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11.預ける


 リフレインとフラッシュバック。
 呼びかけられたその声を、自分は聞き届けてなどいない筈なのに。
 耳に囁かれ続ける言葉は視界と同じにぐるぐる回って、ただ、ひたすらに気持ち悪い。

 おまえが、と。
 おまえなど、と。

 遠く在るはずのそれが間近に迫る。
 あのひとはなんと言っていたか。
 あのひとはなんと自分を罵ったか。

 思い出せない。思い出したくなどない。
 それなのにこのあたまはそのすべてをおぼえている。
 ひとりでに再生される一言一句が心を囚えて蝕んで、どこにも逃さないと嗤っている。
 そのくせその唇は紡ぐのだ。
 おまえなど必要ないのだと、どこかに行ってしまえと、そう突き放すのだ。

 だからどこにもいけなくてこんな所で蹲っている。

 頬を伝うのは汗だろうか涙だろうか、こんなところでこんなことで泣くだなどと情けない、だからきっと汗なのだと思うのだけれど、それを確かめることなんて出来やしない。
 上がらない腕は身体を支えるので精一杯で、少しでも気を緩めたら潰れてしまいそうだった。
 たすけてと心が叫ぶ。心ばかりが叫ぶ。
 いつまでたっても整わない呼吸に、酸素を求めるだけの口で、助けを呼ぶことなどできないから。
 だから誰も助けてなんかくれなくていつまでもこうして一人きりでいるしかないのだとそんな風に思っていたから、

「……ロジェ、か?」

 その声は光明という表現ではきっと足りなかった。

「……あ、」

 顔を上げて確認できたのは紛れも無い彼の姿だ。
 案ずるようなその視線は初めて見たような気がするけれど。
 それでもその声も、その服も、その顔も、間違いなく、彼の。
 日陰から見上げるその影が、妙に眩しく見えたような気がした。

「どうした、気分でも悪いのか」
「旦那、何で」
「私が出歩いていてはおかしいか」

 どうして、と思う。
 どうしてあなたがここにいるのですか。
 反射的にそう思ってしまったけれど、彼の言うとおりで、考えるまでの話でもない。
 彼とて精霊協会に所属する冒険者なのだから、ハイデルベルクにいるのは当然で、でも普段は仕事が終わるとすぐに別れてしまうから、仕事以外では会えないものだとそう思い込んでしまっていただけで。
 ――そう、当たり前なのだ。

「……いや、そっか」

 当たり前なんだからこんなことで動揺していてはいけない。
 こんなところで這い蹲っているわけにも行かないと無理矢理に立ち上がろうとして、笑った膝がそのまま地面をついた。
 掌で身体を支える。一人呆然と言葉を落とす。

「ここに、いるん、だよな――」

 分かっていた。
 あのひとは、最初から、ハイデルベルクにいるはずの、ひとだった。

 だから会ってもおかしくない。
 どこで会ってもおかしくはない。
 自分は帰ってきたのだから。
 
 こんな場所では生きられないと、逃げ出したはずのこの地に、自分は帰ってきたのだから。

「どうした」

 そうして伸べられたその掌の意味すら諒解できなくて彼を見返す。
 この掌を、どうすればいいのか。
 握ればいいのか、引き寄せればいいのか、縋ればいいのか。
 ただの重たい枷に成り下がるなら、自分など存在する価値もないというのに、どうしてその掌に触れることが叶うだろうか。

 だから遠い目の前の掌をただ眺めていた。

「………」

 暫し、沈黙。
 宙を彷徨った掌は行き先を戸惑い、幾許かの逡巡と共に挙げられて、

「……っ」

 音もなく頭へと載せられていた。
 無意識に身体が跳ねる。身を強張らせたのは戸惑いと混乱と、
 ――リフレインとフラッシュバック。
 目の前で明滅するそれは、瞳を閉じても消えてはくれない。

