こいはなし

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<<ケース3:リーンハルト・ハイゼンベルクとリーリヤ・カトゥアールの場合>>


 この距離は抱き寄せるには遠すぎて、触れるには近すぎる。
「どうしたの、ハルト?」
 隣に座るリーリヤが案ずるようにこちらを見上げる。
「んー? 何が?」
 ゆるくウェーブのかかったハニーブロンドの長い髪をお団子にして結い上げていて、透き通る瞳はヘーゼルの綺麗な色だった。きめ細かく滑らかな肌に、柔らかな曲線を描く頬に、決して大きくはない胸に、そこも含めて女性らしい華奢な身体。
 自分の愛するその全てが夢のように不確かで、手を伸ばしていいのか戸惑うのだ。
「なんだか、遠くを見てる」
 リーリヤがこちらを見ている、彼女が心配そうな顔をして伸ばした掌が頬に触れる。温かな体温が直接頬を伝わってきて、けれどそれも霞がかかったようにぼやけている。
 視界に映る彼女の姿は鮮明に脳裏に焼き付くのに。
「そうかぁ? 気のせいだって」
 軽く笑って誤魔化すと、軽く頭を振って手を振り解いた。名残惜しげに離れた掌、その指先までが繊細な作りをしていて、
 ――目に毒だ。
 思わず目を逸らす。視線が宙を彷徨って、自分の足元で落ち付いた。
 意気地無し。
 そう罵ったのは誰だったか。そう罵られたのは誰だったか。もうそれすらも漠然としている。
 けれど、あの日の自分が守れなかったものが何だったかはよく覚えている。
 あの日自分が傷つけたものが何だったかはよく覚えている。
「こーらっ」
 両頬を包み込まれて、目の前にリーリヤの顔があった。力任せに横向かされた顔を覗きこまれている。
 自分の顔を押さえ込む力は力強いとは全く言えなかったけれど、妙な安心感が確かに存在していた。
「何考え事してるのよ。気のせいなんかじゃ絶対ないんだからねっ」
 つんと口を尖らせる彼女の目には、自分はどう映っているのだろうか。
「んー……そうだな」
 目の前の身体を抱き寄せると彼女の瞳が大きく見開かれて、その中に映る自分と目が合った。思わず漏れたのは嘲りの笑み。自らを嘲る、愚者の笑み。
 それを映す色が翳るのを見て、ハルトは慌てて表情を塗り替えた。
「こうしてリーリヤといられんのが、幸せだってトコか」
 そしてその額にキスを落とす。
 呆けたような顔をしたリーリヤが、次の瞬間頬を赤らめて、きっと眉を寄せてハルトの胸を握りしめた手で殴り付けた。
「だっ、騙されないの、そんな顔じゃ全然なかったじゃないっ」
 ぽかりぽかりと、繰り返し殴りつけてくる拳が酷く優しく、愛おしい。
 彼女から触れてくる限りは、こんな距離などどこまでも近くなるのだ。
 ――だからこそ、恐ろしい。
「そんなことねーよ。俺はどんな顔してたってお前のこと考えられんだから」
「〜〜〜っ」
 リーリヤは声にならない声を零して顔を抱え込むようにして俯き、その表情を隠した。ハルトの腕の中で小刻みに震える細い身体が、真っ赤に染まったうなじが愛らしく、
 どうしようもなく愛しているのだと、否応がなしに再確認させられる。
「そ、そんな風に言ったってぇ……」
「言ったって?」
 抱え込んだ腕から覗く耳元に軽く息を吹き込むと、ひゃっと小さな声を漏らして顔を上げる。腕の中で何度も何度も瞬きを繰り返した彼女は、むっと不機嫌そうな顔になってぶうたれる。
「………ハルトのいじわる」
 それが真っ赤な顔で言うものだから、いじらしいことこの上ない。
「ははっ」
 ハルトはリーリヤを抱き締めた。強く強く、けれど彼女を傷つけないくらいに抑えて。彼女が痛みを感じないくらいに抑えて。全力では抱き締められないけれど、このくらいでいいはずなのだ。
 彼女が確かにここに存在すると確認するためには、全力などいらない。
 抱き返してくる腕には精一杯の力が込められていて、それが羨ましくて妬ましい。自分の恋人が妬ましいというのもおかしな話だけど、妬ましい以上に好きなのだから問題はない。
「悪かったよ、リーリヤ」
 だから機嫌を直してと、今度は唇にキスをする。甘えるように耳朶を啄みながら、囁くように謝罪する。
「ごめんな」
 意気地無しの謝罪など、受け入れてくれる人はいないけれど。



