54.訣別

 根本的に彼らがどういう存在であるか。
 あまりにも長く時を重ねた故に忘れてしまっていた事実を喉元に突きつけられる。

 黒狼を見下ろす。
 何もおかしなことは言っていない。
 そう確信しているかのように、あまりにも彼は、堂々としていた。

『麓に山里があったはずだ。まずは、あの地の人を喰らう』

 実際、そうなのだ。
 彼らにとってはそうするのが当たり前。
 今までは必要に迫られることがなかったためにそうすることがなかっただけ。
 選択肢としてはずっと横たわっていた。

 そのことを理解できなかった。



「何……言ってんだよ」

 声が震える。
 違う。理解したくなかったのだ。
 自分は彼らとは根本的に異なる存在であったが、それでも、彼らと共に過ごした時間は本物だったから。
 本物であると信じたかったから。

「貴様が我らを見放すというならそうするより他はない。あやかしどもを相手取るより、脆弱な人間のほうが容易い。当たり前であろう」
「そういう話じゃない!」

 それなのに言葉は、断絶はあまりにも厳しく残酷だ。
 届かない。分からない。
 少なからず同じ時を過ごしたはずの相手が、得体の知れない何かに成り果ててしまったように思う。

 芽生えた情など。交した言葉など。
 何もかもすべて、まやかしであったかのように。

「そうじゃない、だって、人を食らうなんて――そんなの」

 おかしい。やめてくれ。
 その里は自分の故郷ではない。自分は彼らが襲おうとしている村のことなど知らない。
 それでもそんなことは許せるはずがない。
 日々に生きる人々の、尊い、当たり前の、今は遠く離れてしまった、ずっと想ってきた、懐かしんで来た、
 焦がれてきた、その営みを。



「――では、どうすればよいというのだ?」

 鋭い声に射貫かれて立ち尽くす。
 こちらを見上げる満月の瞳も、同じく恐ろしく尖っていた。

「真朱。貴様は我らを見放すのだろう」
「……っ」
「故に我らは、我らのみで生きるために道を選んだ。我らにはこの道しか残されていない。それを責めるというのは、我らに滅びを突きつけるのと同義だ」

 責めるような響き。
 輝かしい金色の、その奥に潜められた瞋恚が、ひどく真っ直ぐにこちらを向いていた。
 塗り固められたような硬く強張った敵意だった。
 それが、何故か酷く悲しく感じられて、

「……でも」

 言葉を見つけられず唇を噛んだ。

 これは、裏切りなのだろうか。
 彼らの言葉は理解できない。彼らが何故、自分を真朱と呼び、主であることを求めるのか。何もかも分からない。
 それでも自分は彼らのことを愛しい隣人であると認識していた。彼らは身勝手に自分をこの地に攫ってきた男に従属しており、或いは仇敵であるとすら言えるのに、そのように感じてしまっていた。
 それほどに過ごした時は彼にとって長く。
 それほどに他人との関わりに彼は餓えていた。

 それなのに、何か大きな歯車が狂って、異世界にでも迷い込んでしまったように世界は反転して、変わらないままなのに、すっかり変貌してしまった。
 どうして。それを問いかける相手は見つからない。
 どうして。自らに問いかけても果てがない。

「でも、そんなのは、駄目に決まってる――!」



「――貴様は我らの敵となるわけだな」



 依然酷く、硬い声だった。

「……え?」

 面を上げる。目の前の黒狼の姿が揺らめく。
 ぬばたまの黒が霧のように滲み揺れて、充ち満ちる瘴気の中にただ二つ、黄金の輝きがこちらを居抜き――

「であれば」

 牙を剥く。
 ぎぢりと歯の擦れる音と同時に、鋭い顎が大口を開けて首に喰らいつき、その喉笛を噛み砕いた。







 ――どう、と。
 音を立てて体躯が崩れる。
 黒い血がどろりと大地を濡らし、霧散していく。

「……まほ、そ」

 彼はその場に立っていた。
 自分の血と、黒狼の血と。両方に全身を濡らして、ただひとつ握り締めた刃を、獣の鼻先に突き付けた。

『――村の大爺に貰ったんだ。なんか、曰くつきらしくて』

 語っていた子どもの姿が、霞がかった思考に揺れる。
 その子どもは今はもうどこにもいない。

 彼は黒狼を見下ろしている。
 自分がその身を切り刻み、肉を貫き内腑を抉って引きずり出し、踏み躙った相手を見下ろしている。
 色の違う双眸で、刃物のような視線をまっすぐに向けている。

