どこにもないもの

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「恒久の平和」


 父に手を引かれる少年の瞳は硝子玉のように透き通り、まっすぐに前を見つめていた。白磁のような肌とか、どこか空虚な表情とかもあいまって、まるでお人形さんみたいだと思った。
 それが自分の中に在るもっとも古い記憶だった。

 そして、今は彼の背中を見ている。
 台所に立つ彼の背中は昔と同じで決して広くも大きくもない。いや、物理的には間違いなく大きくなっているのだろう。けれど自分の目には、その後ろ姿はどうしてもか細く不安定なものに映った。
 彼が頼りないというわけではない。彼は強い。そのことは長い間共に過ごしてきて、守られてきて、十分すぎるほど分かっている。
 それなのに、どうしてこんなにも儚く、今にもくずおれてしまいそうに見えるのだろうか。
「……サラ?」
 衝動的にその背中に抱きつくと、根菜を切り揃えていた彼は手を止めて自分を見降ろした。頬に絆創膏が貼られているもののその表情は極めて穏やかで、初めて会ったときの無機質な印象のそれとは大きく異なって暖かだ。虚ろな人形のものではなく、中身の詰まった人間のものであると思える。
 包み込むような眼差しの奥に光る瞳は青灰の美しさを保っていたが、しかしもう硝子玉などでは決してなかった。優しく緩められた口元も、少し下がった眉も、あの時とは段違いに人間らしく表情豊かだ。
 今の彼はエプロンを着て手に握っているのは包丁で、相対しているのは野菜で、何をしているかというと食事を作っている。生活感溢れる場面で、どうしようもなく平和で、この上なく幸せだ。
「ほら、包丁持ってるのに危ないですよ」
「……お手伝いしたいの」
「じゃあ、冷蔵庫から牛乳を出していただけますか」
「うん」
 それでも自分は知っている。抱きしめた背中の下に、長袖に覆われた腕の下に、無数の傷跡が隠されていることを。
 未だにあの武器ばかりが仕込まれたコートを羽織らなければならないことを。銃を握らなければならないことを。人を相手にその引鉄を引くことを。時折薬を服用していることを。
 その時の彼の瞳は、人間のものでも人形のものでもなく、狂気を孕んだ獣のそれであることを。
「はい、これ」
「ありがとうございます。そこの鍋の隣に置いておいてください」
 言われた通りに牛乳を置く。彼は未だに包丁を動かしていて、その牛乳は火急の用ではなかったのだろうと思う。
 『手伝いたい』と言った自分の意思を尊重したまでで。
「……ねえ、ユーグ」
「なんでしょう?」
 呼べば彼はこちらを向く。変わらぬ笑顔を向けてくれる。
 柔らかな、慈愛に満ちた目で見つめてくれる。
「今度から私も、お料理してみたいの」
「……サラが? わざわざそんな……」
「してみたいの」
 駄目押しのように繰り返して彼を見上げた。目を丸くした彼は少し逡巡してから腰を折り、自分と目線を合わせた。
「……そうですね、貴女が望むのなら、それもいいかもしれません」
「レシピの本なら読んだことあるのよ、色々知ってるわ。オムレツでしょう、サラダでしょう、ポトフでしょう……」
「本で読むのと、実際やってみるのは異なりますからね」
 指折り数える自分に笑いかけて彼は身体を伸ばした。まな板に向かい合ってから、思い出したようにこちらを振り向く。
「最近は平和ですし、色々と挑戦してみましょう」
 平和。
 彼の口から紡がれた、最も彼に似合わぬ言葉に、思わず笑みが零れた。
「……よろしくね」
 彼は優しい。
 こういうちょっとしたお願いなら簡単に聞いてくれる。時には望みが通らないこともあるが、それも自分を思ってのことで、今の彼の全ての行動は自分のためだ。
 故に戦い続ける彼の心の中には、平和などどこにも存在しない。
 また、彼が自分を守る理由を知ってしまっている以上、自分の心にも恒久の平和など訪れ得ないのだ。


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