 彼が自分の傍にいて、迷いを見せないときはない。
「どうしたの、ハルト?」
「んー? 何が?」
 それが不思議で問いかけても、ハルトはいつもそうやって問い返す。訪ねているのはこちらだというのに。
 見降ろすアンバーの瞳はきらきらと綺麗なのに、リーリヤのの知らない危うさをいつも孕んでいる。
「なんだか、遠くを見てる」
 その危うさが、自分を映さずに違うものを映すのだ。リーリヤは手を伸ばした。彼の頬に触れて、自分のものより冷たい肌に触れる。
 彼の頬は冷たい。腕や胸は温かいのに、頬だけがいつも冷たい。
「そうかぁ? 気のせいだって」
 ほら、またそうやって誤魔化す。顔をずらされて掌が外れて、リーリヤは寂しさを感じながら手を引っ込めた。
 ハルトは笑みを浮かべたあと、何かを探し求めるかのような表情を見せた。リーリヤの知らないものを探して視線を彷徨わせ、けれど見つからず、諦めて視線を落とす。
 その瞳には諦念と懐古が映し出されて、それらは全てリーリヤの知らないものだ。
 自分ばかりが知らないことに、彼は今尚囚われている。
 自分ごときには触れられないものに、彼は今尚執着している。
 それが悔しくて、また手を伸ばす。
「こーらっ」
 ハルトの顔を両手で包みこんで、無理矢理自分の方を向かせた。顔を覗きこむと、迷子だった子供のような顔。
 それが何かを見つけたように見えて、それが自分であることを願った。
「何考え事してるのよ。気のせいなんかじゃ絶対ないんだからねっ」
「んー……そうだな」
 精々怒ってみせていると、不意に引き寄せられて思考が停止する。混乱し、沸騰しそうになる頭の中が、彼の目を見て俄かに鎮まる。
 彼が見ているのは、彼だった。
 彼が浮かべているのは、嘲笑だった。
 一瞬のそれが、リーリヤの脳裏に強く焼き付いて――どうしようもない悲しさだけが、余韻として残される。
「こうしてリーリヤといられんのが、幸せだってトコか」
 どこか浮ついたようにおどけた声を詰問するより前にその言葉の嬉しさやら恥ずかしさやらが思考を支配して、何も言えずにいる間に額に口づけられた。
 それだけで色々なものが吹っ飛んでしまう自分の愚かしさが疎ましいけれどどうにもならず、せめてもの反抗でしかめっ面を作った。握りこぶしでハルトの胸を何度も叩く。
「だっ、騙されないの、そんな顔じゃ全然なかったじゃないっ」
 諦念も懐古も嘲笑も、自分には届かないところにあるもので、幸せとも程遠い。
 なのにどうしてそんなことを言うのか。嘘は時によって優しくも残酷もなるけれど、今の嘘は後者だ。そんなことはないと分かり切っていて、けれど嬉しくて、だから残酷だ。
「そんなことねーよ。俺はどんな顔してたってお前のこと考えられんだから」
「〜〜〜っ」
 この期に及んでまだそんな言葉を重ねるのか。――というか、純粋に恥ずかしい。他に誰も聞いてなくても恥ずかしい。どんなシチュエーションでもこれは恥ずかしい。
 明らかに上気してしまっている頬を、みっともない顔を見られたくなくて、リーリヤはハルトから顔を隠した。抑えられない身体の震えは、抱き締められているのだから当然伝わっているだろう。それも含めて、この上なくいたたまれない。
「そ、そんな風に言ったってぇ……」
「言ったって?」
 やられっぱなしは嫌だけれど、反論の言葉も浮かばなかった。駄目押しとばかりに耳を打つ吐息、ぞくりと背筋が色めいて震える。思わず上がった顔、ハルトと目が合って、驚きに繰り返し目をしばたたかせる。
 反論できないけれど、できないなりになんとか反撃はしたくて、精々不機嫌な顔を作って見せた。
「………ハルトのいじわる」
 全く効果がないだろうことは、自分でも分かっているのだけれど。
「ははっ」
 ハルトの笑う声、次の瞬間、抱きすくめられてリーリヤは目を丸くした。強い、強い力で抱きしめられて、だけどリーリヤは全然痛くない。彼は全力ではないのだと、自分を気遣って力を抑えているのだと、そういうことが手に取るように分かってしまう。
 だからせめて、自分だけは。自分の方だけはと、彼を全力で抱き締めた。
 そうでもしないと、非力な自分はこの存在を十分に主張しきれないから。
「悪かったよ、リーリヤ」
 機嫌取りみたいに囁かれる声は、実はそんなに嫌いではない。それだけ気にしてくれているということになるから。全然気にされなくなることこそが、一番怖いから。
「ごめんな」
 だから最後のごめんは嫌い。それが誰に向けられたものか、リーリヤには全く分からないごめんだったから。


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