「………」

 噛み千切られた筈の彼の喉は血で汚れて、そのくせ、どこにも怪我の痕は見られない。
 ぼろぼろになった服を汚して立ち尽くして、横顔には表情らしい表情は覗えなかった。

「真朱」

 その、名を呼ぶ。
 彼が彼であると認めない名を呼ぶ。
 彼の掌から零れ落ちてしまった、その名を呼ぶ。



「真朱。――貴様は、我らが約定を破るのか」



 責める以上に彼を悼む。
 悼む以上にその有り様を悲しく想う。
 このように口にしておきながら、黒狼は彼に、裏切られた、と感じてはいなかった。

 ただ、それでも――それ以上に。
 だからこそ、痛ましかった。

 いらえはない。
 彼は異貌の妖魔どもが向かった先を一瞥し、それから狼へと視線を戻し、

 銀の閃光を、振り抜いた。







 ――殺すために殺すことは、存外簡単なのだと知った。
 積み上げた屍の山を踏み潰す。
 皆一様に嘗て共に時を過ごし、時に諍い、また馬鹿げた話に笑い、心を許した相手だった。

 粘着いた、人のものでない黒い血と、臓物と表現すべき彼らの中身。自分が引きずりだしたそれらに汚されて、身体が妙に重い。
 屍。もう命のないもの。抉り出された瞳が悲しげにこちらを見上げている。



 そう、殺した。
 ひとり残らず殺した。
 殺さねば彼らは人を襲うのだと知った。
 自分が憧れた、自分が嘗て満喫していた、
 自分にとってはあまりにも遠く在る人々の安寧を、喰らい尽くす存在なのだと知った。

 野放しになどできるはずがなかった。
 自分は家族を愛していた。
 同じように家族を愛する者たちが集まって、人の暮らしを営みを形作っていることを知っていた。



 自分は彼らを愛していた。
 独りきりで育つことができる筈もない。
 それが野放図で、自堕落で、彼らの勝手気ままな振る舞いの延長にすぎないのだとしても、全ての元凶が彼らにあるということを知っていても、
 自分は、同じ時を過ごし、感情を共有して、笑い、泣き、共に在り続けることのできる相手を求めていた。
 そうして故に、彼らに満たされていた。



 ひとり残らず彼らを殺した。
 どうして、と、問われた。
 ずっと一緒にいたじゃないかと責められた。
 悲しげに、悔しげに、苦しげに――辛い、という、自分にも理解できる感情のかたちを、彼らは自分に示していた。

 捻り潰した。
 何もかも、容易かった。

 ――そうして初めて、自分が人ではなくなっていることを知った。



 足裏にぐちゃりと柔らかい肉の感触。
 思わず身体の平衡を崩し、支えるために掴んだのも同じく遺骸だった。
 皆一様に、



「――ふざけるな!!」

 張り上げた声に、びりびりと地が震える。
 木々はささめく。雲は流れる。
 世界は何も変わらない。

「なんで、なに考えて――この、馬鹿野郎が!」

 拳を強く握る。食い込んだ爪、黒く汚れた皮膚に血が滲んだ、それでも痛みなど感じない。
 今更そんなものを感じはしない。

 そんな瑣末は、とうのはてに、置いてきてしまった。



「なんでだよ! ――なんで、なんで」

 膝を折る。
 力を無くして地に蹲る。
 汚れた頬を一筋、透明な涙が伝って濁った。



「なんで、こんなこと、しなきゃいけなかったんだよ……」



 ――その全てを聞く者は、他にいない。
 その姿を見る者も、また。