 そうしてそろりと離れていく掌の感触を、少しだけ、名残惜しく思った。
 瞼を開ければ相も変わらず彼の姿がそこにある。
 こちらを見ている。

「何もしない」

 彼はそう言った。

「……なにも、」
「私は、お前に害なすものではない」

 淡々と述べられる静かな声だった。
 その声と同じくらいに淡々と、彼は、ただそこに在った。

「……うん」

 だから素直に頷けたのだと思う。
 その言葉に振る舞いに、説得力を見出したのかどうかは分からないけれど。
 けれど、自然と納得できたのだ。

「……旦那は、そんなこと、しない――」

 そう零せることの、なんと幸せであることか。
 それが彼に伝わることのないようにと、心の片隅で願った。
 伝わってしまったならきっと彼も遠くに行ってしまうから。

 そんな風に願っていたから、膝を折った彼と間近で視線が合って、少しだけ心が震えた。

「何かあったのか」
「……え、と」

 問われて言葉を詰まらせる。
 話していいことなのかと躊躇って、話したいことなのだと不意に悟った。
 それが彼に問われたことであるならば。

「……ひとに、会ったんだ」
「何かされたか、言われたか」
「言われてない」

 否定に首を振る。

「……言われたかもしれないけど、聞いてないし……覚えてない」
「話しもせず、逃げるほどの相手か」
「逃げ、……」

 たわけではない、とそう続けるつもりだった。
 その反駁が途中で呑み込まれたのは、自分の取った行動が他ならぬ逃亡であったのかもしれないと、今更気付いたから。

「……た、んだ。そうだ」

 あの日の自分をそのままなぞるように、自分はあのひとから、逃げていたのだろうか。

「逃げたんだ……」
「逃げようとしたわけではないのか」
「わかんない……」

 思い出すだけで身が震えた。脂汗が滲む。
 纏わりつくような悪寒と寒気に、思わず身体を抱く。

「……たぶん、逃げた、んだと、思うけど」

 わかんない。おぼえてない。
 子どものように繰り返しておきながら、思い出したくない、とまでは言うことが出来なかった。
 それが本心かも分からなかった。

「……そうか。それなら、お前は、逃げたかったのか?」

 逃げたかったか。あのひとを前にして、自分がどうしたかったのか。
 何を求め、何を拒否したのか。

「……会いたくない」

 そうして吐き出した言葉が、果たして彼の問いに答えられているかどうかは分からなかった。
 少なくともそれだけを強く望んでいるのだとそれは確かで、故にその声には、常よりは強い感情が滲んでいるような気がした。
 恐怖。嫌悪。倦厭。忌避。

 そういった諸々を溢れさせることが、ひどくつらい。

「それなら、逃げろ。迷う必要はない」

 極めてきっぱりとした声だった。
 思わず視線を上げる。

「それとも打ち倒して、二度と会うことのないようにしたいか。それなら、私は止めるが」
「……そういうの、じゃない。……打ち倒すとかって、よく、わかんないし」
「なら、逃げていていい」

 語る彼の姿は常のそれよりも大きく見えて、縋ってもいいだろうか、と気の迷いのような思考がちらつく。

「逃げて失うものがあるのでなければ、逃げてもいいんだ」

 きっとそれはどこまで行っても気の迷いでしかなく、許されることはないのだろうけど。
 彼の肯定が言葉が声音が何よりも嬉しくてその存在が尊いものに思えてしまう事実は、確かにそこに横たわっている。
 認めることなど出来なくても、事実としてそこにある。

「うん」

 だからせめてと頷いた。
 彼の言葉を受け入れて、心を預けてしまった。

「……うん、そうする」
「それでいい」

 二度頷く。
 ずっとしゃがみ込んだままの身体をやっと起こして、こうして彼を見下ろすのが、なんだか妙に久しぶりに思えた。
 それがおかしくて、少し笑う。

「……ありがと、旦那」
「私が何かしてやったわけではない」

 返答も声音も態度もいつもの無愛想なものに戻っていて、嬉しいような寂しいような複雑な気分である。
 そんな風に気を緩め、完全に安心しきっていた。

「――旦、那?」

 だからこそ彼のその様に、それこそ過剰なまでに、心を冷やしてしまったのだろうと思う。


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