダイスに挑むところだった。
進行先の確認に一時的に姿を消しているトーマスと、花冠。違う方面から攻め上がる予定のラノエルージュとフィンヴェナハ。
噂の新王を相手取るにあたって四人では戦力に不安があるからと、ラノエルージュが誘いをかけたのがジェイドだった。
彼は驚きと共にその提案を聞いていたが、最後にはその提案を受けてくれたから、今ここで共にいる。
「……お前が足手まといにはならないからこそ、ラノエルージュはお前を誘ったのだろう」
「そう、でしょうか。そうだと、嬉しいんですけれど。……でも、やっぱり、皆さんに比べたら、どうしても……あ、いえ、その!」
気弱な表情で零してから、はっと弾かれたように顔を上げる。
「もちろんちゃんと、一人分、ボクのできることは、させていただくつもりでいます! ……自分の力不足を、言い訳にするつもりは、ないんです。すみません」
言うとまた俯いてしまった。
その静かな横顔を眺めながら、
「――お前は『できることをする』と言うが」
口から滑り落ちたのは、ずっと胸に蟠っていた、自らに対する疑問だったのだろう。
「『できることをしない』というのは、そんなにも恐れるべき罪悪なのか?」
ジェイドの翡翠の瞳が瞠られる。
そのさまを見て、しまったな、密かに思った。
吐き出してから自覚する。――八つ当たりだ。あまりにも大人気なく見苦しい。
手を伸べなかったこと。
退路をなくした彼らの手を振り解き、振り払い、突き落としたこと。
果たして自分の手に彼らを救うだけの力があったかは知らない。
それでも、求められた手を、
――『できること』。交わした覚えのない約定。
自らの立ち位置。
自分の意思で求めたもの。
なにもかもいびつで中途半端だ。
「……必ずしも、それが罪悪であるとは思いません」
少年の声に引き戻される。
瞳はこちらを見ていた。
涼やかな色は、好ましい、と思う。
朱からは程遠い。
「できることを、なんでもやらなければならないのなら、能力のある人は大変です。それが、多才であればあるほど。……こんなところばっかり変に平等で、強くてすごい人たちも、こんなボクでも、身体は同じく一つしかないんですから」
自嘲をおかしげに目を細める。
「でも、ボクは……ボクには、できることが、あまりにも少ないんです。昔からそうで」
一揆が始まったときは、そんなボクでも何かもっと、できることが見つかるんじゃないかって、都合のいいことを考えもしましたけど。そんな都合のいい話でもなくて。
語る言葉はひどく気弱だったが、花冠の目にその横顔は、揺るぎのないものであるようにすら映る。
「……だからこそ、せめてそれだけは為し遂げたいんです。求められたことを。自分の役割を――『ボクにできること』を」
花が揺れていた。
視界いっぱいに、隅々まで、あかいはなが、あかく、あかく、
ささめき、ささやき、あなたを愛す。
「――花冠さん、ジェイドさん、お待たせしました。ノエルと連絡取れましたけど、あっちもちゃんと来れてるみたいです。この先に新王様がいるはずです」
「ああ、すみません。トーマスさん。……ありがとうございます」
「……世話をかける」
先行していたトーマスが戻ってきた。
彼が一人先に向かったのは、この中で最も護りと癒しの力に長けており、強敵の急な襲撃にも対応した上で戻って来られるだろうと思われたからだった。
屠る力しか持たない花冠とは違って。
掌を見下ろす。
結局最後まで、他を護る力は花冠には馴染まなかった。
それが自分にできることだと言うのだろうか。
であればあの日、手を払い手を拱き、全てを殺した自分の選択は。
「……花冠さん?」
「……ああ、すまない――すまない。今、行く」
我に返る。
赤い世界に、だがそうではない、二人の少年の姿が見える。
ここはメルンテーゼだ。
一揆衆が果てに辿りついた地、新王の御膝元だ。
ただ、それだけの場所だ。
「今、行く」
できることを。
するのが確かに、一番良いのだ。
だが、知ってその期をとうに逸した自分は、
果たしてどうして、許されようか。