九日目

『おにいちゃんのこと、ほんとうにだいすきなんだね』

 深夜、ぱちりと目を覚ました。
 今日も今日とて勝手にリーの布団に潜り込んでいたので、瞼を上げた瞬間目に入ったのは細い背中。
 を切って溢れ出したのは、思い出の波だ。

「……あの子の言葉だったんだ」

 ずっと忘れていた。長い年月で、いつの間にか風化しかかっていた。
 思い出したのは多分、同じ匂いを感じたから。



 あれは私がリーに会う少し前。
 お父さまはお仕事で遠くへ。お兄さまは"検査"があるらしくて病院に入院。お母さまも付き添いで家を空けていて、広い屋敷には使用人たちと私しか居なかった。
 構ってくれる人が居ないから暇で仕方がなかった私は、こっそり忍び込んだお兄さまの部屋で一つの鍵を見つけた。

 お父さまがまだ私という存在を隠していたころ、屋敷の地下の一室に私はずっと居た。
 それでもお兄さまは皆の目を盗み、これを手に隠れて私に会いに来てくれていたのだ。
 そうだと分かった瞬間私の頭に思い浮かんだのはあの部屋に置きっぱなしの絵本やぬいぐるみの存在。
 あそこにはあまり足を踏み入れたくないけれど、それでもそれらを持ってくればちょっとぐらい暇つぶしが出来るだろう。

 とにかくなんでもいいから少しでも暇を潰したかった私は、気付けば地下まで足を運んでいた。
 鍵を使って扉を開ければ懐かしい匂いが鼻腔を満たし、遊び道具を持ち帰るだけだと首を横に振って鬱憤とした気分を吹き飛ばし足を踏み入れ。

 そしたらあの子がそこに居たのだ。

「へ」

 泣き腫らして赤くなった瞳。整えられてないボサボサの赤い髪。
 私と同じくらいの年の女の子が部屋の隅で蹲って、こちらを見ていた。

「ど、どーしたの!?」

 突然のことに完璧に混乱してしまった私は、それでも泣いてるその子の姿に胸が痛んで慌てて駆け寄ったのだ。
 私が泣いた時にお兄さまがしてくれるみたいにその子の頭を撫でて、ついでに髪も梳かすように。

「こ、ここ、どこか、わからなくて。わたし、なんで」
「わからないの? えっと、その、……あっ、もしかして、あなたもお父さまのかくしご?」
「かく、しご? ……よく、わかんない。わたしね、はやくおにいちゃんにあいたいの」

 暗い狭い部屋に閉じ込められてぽろぽろと涙を流し、おにいちゃんに会いたいって零すその姿は当然のようにいつかの自分と重なった。  
 この子が会いたいおにいちゃんっていうのは誰なんだろう。お兄さまのことだろうか。お父さまの隠し子なら、この子のおにいちゃんもお兄さまってことになる。でも生憎、お兄さまは入院しててこの家には居ない。

「おっ、お兄さまね? いまちょっとにゅーいんしてて、かえってこないの」
「にゅーいん? ……おわったら、ここにくる?」
「うん! えっと、だからね、そうだ。それまでわたしとあそびましょ?」

 ちょうどね、ひましてたの。そう言って私はその瞳から零れる涙を拭って笑いかけた。
 この部屋で一人で過ごす寂しさはよく知っていた。時折訪れてくれるお兄さまの存在がどれだけ暖かいものだったかも。
 使用人たちに此処に居ることがバレたらきっと怒られる。でも彼らが訪れるのは夕飯の時間だから、まだ大丈夫。
 だからそれまでは、私がこの子にとってのお兄さまになってあげようってそう思って。

「いいこにしてたらきっとすぐ、お兄さまがきてくれるわ」
「……うん、わかった」

 差し出した掌をその子がぎゅっと、ちゃんと握り返してくれたことに安心した。

 それから私たちは数日間、使用人たちとは隠れてその子と遊んだ。
 同じ年の子と遊ぶのは初めてで、ついでに二人ともお兄さまのこと大好きだったから、その話でもすごく盛り上がってとっても楽しかった。

「おにいちゃんのこと、ほんとうにだいすきなんだね」

 お兄さまのことばかり話す私にあの子は笑って、「わたしもだよ」って幸せそうに返してくれた。


 けれど。

 一足早くお母さまが帰ってきたのと同時に、気付けばあの子は地下室から居なくなっていた。
 驚いたけれど誰に聞くわけにもいかなかった私は、それから数日して帰ってきたお兄さまに、怒られるかなと思いながら恐る恐る尋ねたのだ。

「ちかのあのこは、ちゃんとお兄さまにあえた?」

 するとお兄さまは驚いたように瞠目し、でもそれから優しく笑んで私の頭を撫でてくれた。

「うん。ちゃんと、会えたよ」 




 それが今になって漸く、違うと分かる。
 あの子が会いたがってたおにいちゃん。それが私の想うお兄さまではなかったということ。

「……リー」

 煙草臭い服の向こうにある、同じ香り。
 触れてはいけないものに触れてしまいそうで、私は彼の服に顔を埋めた。