どこにもないもの

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「度胸」


 幸せになるために必要なものはこの世には沢山あるのだと思う。
 なければ絶対に幸せになれないと断言する気はないけれど、必要であることを疑うつもりはない。
 たとえば、
「………」
 墓標の前に一人立ち尽くす想い人を、抱きしめるための度胸とか。
 アイカはありもしない唾を飲み込もうとからからに乾いた喉を鳴らした。
 後をつけたつもりはなかった。そもそもアイカ自身も墓参りのためにこの墓場へ赴いたのだ。その途中で見慣れた背中を見つけてしまい、声をかけることも追い越すことも引き返すこともできなかっただけで。
 彼女の邪魔をしたくなかった。
 何せ最近の伊鶴はアイカを見るたびに表情を曇らすのだ。それはもう、なかなか露骨な感情表現だ。嫌われてはいないと思っているが、そのことを疑ってしまうくらいに。
 いっそ嫌われていると割り切った方がいいのかもしれない。
 黒く艶光る墓標を見つめ、彼女はもう四半時も動かない。そんな彼女を後ろから見守って、アイカもまたその場から動くことができなかった。足が動かない。
 腕に抱いた二束の花束が重かった。
(……う、うわ)
 今までじっと動かなかった伊鶴が唐突に振り返った。顔を上げて、背筋を伸ばして。
 頬に透明な滴を伝わせながら。
 その凛とした美しい姿に、アイカはいつでも見惚れていた。
「……どうして」
 目の前の赤い唇が薄く開かれた。濡れた黒い瞳がまっすぐにアイカを捉えている。
「どうして、あなたがここにいるんですか」
 呆然とこちらを見る伊鶴を見て、自分もこんな顔をしているのだろうかと思った。
 乾きに乾いて張り付く口内を無理矢理開く。喉がひどく渇いていた。
「伊鶴さん」
「だって、嘘よ、あなた……まさか」
 頬を伝う涙が零れて足元の芝に吸い込まれていく姿さえも美しいけれど、その美しさは危うさと表裏一体だ。
 手を伸ばしたら、崩れてしまいそうな。
 濡れた瞳でこちらを睨みつける表情は険しく儚い。
「私を、尾けて……」
「そんなことするわけないでしょう!」
 否定の言葉は思いのほか強い調子を帯びてしまい、彼女の身体が僅かに竦んだ。
 温くまとわりつくような風がアイカの頬を掠める。
「……俺は、俺自身のための墓参りに来ただけですよ」
 先程からひどく重く腕にのしかかる花束を伊鶴に示す。小さな白い花は、軽く動かすたびにその花弁を散らした。
「結果的に尾けるような真似をしてしまったことは謝ります。すみませんでした」
「……私は」
 何事か紡ごうとする口を、軽く手を挙げて制した。首を振って表情を緩める。
「………」
 何も聞きたくないし、何も言いたくなかった。
 アイカは伊鶴に背を向けると歩き出した。もっと早くから、彼女から目をそらせば良かった。墓参りなど今日する必要はないんだから、また今度にすれば良かった。どちらにせよ、こんな気持ちで墓参りなど出来るはずがない。
 立ち尽くす背中も、伸びた背筋も、濡れた瞳も。
 アイカの瞳に映った全てから、彼女が亡き伴侶に対して抱く全てが否応がなしに分かってしまったから。
「……くそっ」
 墓標を前に立ち尽くしていた彼女は、あの時、確かに愛しき人に抱かれていた。
 夢のようなまどろみに浸かりながら、彼女が思い出すのは懐かしき日々だ。
 そしてアイカは、彼女の心の中で宝石のように大切に仕舞われているその日々に、触れることすらできない。
 何があっても、叶わない。
「卑怯だろ……」
 死は美化される。
 彼女の夫は失意のうちに命を落としたのだろう。愛する人を残して死ぬことを望んだはずがない。アイカ自身も父を、父と慕った人を亡くしている。その時の気持ちと、世界が暗く崩れていくようなあの感覚は忘れられない。
 それでも、彼の人を卑怯だと思った。死によって美化され、彼女にとっての至上の宝物となった彼を。

 頬を伝う涙一つ拭う度胸を持たぬ自分に、彼を恨む資格などありはしないと知りながらも。


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